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氷結の歌姫  作者: 粉雪草
第一部 たとえ失ったとしても
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最終話 (九)

 ストラト平原の南側。

 湖の溢れんばかりの水分を吸って、湿原のようにぬかるんだ戦場にて。

「動いて……くれ」

 苦しそうに言葉を紡いだのはカナデだった。

 動く事を望むのは数多の刃によって、切り裂かれた事で鈍った体だ。

 正直な事を言うならば、どこが痛くてどこが動かないのかはすでに分からない。かすり傷程度の軽傷も、腕に食い込む様な重傷でさえ、血を固まらせる事で防いでしまったからだ。おそらく力を止めた時は、予想も出来ない程の血が溢れる事だろう。

 もしかすれば出血多量で死んでしまうかもしれないが、その程度の事でカナデが止まる事はない。いや、むしろ止まる事の方が恐ろしいのだ。

 再び深い闇へと沈んでいく事が、剣を握る理由を失う事の方が恐い。だからこそ、カナデは走り続ける。イリスの代わりに戦う者として、戦場を駆け抜けるのだ。

 もし第三者がカナデを見たのならば、どこか生き急いでいるようにも見えてしまうかもしれない。

 それを証明するかのように――

「カナデ殿! これ以上、無理をしてはいけません!」

 見かねたゼイガンが声を張り上げる。

 声を上げたゼイガンは、聖王国ルストの次期国王たるシュバルツの氷剣を、刀身の細い騎士剣にて受け止めていた。だが、老齢なる騎士が氷剣を受け止める事が出来たのは、僅かな時間。シュバルツの剣に宿った力が、徐々に細く頼りない剣を透き通った氷の結晶へと変貌させていったのだ。

(無理をするなと……言われてもな)

 カナデを心配して言ってくれたのだろうが、その本人が今にも武器を失いそうなのだから、放っておける訳はない。

 それに現在の戦場は、一言で言えば混沌としている。

 聖王国という名を掲げる両国の騎士が正面から衝突したのは数分前の事。確実なる勝機を掴むための突撃は、両国共に陣を瓦解させる程の威力を発揮し、以後は乱戦状態に突入したのだ。もはやどちらが多いかは一目では分からない。

 当然、この状態から陣を立て直すのは事実上不可能だった。

 正面、左右共に味方と敵が入り乱れる戦場。もはや安全な場所などは存在しないように思える。生きるためには、もはや刃を振るう他に道はない。

 自身の成すべき事を心に刻んだカナデは、一度ゼイガンに視線だけで合図をする。視線を合わせたゼイガンは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに手にした細身の剣を手放すと共に半歩下がる。

