表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷結の歌姫  作者: 粉雪草
第一部 たとえ失ったとしても
47/109

最終話 (十)

 甲冑が干渉し合う甲高い音が鳴り響く戦場にて、騎士と共に平原を駆け抜けるのはイリス。幸いにして障害物が見当たらない平坦な地であるためか、日頃から鍛錬を積んでいないイリスでも進軍についていくだけならば可能だった。

 だが、戦場を疾走した事ではっきりと分かった事がある。それは、如何に自身が知識だけの人間だったのかという事だ。

 その理由は簡単で、眼前に迫る兵数二千を有するリシェス共和国の突撃は、まるで銀色の城壁が迫るような感覚がするからだ。机上で学んだ知識を用いれば、何という事はないただの突撃である。確かにその突破力は馬鹿には出来ないが、その背景には何の策もありはしない。つまりは知恵のない動物が正面からぶつかってくるに等しい行いなのだ。

 ただそれだけの事なのである。

 しかし、そうだと分かってはいても、迫る騎士の気迫は戦いの経験のない小娘を震わせるには十分だった。

 心中で何度も何度も震える己を叱咤しても、体は正直なもので震えだけは止まるという事を知らない。おそらく全ての刃が止まるまで、この震えは止まらないのではないか。そう思ってしまう程だった。

 だが、それでもイリスは歩む足を止める事はしない。例え兵数で劣っていようとも、自身に剣を握って戦う力がなくても。王であるイリスが止まってしまえば、負けは確定してしまうのだから。

 だからこそ、イリスは――

(最小限で……そして、最も効果的に)

 思考を走らせながらも、正面に深緑の瞳を向ける。

 戦場の流れを把握し、出来る限り速やかに致命的な一撃を浴びせるために。もしかすれば、兵を退かせるために刃を向ける事は「悪」なのかもしれない。

 だが、今は刃を振るわなければ戦いを止める事は出来ない。そう割り切らなければストレインの騎士達は全滅してしまうのだから。本当はこんな愚かしい事は即座に止めさせたいのだけれど、それはどれだけ願っても叶える事は出来ないだろう。

 ――何か奇跡でも起きない限りは。

 奇跡なんていう言葉を使ってしまう自身は、失笑を受けても仕方がないだろう。そもそも奇跡というものは、数多の絶望に打ちのめされても、なお前へと突き進んだ者のみが巡り合えるものだ。時には「神の気まぐれ」で与えられる者もいるだろうが、それは夢物語の中での話だろう。

 同じ人が殺し合ってしまうようなこの悲しき世界で、そんな都合がいい奇跡が起きる訳はないのだ。ならば、迷わず走る他に道はない。

 ただ戦いを早期に終わらせるために。この大陸から「争い」という愚かな行為を消し去るためにも。それが、イリフィリア・ストレインが進む「王道」なのだから。

 その王道を進むためには、奇跡だって自身の想いで起こしてみせる。そう思える事が今は必要だと、イリスは思っている。

 そんな確たる決意を込めた深緑の瞳が見つめるのは、細く引き締まった体躯を有する騎士の背中。イリスを救ってから一言も言葉を発する事のない、鍛冶師セドリックの背中だった。

 イリスが彼に注目するのは、当然切り札と成り得る力を有しているからだ。

 すでにリシェス共和国の騎士との距離は、二十メートル。

 騎士がボウガンを構える距離だ。しかし、ボウガンを構える騎士は確認するまでもなく少ない。百人いる中で一人いるかいないか、それくらいではないだろうか。

 相手は兵数で圧倒するために突撃の足を止めたくはないのだろう。対するイリスも切り札を用いて致命的な一撃を放つために進軍を止める時間はない。

 それをよく分かっているストレインの騎士は、ボウガンを抜かずにその手に剣を、そして槍を握って、王が出す指示を静かに待っていた。

 ――そんな時。

 眼前に迫る敵との距離が、十メートルに入った瞬間。

 イリスの瞳に映ったのは銀色の輝きだった。それが放たれた矢であるという事に遅れて気づいた時には、喉元を狙う矢を止める術は存在しないように思えた。ボウガンを構える者は少なくとも、相手が狙う的はイリスに絞られるのだから、油断などしてはいけなかったのだ。

