第一話 (三)
背後から聞こえてくるのは金属が擦れるような音。
どこか無機質に思えてしまうその音は絶えず鳴り響き、祭壇の前で静かに佇むロングコートのような足下まで伸びた長い衣類を、光沢のある幅広の装飾用の帯で締めた壮年の男へと届く。
彼がどのような立場の者であるのかは、ここが大聖堂である事と身に纏う衣類が穢れ無き白である事ですぐに分かる。教会という場所において、神聖なる白を身に纏えるのは「教皇」という立場にある者のみ。つまりはフィーメア神国を統べる者という事だ。
そんなこの国においては天上人に近しい者に対して――
「教皇! 悪い知らせがある」
大聖堂という場所には不釣り合いな甲冑姿の老騎士、ヴォルドが声を張り上げた。
彼が轟かせた野太い声は高さ四十メートルを誇る大聖堂の天井を揺らすのではないかと思う程で、教皇は一度眉根を寄せる。
だが、いつまでも呆けている訳にもいかずに――
「そんな大きな声を出さなくても聞こえています」
教皇はすかさず穏やかな声を、振り向きながらも届ける。
これ以上、鼓膜を破壊されるような大声をここで出して欲しくない。国を統べるという立場上は政治に軍事など、陰謀渦巻く話をしなければならない時もあるが、ここはそもそも教会なのだ。出来る限りは静かに祈りを捧げる場所にしていきたいと思うのである。
「何を悠長な事を! 舞姫が出たのだぞ!」
だが、ヴォルドはそんな事はお構い無しに再び声を張り上げた。
どうやら目の前の脅威に脳内を埋め尽くされているらしい。だが、衰えという言葉を知らない老将は六十を過ぎてもまだまだ現役で、白い短髪と同色の髭に隠れた口元は不敵に歪んでいるように思う。彼と同い年である教皇は、見えずとも彼が笑っている事が分かる。長い付き合いというのは本当に恐ろしいものだと思えてならない。
しかし、それはこの場においては特には関係なくて。
「分かっております。すでに傭兵団には連絡してあります。騎士団の役目は……後詰めでしょうか」
教皇は必要な言葉のみを返す。
このまま他っておくと、大聖堂にてお勤めをしている修道女が怯えてしまう可能性があるからだ。もしかしたら、すでに手遅れなのかもしれないが。
それを確認するために、教皇は素早く視線を左右へと走らせる。
すると、今の今まで等間隔に並んだ長机の拭き掃除をしていた修道女は予想通りに薄っすらと瞳を濡らしていた。そんな彼女達に向けて教皇はヴォルドには気づかれないように、そっと大聖堂のドアへと視線を向けて合図。掃除はいいから少し外に出ているように、そう伝えたのだ。
そんな細かな心遣いをしていると。
「アールグリフの所か? 貴族が率いているとしても、所詮は傭兵だ。甘やかすと舐められるぞ」
ヴォルドが苛立ちを隠しもせずに、教皇へと意見を述べた。
彼が怒りを覚えるのは騎士を無視して傭兵団に頼った事なのか、それとも長年の友人である自身を頼らなかった個人的な怒りなのか。
それは分からなかったが、立場上は好き勝手に言われたままでいる訳にもいかず。
「彼は最強の手駒を持っていますからね。彼で無くても舞姫を退ける事は可能ですが……こちらの消耗を考えれば得策ではありません」
老将が気に入らない彼らを選んだ理由を的確に述べる。
アールグリフが率いる「シュトゥルム・ステイト」は確かに他の傭兵団と比べて実力は秀でているが、正規な騎士と比べれば保有する戦力という面では見劣りする。それでも彼らを選んだのは「白犬」と呼ばれる切り札を持っているからだ。
自らを潔白だと宣言するかのように真っ白な衣類を好んで着用する、氷雪種によって汚染された者。この国で生きるためだけに、黙って命令を聞き続ける少女だ。
性別を隠すために「カイト」と名乗っているようだが、さすがに教皇という立場上は正体を知っている。しかし、汚染者の性別がどちらであろうと興味がない教皇は、いちいち公表して反感を買う気はない。
そんな彼女がこの国に留まる理由はただ一つ。彼女の義妹と共に過ごした、この国で待っていたいだけ。そんな無垢な心を持った者を利用する教皇を、この国とは無関係の者が知ったならば「外道」にしか見えないだろう。教皇などと呼ばれるのは片腹痛いのかもしれない。
しかし、そう言われようとも利用可能なものは何でも利用しなければならないのが現状だ。全方位を敵に囲まれたフィーメア神国が生き残るためには、すでに手段を選んでいられる状態ではないのだから。
そんな教皇の考えを知ってか、知らずか。
「化け物には化け物か。確かに彼女の舞を止められる者など……そうはいないだろうからな。だが、それでも儂は行かせてもらうぞ」
老将は言葉を残して背を向けた。
どうやら彼は「自身も戦場に赴く」という事をわざわざ伝えに来たらしい。止めても無駄な事は長年の付き合いで知っている。彼を止められた事など一生の内で一度か二度くらいしかないのだから、それはもうよく知っているのだ。
しかし、感情論だけで主戦力である騎士を失う訳にはいかない教皇は――
「行くなとは言いません。ですが、条件があります」
彼の背中に声を掛ける。
「――なんだ?」
まさか声を掛けられるとは思っていなかったらしいヴォルドは、振り向くと共に不機嫌そうに表情を歪めた。
だが、当然その程度の事では揺らがない教皇は、一度深呼吸をして思考を整理すると。
