プロローグ
第二部のプロローグです。
主人公が違いますが、後々は第一部のキャラとの関わりも書いていこうと思います。更新は「水曜日」と「土曜日」です。
それでは一人でも多くの方に読んでいただけるよう努力していきたいと思います。
氷結の歌姫 ――もう一度あなたを抱きしめたくて――
――プロローグ――
「……酷過ぎるよ」
干からびた喉元から絞り出されたのは、そんな言葉だった。
言葉は意図して出したものではない。ただずっと心の内で溜めこんでいたものが、ついに外へと解き放たれたのだ。解放された言葉は好むと好まざるとは関係なく、一人の人物へと届く。肩口まで伸ばされた絹糸のように細く煌びやかな金色の髪に、どこまでも澄んだ青い瞳を有した人物へと。
おそらく一目見ただけでは、発する声の高さも相まって少女に見える事だろう。
しかし、その人物の名は「カイト・ラーバスティン」という男性の名前で、近隣に住む者はこの人物が男性なのか女性なのかを判断出来ないでいる。
だが、そんな些細な事はこの世の終わりを見たかのような絶叫が鳴り響く戦場においては誰も気にする事はない。当然、カイトが発した言葉を気にする者はいなかった。
と言っても、届いた所で何かが変わる訳では決してない。全方位から聞こえる絶叫も、自身が発した声でさえ何の救いにはならないのだから。あと数秒か、それとも数分後には皆例外なく断末魔の叫びを雪が疎らにちらつく寒空へと届ける事になってしまうのだから。
一体何がカイトを、そして周囲の者達をそこまで追い詰めるのか。それは眼前に広がる白銀色に輝く「何か」を見ればすぐに分かる。
白銀色をした「何か」。
そう表現した理由は、その正体をカイトは知らないからだ。
ただ「氷雪種」という名で呼ばれる、氷の鱗で覆われた人外の化け物だという事しか知らない。噂で聞いた話では、氷雪種は地を狼の如く駆け抜け、時には雪のように真っ白な霧となって、その姿を霧散させるという。
(これが……そうなの?)
知り得た情報に酷似した化け物を、青い瞳で捉えたカイトは心中で呟く。
確かに障害物が見当たらない平原を駆け抜けるのは、四足を有する氷鱗に包まれた化け物だった。正直な事を言うならば見間違えであってほしいけれども、こうも情報通りだとするならば間違いはないのだろう。
目的も正体も分からない未知なる獣。
恐怖以外に何も感じる事はない敵は細くしなやかな四肢で強く、それでいて鋭く地を蹴って疾走する。その疾走に伴って舞うのは、地に咲く可憐な花々と平原に生茂る短い草。
だが、色鮮やかな花々も豊かな自然の力を感じさせる緑も一瞬で失われてしまう。ただ地を駆ける獣に触れただけだというのに、その姿は遥か先まで見通せる程に透き通った、氷色の結晶へと変貌してしまったのだ。まるで獣に生命を吸われたかのように色を、個性を失った生命は、淡い陽の光を吸って刹那の間、煌めく。
しかし、次の瞬間には澄んだ音色を響かせて、まるで薄いガラスに硬質な岩を投げつけたかのように、あっさりと砕け散ってしまった。
これが氷雪種という未知なる獣が恐れられる最大の理由の一つ。生命あるものならば人であれ、花であれ、ただ触れただけで氷の結晶へと変貌させてしまう力を有しているのだ。
(世界はこんなにも……綺麗なのに)
自身の死が身近でなければ、まるで夢物語の世界にいるかのように美しい、この白銀色の輝きに満ちた光景を見続けていたいと思う。
しかし、この美しさは自身を殺す綺麗さだ。
この美しさに魅入られてしまえば、おそらくふと気づいた時には人から固体へと変わっている事だろう。それだけは何としても避けたいと願う。仮にそれが定められた自身の終末だとしても、カイトは最後の一時まで人として抗いたいのだ。
だからこそ剣を振るう。
例え勝てないと分かっていたとしても。フィーメア神国の兵として、守りたいと願う人のために剣を振るうのだ。それは他の者も同じなのだろう。甲冑を身に纏う騎士も、カイトと同じように臨時に徴収された、主要部位のみを防護する軽装姿の兵も血走った眼で剣を振り回していた。