 避けられない。即座にイリスの脳裏には絶望が浮かぶ。

 だが――

「前だけを見て!」

 イリスの左隣を並走するように走る近衛騎士たるアリシアが、一声叫ぶと共に手にした槍を煌めかせる。眩しいばかりに日の光を吸って輝いた刃は、一つ二つと瞬きする間に飛来する矢を正確に弾き飛ばしていく。

 これからも兵を率いる立場にあるイリスを狙って、これからも矢が放たれ、そして剣が振り下ろされる事だろう。

(私には――守ってくれる人がいるから)

 しかし、アリシアが、皆がいれば問題はないように思えた。

 それに今は離れているがカナデもいるのだ。彼女達が信じてくれるのならば、イリスは進む事が出来る。そして、自身を信じる事が出来るのだ。

「正面に氷壁を!」

 揺るがぬ自信を胸に抱いたイリスは、即座に声を張り上げる。

 今まで出した事も無いような地を、心を震わせる声は即座に戦場を駆け抜けて、形となって眼前に顕現する。イリスの指示通りに正面へと、リシェス共和国の騎士を阻むように一つの氷壁が形成される事によって。

 結果はイリスが再び声を張り上げるために、息を吸った時には出ていた。

 リシェス共和国の騎士達が勢い余って、その身を氷壁へと衝突させたのだ。おそらく彼らはストレインが汚染者を先頭に立てて突撃してくるとばかりに思っていたのだろう。予想を悪い方向へと裏切られリシェス共和国の騎士は、その身を氷の結晶へと変貌させていく。

 しかし、敵も愚かではない。

 即座に矢印型の突撃に特化した蜂矢の陣を、左右へと均等に分断する事でやり過ごしていく。陣を無陣へと変えた敵の取るべき手段は、確認せずとも左右からの挟撃だろう。単純な策だが、兵数で勝っている場合においては有効である事は言うまでもない。

 ――しかし。

 その程度の事は、当然予測していたイリスは――

「進路を左に! 先頭はアリシア!」

 肺へと溜めた息を吐きだすと共に叫ぶ。

 その瞬間にストレインの騎士達は、自然と一つの陣を組みながら突き進んでいく。成した陣は、アリシアを先頭にした偃月えんげつの陣。槍の腕ならばストレインにおいて並ぶ者はいない、今は王の近衛騎士となった少女の、絶対たる技量に頼った指揮官突撃の陣である。その威力の程は、無陣に変わった事で鋭さを失ったリシェス共和国の騎士を順に蹴散らしていく事で証明される。陣の中心で守られながら駆けるイリスの目にもはっきりと、その威力が分かる程だった。

 だが、即興で組んだ陣では本来の威力は発揮されなかったのか半数、つまりは兵数五百程度を駆逐するのが限界だった。

 つまりはストレインの騎士達は眼前で残りの兵数五百と戦いながら、後方から追うように迫ってくる、先ほど無視した兵数千の騎士を迎撃せねばならないのだ。

 五百の兵を瞬時に殲滅出来た事はいい。だが、その代償に敵に有利な布陣にしてしまったといえるだろうか。

 しかし、それは汚染者がいない場合に限られる。

 氷壁を展開する事で一瞬でも時を稼ぐ事が出来るという手札を、イリスはまだ持っているのだ。ゼイガンは奇襲のためにカナデを用いたようだが、本来であれば陣に組み込んで、その力を発揮させる事が真なる使い方だろう。

 そう確信しているイリスは、自身の後方を走るセドリックへと深緑の瞳を向けると。

「――後方だな」

 視線だけで意図を読み取ったセドリックは、その両手に長剣の形を成した氷装具を生み出すと共に述べた。そして、言葉通りに、挟撃するために後方から迫る騎士達の足元へと氷装具を投擲する。

 戦場を切り裂いた凍てついた刃はすぐさま地を抉り取って、高さ二メートル、厚さ十センチの氷壁を形成せしめる。だが、さすがに二回目という事もあり、後方から肉迫する騎士達は即座に左右へと兵を分断してやり過ごす。

 リシェス共和国の騎士が完全に分断するのに要した時間は、一分にも満たない時間。

 だが、それだけあれば十分だった。

「全軍――正面を突破。以後は陣を立て直して、後方を迎撃!」

 即座に突破出来ると判断したイリスは声を張り上げる。

 王の命に身を、心を震わせた騎士は先頭を進む近衛騎士の槍に導かれるようにして、止まりかけた両足を再び前へと押し進める。対するリシェス側は兵数五百という心許ない数もあってか、どこか動きが鈍い。