「交戦を開始するのは傭兵団が舞姫を退かせ、本命の部隊を誘い出してからです。それまでは待機して下さい。もしこの指示を破った場合は『教皇』の名を持って……あなたを裁きます」
無表情を貫いて、絶対者の言葉を届ける。
「――彼らが舞姫を退かせる事が出来なかった場合は?」
すると、ヴォルドは表情を変えずに一つの問いを投げた。
さすがに「裁く」という言葉を使っただけはあり、彼なりに確認しておきたい事があるらしい。事前の確認を念入りにする所は、さすがだと言うべきか。
ならば、包み隠さず話してしまうのが正解だろう。
「一度、撤退して下さい。戦力を整えた後に迎撃部隊を派遣します」
そう判断した教皇は可能な限り感情を殺して、淡々と語る。
自身が発した声に個人的な感情が入ってしまえば、どうしても他者に対して甘くなってしまうからだ。その甘さが原因で教皇の立場が危うくなるだけならばいいのだが、国全体を揺るがす事に繋がる可能性もあるのだから慎重にもなってしまう。
しかし、それはあまりにも冷酷に聞こえたらしく。
「――見捨てるというのか?」
彼は声を震わせて、再び問うた。
失敗したら切り捨てられる。そう思えば、確かに恐怖を感じるのも致し方ないのかもしれない。しかし、彼は一つ勘違いをしている。
それを訂正するために、教皇はゆっくりと口を開いて。
「ええ、見捨てます。それは彼らが傭兵団だからです。代わりなど幾らでも手配出来ますからね。しかし、あなた達のような騎士は別格です。あなた方には……常に国の英雄として祀られる必要がありますから」
心の内を語っていく。
傭兵と騎士では差があるのだと、彼によく理解してもらうために。そして、教皇を支える英雄としてあり続けてもらうために。
「それで戦いに勝てると? お前は戦争というものを知らんな」
だが、彼は表情を曇らせるだけだった。
頭では理解しているのだろうが、良心がそれを許してくれなかったのだろう。
「知っていますよ。ただの殺し合いでしょう? 如何に相手に有効な打撃を与えるかで全てが決まってしまう殺し合いです。そもそも戦争などというものは、戦いが始まる前に勝敗は決まっているものですよ」
そんな彼へと浴びせたのは、反論すら許さない冷酷な言葉。
もしかすれば傲慢に聞こえてしまうのかもしれないが、教皇の脳内には勝利のイメージが膨らんでいるのは言うまでもない。切り札たる白犬と傭兵団が舞姫を弱らせ、敵の部隊を引きずり出す。以後はヴォルドが率いる騎士がクエリア神国の狂信者を殲滅すれば勝利は必ず手に入る事だろう。
仮に失敗しても、主力である騎士が無傷であれば手の打ちようはある。優秀な傭兵団を失う事は痛手だが、勝利が手に入るのであれば安いものだ。
「お前はいつから……そこまで歪んだ」
ヴォルドはさすがに長きに分かって兵を率いているだけはあるのか、教皇の考えを見抜いたようで、溜息交じりに言葉を吐き出した。
「神の僕に軍事までやらせたら……こうもなります。何せ私の命令一つで人が死ぬのですからね。宗教と戦争が混じっている事がそもそも間違っているのです。まあ、そうは言いますが……私自身が聖なる者である事は否定しましょう。ですが、全てはフィーメア神国の勝利のため……それだけは信じて下さい」
そんな彼へと届けたのは本音だった。
表も裏もない真実の言葉を吐き出した教皇は自身がどんな表情をしているのか知りたいと思うが、それは叶わない。出来れば微笑んでいる事を切に願うのだが。
「そんな泣きそうな顔をされたらな。いいだろう。俺は……俺だけはお前を信じよう。何があっても」
そんな教皇に微笑んだのはヴォルド。
武骨な表情を緩めた彼は遠い昔に馬鹿をやった頃のままで、教皇の心を一瞬だけ緩めてくれたが、それはほんの一瞬だった。
懐かしさを感じさせる大きな体が、ここでの役目を終えたと言わんばかりに動いたからだ。もう何を言っても無駄な事を悟った教皇は、彼の大きな背中を静かに見送る。
彼らが対峙するのは「血染めの舞姫」と、クエリア神国の狂信者達。
先ほどから舞姫と呼ばれている存在は、隣国であるクエリア神国にて神として祀られている少女だ。名前の由来は鮮血のような赤き甲冑を身に纏い、まるで舞う様に突撃槍を振るう事から名づけられている。彼女の槍は武に秀でた者でしか視認する事が叶わない程に速く、まさに神の名を冠するには十分な実力を有しているらしい。いや、神というよりは「悪魔」か「邪神」の類だろう。
その邪神を狂信的に信じ、彼女の声に導かれて命すら投げ出す者達が住むのがクエリア神国。対するは神の僕たる「教皇」を信じるのはフィーメア神国。
――神を信じる聖戦、誇りある宗教戦争。
そう呼べば何とか形になるような気がするが、所詮は殺し合いでしかない。そこに綺麗も汚いもないのだ。
ゆえに、どんな手段も使う。例え名前すら捨て去った少女がどこかで朽ち果てようとも、勝てるならばそれでいいと思う。
「私は……悪魔だな」
そこまで思い至った時には声は自然と漏れ出ていた。
しかし、その声を聞く者は誰一人としていない。修道女はヴォルドの大声が追い払ってしまい、そのヴォルドもいつの間にか大聖堂を出てしまったからだ。
一人残された教皇は汚れきった心を密かに呪い続けた。