兵数五千を有していた混成部隊も、すでに数百の数にまで減少した現在。
それでも、誰もが騎士剣の柄を強く握り続けている。誰の目にも負けは見えている戦場の中で、ずっと。ただ生きて、愛しい人をその腕で再び抱きしめるためだけに。
――だが。
そんなカイト達を嘲笑うかのように、周囲を覆い尽くす白き霧は止む事を知らない。それだけでなく蠢く霧の一部は地へと密集し、新たな氷雪種を生み出していく。
まさに終わる事のない絶望だった。
ならば逃げればいい。そう思うかもしれないが、それは叶わない。
何故かと言えば、カイト達を取り囲むように漂う白き霧に触れただけで、氷の結晶となってしまうからだ。正直な事を言うならば、馬鹿らしいと思う。
そもそも戦いにすらなっていないのだ。ただ一方的に狩られるだけでしかない現状は、「愚かしい」の一言で片づける事が出来るだろう。だが、それでも戦わなければいけない理由がこの胸にはある。
全身を燃やし尽くす程の確かな熱が、この胸にはあるのだから。
「……お兄ちゃん」
その熱の正体たる少女がか細い声で囁く。
自分の命よりも大切で、片時も離れていたくない二歳年下の義妹。どこかほんわかとした雰囲気を持った子で、戦いという蛮行には決して向かない心優しい少女だ。
死ぬ事は怖い。だが、大切な人を失う事の方がもっと怖かった。
だからこそ、カイトは――
「僕に――守らせて!」
叫ぶと共に鋭い一歩を踏み込む。
その先が死の道だと分かっていても。明るい未来などない、絶望の世界だとしても。
それでも唯一の家族を守るという理由以外で、剣を取る道を知らないのだ。そんなカイトの青い瞳が捉えたのは、二体の氷雪種。
全身を氷鱗で覆った狼に似た獣だった。
だが、当然それだけで終わりではない。その背後から、さらに五体の氷雪種が地を駆けているのが見て取れた。
(何体、倒せるかな?)
せいぜい二体が限界だと頭では分かっている。
それでも、この手で全てを殺すつもりで、渇いた喉が潰れるのではないかと思う程の叫び声をあげると同時に握った剣を横薙ぎに走らせていく。
薙ぎ払われた一閃は、まるで計ったようなタイミングで飛び上がった狼の頭部を容赦なく切り裂く。いや、正確に言うならば頭部を通過した。
そう判断する事が出来たのは、カイトの手には何の手応えもなかったからだ。まるで空気を切り裂いたかのような感覚。今の今まで幻でも見ていたかのような感覚だった。
だが、幻ではなかった事はすぐに分かる。
先ほど狼がいた場所には穢れを知らないような無垢な純白が広がっていたからだ。どうやら切り裂いたと思った狼は、その身を白き霧へと霧散させたらしい。霧に触れるだけで生命ある者は氷の結晶へと姿を変えてしまう事を考えれば、爪や牙で切り裂くよりも効率的なのは言うまでもない。霧を避けるなどという芸当が出来る者など存在しないのだから当然だ。
(ここまで……だね)
自身の終わりを確信したカイトは、そっと瞳を閉じて白き霧を受け止める。
もう他に出来る事はないと悟った心が、ついに歩む足を止めてしまったのだ。後は氷の結晶となって終わり。
どこか他人事のように、そう思った瞬間。
カイトは突如、後ろから全身を包み込まれた。
誰に抱きしめられたのかは、伝わる柔らかさと温もりですぐに分かった。自身が「守りたい」と願った人の温もりだったのだ。
「ソフィ! 来ては駄目だよ」
もう間に合わない事は分かっていたけれど、カイトは閉ざした瞳を見開いて叫ぶ。
それと共に思う。
この温もりを守りたかったのに、どうして諦めてしまったのかと。どうして自身はこんなにも弱いのかと。全てを超える力があれば。例えば、未知なる獣すら凌駕する力が、何があっても揺らがない意志さえあれば救えたというのに。
だが、それは仮定の話にすぎなくて、背に伝わる温もりは急激に冷えていく。
「先に行くね。私はここまで……でも、お兄ちゃんは無事みたい」