 その鈍さを文字通りに貫いたのはアリシア。

 眼前にて両刃の剣を構える騎士が柄を握り直すよりも速く、その手に握った金属槍を煌めかせると、正確に喉元を突き刺して絶命させたのだ。

 しかし、槍という武器は薙刀とは違って、横薙ぎに切り裂く事は出来ない。つまりは一度槍を引かなければならないのだ。そんな彼女の隙を狙って、すかさずリシェス側の騎士が二人、三人と畳み掛けるように迫る。だが、アリシアの小さな背中はどこまでも落ち着いているような気がした。

 それは自身の死を確信して諦めた静けさではない。たかが三人程度であれば焦る必要はない、そう彼女は思っているのだろう。

 それを証明するかのように、槍を引き戻したアリシアは一回転するかのように槍を横薙ぎに振るう。迫る騎士が、その手に握る剣を振り下ろすよりも速く、何か対策を講じるよりも速く。

 空間を切り裂く様に走った金属槍は、狙い違わずして三人の腹部にある甲冑を砕き、それだけに止まらずに後方へと吹き飛ばす。

 アリシアのすらりと細い体躯のどこにそんな力が存在するのか。それは戦いにおいてはまるで素人のイリスには分からないが、槍を振り回して、しかも軽々と吹き飛ばすという予想外の行動はリシェス側の動きをさらに鈍くさせているように思えた。

「そのまま突っ切れ!」

 イリスと同じ様に、相手の鈍さを敏感に捉えたセドリックが声を張り上げる。

 兵を率いた事もある鍛冶師の言葉は駆ける騎士の心を鼓舞して、その足をさらに速めていく。荒い息を整えながら走っているイリスは、もはや置いて行かれるのではないかと不安に思ってしまう程の速さだった。

 勢いを増した突撃はイリスが思っているよりも鋭く、正面を遮るリシェス側は成す術もないように思えた。

 だが、冷静に上空から両軍の動きと兵数を数えると、ストレイン側が圧倒的に有利であるとは言い難い。その理由は、一度の突撃でリシェス側の兵数千を瓦解させたとしても、ストレイン側の兵も少なからず減っているからだ。

 元は千二百の数を有したイリスが率いる部隊。

 だが、今は八百程度の数だろうか。それに対して後方から迫るのは兵数千の部隊。裏切ったカーマインがどう動くかは分からないが、合流でもされようものならば有利不利は即座に逆転してしまう。

 それが分かっているからこそ、イリスは眼前に広がる戦果を見ても心を緩める事はない。そもそも人を殺める事に対して抵抗があるイリスにとっては、現状は地獄絵図でしかないのだ。どんな華々しい勝利をその手に掴もうとも、心が緩むなどという事は決してない。

 叶うならば、この突撃の結果で戦いが終わって欲しい。そう願っているくらいだ。もしかすればこの想いを伝えられたならば、止められるのかもしれない。嘘偽りなく、ただ戦いを止めたいだけなのだと、そう想う心を伝えられたのならば。

 どんな手段でもいい。もう誰かが誰かを傷つける事を終わらせたい。兵と兵をぶつけて屈服させる以外の方法で。

 そこまで思考を走らせた時には、正面を塞いでいた壁を突破する事は出来ていた。残りは後方から迫る兵をどうにかすればいいだけだ。

 そう思った瞬間――

「出来るよ。あなたの想いなら」

 心へと流れ込んで来たのは、幼いようで大人びた不思議な声だった。

 聴覚で捉えた訳ではないというのに、耳元で囁かれたようにはっきりと聞こえる声。それは一人の少女の声だった。

 声だけで姿を見る事は出来なかったが、その存在に手で触れたかのように、はっきりと一つの姿が脳裏に浮かぶイリス。

「……真っ白な少女」

 同時に、以前カナデ達が口に出した言葉をぽつりと呟いていた。

 その言葉以外に、脳裏へと浮かんだ少女を表現出来る言葉が見つからなかったのだ。そして、彼女から感じる視線は、銀の森で出会った氷雪種の視線と同じだった。まるで心に土足で入り込むような無遠慮で、好奇心に満ちた瞳。

 初めてその視線に触れたイリスは、まるで自身の心を手探りで荒らされたような感覚に陥り、立つ事は愚か叫び声を上げて、その場に蹲ってしまった。その意味する所すら知ろうとせずに両目を閉じて拒絶してしまったのである。

「その名前はどうかと思うけど……いいよ。それよりも、今はあなたの気持ちを伝えて。あなたの澄んだ気持ちを」

 過去へと溯っていたイリスへと向けて、心に囁きかける声は道を示す。

 イリスが望んだ道と同じ道を。刃ではなくて言葉で、伝える想いで戦いを止めるために。

 それが本当に可能なのか。それは結果が出るまでは分からない。

 しかし、真っ白な少女だけではなく、数多の想いに触れられる今ならば可能だと思えた。

「数分だけ時間を……時間を頂戴!」

 一秒すら惜しいと感じたイリスは、振り向くと同時に叫ぶ。

 ただ戦いを止めたい。そして、リシェス共和国と共に歩める事を切に願って。

 想いは即座に両国の騎士へと流れ込んで、一瞬だけ歩む足を、武器を握る手を鈍らせる。

 だが、それは一瞬の事だった。

 ストレインの騎士達は自国の王を守るために再び武器を握り締めて反転し、対するリシェス共和国の騎士は仲間を奪われた怒りをぶつけるために地面を蹴る。表面的に見れば、両国共に相手を殺すために武器を握っているように見えた。

 しかし、実際の所は違う。

 片方はただ純粋に王を守るために。そして、片方は怒りの感情を前面に押し出して、ただ恐怖と戦っているだけなのだ。再び大切なものを失う事を恐れて、刃を握っているだけに過ぎないのだ。

 確かに仲間を倒された恨みはあるだろう。だが、それはお互い様だという事は幾度も戦場に立っている者ならば知っている。今回はストレインの方が多くの命を奪ったが、過去に溯ればリシェス側も多くの命を奪っているのだから。

 戦争が、悲しいすれ違いが人をそうさせる。ただそれだけなのだ。殺す事を、奪う事を真に望んでいる者などはいない。

「想いが触れれば――きっと」

 心中に浮かんだ想いを伝えれば戦いは止められる。

 そう確信したイリスは一歩を進む。武器を持たずに、ただ一人で。

 流れ込んでくる数多の想いを押しのけて、強く、ただ強く歩を進めていく。そんなイリスを誰も止められないのは想いが強すぎるからだ。

 舞う雪のように降り注ぐ、穢れを知らない白銀の輝きに照らされて進むイリスの願いはただ一つ。この戦いを止めて、共に歩む事だけだ。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 そんな事は無理だと叫ぶリシェス共和国の想いを跳ね除けて、信じていいのかと戸惑うストレインの騎士達に向けては「信じて」と伝えるイリス。

 自身の想いが平和へと繋がっていくのだと信じて疑わない真っ直ぐな心が、刃を握る手を数多の歩む足を止めているのだ。

 イリスの想いは、どこまでも独り善がりの正義。

 それはイリス自身もよく分かっている。それが分かっていても、自身の「王道」を進むのは皆の笑顔のため。それに王と呼ばれる者が理想を語らずして、誰が理想の世界を築いてくれるというのだろうか。誰が戦いのない日常を作るというのか。

 誰もやらないというのであれば、イリスがやればいいのだ。数多の「否」という言葉を跳ね除けて。道を、光を差し伸ばせばいいのである。

 誰に否定されたとしても突き進む道を曲げるつもりも、歩みを止めるつもりもないのだ。

「私を――信じて」

 だからこそイリスは、言葉と共に自身の手を差し出す。

 カナデの心へと光を燈した時と同じように、閉ざした心が開かれると信じて。

(今は……気持ちだって伝わるんだから)

 裏表もなく伝わる言葉ならば必ず分かり合える。そう信じたイリスは、迷うリシェス共和国の反応を窺う。

 ――時間にしてどれだけたっただろうか。

 おそらく数秒の時間が経った時。一つの雄叫びが長きに渡る沈黙を破った。

 雄叫びを上げたのはリシェス共和国の騎士。一目見た所では、まだ年若い一人の少年騎士だった。

 彼が握っているのは、腰から引き抜いたボウガン。

 当然、矢が向けられているのはイリスだった。降り注ぐ光によって流れ込んでくる彼の気持ちは恐怖と戸惑い。理解の範疇を越えたイリスの言葉に混乱して、それを排除するために刃を取ったのだろう。