そして、吐息が耳へと届くくらいに密着しているというのに、ソフィのか細い声は注意しなければ聞き取る事が出来ない程に弱々しかった。言葉通りに「ここまで」だと言うのだろうか。
「嫌だよ……どうして。どうして、ソフィが」
彼女は最後の言葉を伝えてくれたというのに、カイトの口から漏れ出たのは子供が駄々をこねるような我が儘でしかなかった。その様を第三者が見たならば、どこまでも見っともなくて、滑稽に映る事だろう。
それでもカイトは自身の心を止める事は出来なくて――
「嫌だ……ソフィ!」
力の限り名を呼ぶ。
彼女の体が凍てついていく、渇いた音色よりも大きな声を寒空へと轟かせていく。
対するソフィは――
「お兄ちゃんだけは助けてくれてありがと。あなたは優しいのね」
今まで聞いた事もないような穏やかな声で「誰か」に囁きかけていた。白き世界に包まれたこの場には、今はカイトとソフィしかいないというのに。
「そっか。あなたは何も知らないんだね。なら……一緒に行こう」
なぜかソフィは言葉を紡ぎ続ける。
全身から氷の結晶を突きだしながらも懸命に。まるでそれが自らの使命であるとでも言うかのように。
「……ソフィ?」
自身の体がなぜ力の影響を受けないのかは不思議ではあったが、それよりも妹が誰と話しているかが気になって仕方がない。
理由は分からないが、不吉な予感が胸を締め付けるのだ。自身をここまで不安にさせるものの正体は一体何なのか。それを確かめるためにソフィの名を叫び続ける。
だが――
「私が教えてあげる。もう誰も戦わなくてもいい方法を」
言葉を受け取った筈の彼女はカイトを抱きしめていた腕を除けて、前へ前へと歩いていく。その先が「死の霧」が集う場所だと分かっていても、その足は止まる事はなかった。
「駄目――駄目だよ!」
もう届くかどうかは分からない。だが、カイトは右手を差し伸ばすと共に叫ぶ。
彼女の手を取って、こちら側へと連れ戻すために。
しかし、差し出された手は彼女に触れる前に止まる。いや、正確にはカイトが探していた彼女はもうそこにはいなかったのだ。
確かに彼女らしき人物は眼前に静かに立ち尽くしている。だが、その人物はソフィではない。ソフィの皮を被った「化け物」だ。
――それを証明するかのように。
彼女の目印であった漆黒の髪は白く塗りつぶされ、肌は雪のように白くなっていた。体つきはソフィのままだが雰囲気は儚げで浮世離れしたその姿は、カイトが知っている彼女では決してない。
そうだというのに――
「ごめんね、『クロエ』。私は一つやるべき事が出来た」
その「化け物」は、ソフィよりも幾分か大人びた声で囁く。
あろう事かソフィがカイトへと送る最後の伝言を。まるで大切な人を奪い去ると宣言するかのように。
「あなたは――誰?」
もはや自身が知っている彼女はいないと悟ったカイトは、内なる怒りを隠しもせずに低い声で問う。偽名であるカイトではなくて「本名」で呼んだという事は、記憶を共有しているのかもしれない。しかし、だからと言って彼女は「ソフィ」ではないのだ。
ならば、手加減をする必要はない。ただ青い瞳を鋭く細めて、彼女の体から出るように威圧をかけるのみだ。
すると、少女は穢れを知らない白き髪を揺らしながら踊る様に振り向いて。
「私はあなた達に氷雪種と呼ばれ、恐れられている存在。そんな私達をあなた達は消そうとするのかもしれない。でも、私は……ううん、私達は別の道を絶対に探し出してみせる」
言葉を届けると共に、その姿を霧散させていく。
ここで話す事はもう何もない、そう言いたいのだろう。それはソフィの意思なのか、それとも彼女を奪った者の意思なのか。それは分からない。
分からないこそカイトは手を伸ばす。
だが、その手が再び彼女に触れる事は叶わなかった。代わりに触れたのは霧散した霧。唯一の家族を、守りたいと願った妹の姿を形作っていた白き霧だった。
カルティシオン歴、百八十三年。
氷結の歌姫と平和を願う少女ソフィアリス・フィッターが出会った瞬間の出来事だった。