 これも悲しいが戦争が起きる理由の一つだろう。理解出来ない不穏分子は倒すしかないのだから当然だ。現状ではたった一人ボウガンを構えただけなのだが、これが悲しき世界の姿なのかと思えた。

 だが、一人に否定されたくらいではイリスは止まらない。

「私が恐ろしいというのであれば……撃ちなさい。ですが、撃ったとしても私の想いは変わりません」

 それだけでなく、イリスは差し伸ばした手を引っ込めて、少年へと一歩を進む。

 まるで「撃って下さい」と言っているかのような行動に、まとまりかけていた心は再び乱れていく。それでも、イリスは自身の行動に後悔はない。

 例え、彼の矢が自身を貫いたとしても。それが、世界の答えなのだとしても。

 皆が固唾を飲んで見守る中。おそらく一秒にも満たない時間が経過した後に、戦場へと轟いたのは少年の叫び声。

 そして、放たれたのは一本の矢だった。少年と言っても毎日鍛錬を積んだ者が放った矢だ。距離にして十歩にも満たない距離に立つ「イリス」という目標を外すとは思えない。

 だが、放たれた矢がイリスの喉元を貫く事はなかった。代わりに貫いたのは、穢れを知らない雪のように白い肌、正確に言うならば左頬だった。

 あえて外したのか、迷う心が狙いを大きくずらしたのか。それは分からないが、今は命がある事をイリスは嬉しく思う。命がある限りは説得する事が出来るのだから。

 左頬に感じる焼けるような痛みも、生温かい鮮血も今はどうでも良かった。

「刃を収めて――聖王国ストレインの女王イリフィリア・ストレインは、あなた達と歩む事を望みます」

 ただ内から溢れる想いと共に言葉を伝える事が、自身の役目であるのだから。

 言葉が再び彼らに届いた瞬間。

 矢を放った少年は、震える両手からボウガンを滑り落とす。一歩間違えれば殺されていたかもしれないというのに、全く揺らがないイリスに圧倒されたのだろう。それは周りにいる騎士達も同じで、騎士の誇りたる剣に視線を向けているようだった。自身の誇りを向けるべき相手を考えているのだろう。

「迷うならば……ここは退け。退いて、そして考えろ。誇りある剣を向けるべき相手を」

 そんな彼らの背を押したのはセドリック。

 どうやら彼もイリスの進む道を支持してくれるようだ。それは背に伝わる彼の想いから感じ取る事が出来た。それと同時にイリスへと向けられる特別な想いも感じる事が出来たが、それについてはおいおい考える事にする。

 今は眼前にいる彼らに意識を集中するべきだから。

「退いた後に……再び攻め入るかもしれないのだぞ」

 再び深緑の瞳を彼らに向けた瞬間に、言葉を発したのは年配の騎士だった。

 おそらく、この隊を率いている隊長だろう。

「その時は再び言葉を尽くすだけです」

 その隊長に向けて、イリスは真摯な言葉を届ける。

 この場だけの形式的な言葉ではなく、仮に争いが起きるというのであれば、王である自身が先頭に立って言葉を届ける覚悟を持って。

 しかし、イリス以外の者は考えが違うのか。

「だが、忘れるな。イリスは甘くても、俺は……俺達はそう甘くはない。言葉が届かないならば、全力でお前達と戦おう」

 代表してセドリックが、リシェス共和国に一つ警告する。

 どこか挑発するかのような警告。だが、イリスはそれを否定はしなかった。ただ言葉を尽くすと述べるだけでは戦争の抑止力とならない事は分かっていたからだ。

「分かりました。今は……私の名を持ってこの場は退きましょう」

 数多の想いを包み隠さず知った年配の隊長は、静かに述べると共にそっと片手を上げた。そして、軽く振る様にして合図を送っていく。

 合図を受け取ったリシェス共和国の騎士は、後は自国へと戻るために歩んでいくだろう。それでこの戦いは終わりだ。

 そうイリスは思って、一つ息をつこうとする。

 だが、そんなイリスへと向けられたのは、撤退する彼らの窺う様な視線だった。国全体の意思ではなく、各々が個別にストレインが信じるに値する国であるのかを見極めようとしているのだろう。

(それならば……答えるだけだわ)

 彼らの意図を組んだイリスは、向けられる一つ一つの視線に深緑の瞳を合わせていく。一人の例外もなく、丁寧に。いつか真に分かり合える事を祈り続けながら。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