 そんな彼を追うようにして、剣を振り上げたのはシュバルツ。

 兵を率いるゼイガンを倒して、その手に勝利を掴むためだろう。兵を退くにしても、そのまま進軍するにしても、ルスト側にしたらゼイガンは邪魔なのだろう。

 凍てついた氷剣がゼイガンに触れるまでは、おそらく一秒にも満たない時間だろう。

 しかし、カナデは諦める事はない。与えられた僅かな時間で、氷装具によって結びついた内なる力を解き放つ。命を燃やす事で得られる、人外の力を。

 ――目標であるゼイガンの眼前に辿り着くまでは、三歩。

 常人ならば割って入る事は不可能と思われる距離だった。しかし、カナデは一つ瞬きをする間に、その距離を縮めて見せる。

 そして、次の瞬間には。

 カナデは人を殺める道具には見えない見目麗しい大鎌の柄で、振り下ろされる凶刃を易々と受け止めて、眼前を睨みつける。自身と同類である、汚染者シュバルツの赤き瞳を。

「やはり同類だな。お前なら……俺の渇きに付き合ってくれそうだ」

「……貴様と同じにしてもらっては困る」

 瞳を重ねた二人は、お互いの刃を押しながら言葉を交わす。

 だが、二人の会話は成り立たない。そもそも考え方も、力を用いる理由も違うのだから当然だ。

「同じだ。所詮は化け物! そして、国のためと叫びながらも自分のために力を使う!」

 しかし、シュバルツは同じだと叫ぶ。

 叫びは力へと変わり筋力で劣るカナデは、まるで突き飛ばされたように易々と飛ばされる。

「対話など無駄です」

 吹き飛んだカナデを受け止めたのは、背後にいたゼイガンだった。

 彼まで一緒に吹き飛ぶ事がなかったのは幸いだっただろう。そして、彼のおかげで即座に態勢を整えられたのも幸運だった。

「そうかもしれないな」

 守ったつもりが支えられてしまった事に、カナデは内心で苦笑する。

 そして、それと共に二人に向けて言葉を返す。一つは「対話など無駄です」と述べたゼイガンに、そしてもう一つは「自分のために力を使う」と述べたシュバルツに向けてだ。

 カナデは、イリスのために力を使っている。だが、それは真に彼女のためではない。どこかで彼女の光に寄り添って、力を使う理由に、生きるための理由にしているのだ。

 戦う事で命を代償として払っているために、どこか矛盾しているようにも思う。

 だが、生きるためには「光」が「希望」が必要なのだ。王でも英雄でもない、ただか弱き凡人には必要なものなのだ。だからこそカナデはイリスのために力を使っている。そんな自身が彼の言葉を否定出来るのか。そう思ってしまう。

「でも、違うよ」

 しかし、それでもカナデは彼の言葉を否定したかった。

 自身の内から溢れる想いは自分だけのもの。他の誰のものでもないのだから。想いは内から溢れて、言葉に変わる。漏れ出た言葉は自身でも驚く程に優しかった。まるで幼い子供に言い聞かせるような、そんな温かさと柔らかさを含んだような言葉だったのだ。

 だが、言葉だけでは戦いを止める事も、分かり合う事も出来はしない。

 それを証明するように、シュバルツという個人から渇いた獣に成り果てた彼は、カナデを拒絶するかのような雄叫びを上げて、平原を疾走する。

 赤き瞳に映ったもの全てを消し去るために。本当はその力で聖王国ルストを救いたかったのだろう。そのために力を使いたかったのだと、揺らがない瞳は述べているかのように見えた。

「――終わらせる」

 カナデは、もう彼を見ている事に耐えられなかった。

 もうこんな戦いを続ける必要などないのだから。一つ深呼吸をして、凍てついた冷気を肺へと届けたカナデは鋭い一歩を踏み込む。

 イリスの『代行者』として、成すべき事を成すために。

 戦場に響いたのは、終結の音色。

 しかし、それは肉が裂かれる不快な音でも、耳を塞ぎたくなるような断末魔の叫びでもない。皆が想像したものとは真逆の、どこまでも澄んでいて、それでいて心地いい音色。振り下ろされた氷剣が、決意を込められた横薙ぎの一閃によって砕かれた音だった。

 おそらく遠目で見たとしても、カナデが有利である事は一目で分かるだろう。今でもストレインの汚染者は、その手に凍てついた大鎌を手にしているのだから当然だ。

 このまま返す刃によってシュバルツは倒れる。誰しもがそう思っただろう。

 ――だが。

 カナデは右手に握る大鎌を、眼前に立つ次期国王を見据えながら、ゆっくりと降ろしていく。皆にとっては意外に思える行動だろう。

 しかし、カナデにとってこれは至極当然の事だった。その最たる理由は、イリスが望んだのが和平だったからだ。それも血を伴わない、夢物語にも近い理想的な和平。

 その夢物語を彼は笑った。それに憤りを覚えた事は今でも鮮明に思い出す事が出来る。それでもカナデは内なる光を信じて、彼女が成したいと願った事を実行する事を選んだ。

 何の迷いもなく。きっと想いは伝わると信じて。

 だが、その期待は数瞬の内に砕かれる。右肩、つまりは氷装具を握る利き腕を貫かれる事によって。

 右肩を貫いたのは、確認するまでもなくシュバルツ。

 カナデによって半分に折られた氷剣を抉るようにして肩へと捻じり込む彼の姿は、まさに血に飢えた獣のようだった。彼の代償たる「渇き」がそうさせるのか、それとも勝利をその手に掴むための執念なのか。それはカナデには分からない。

 分からないこそカナデは――

「もういいだろう。兵を退かせろ、シュバルツ・ストレイン」

 右肩を抉る彼の手にそっと左手を添えながら、言葉を届ける。

 シュバルツ・ストレインという、ただ一人を理解するために。

 だが、触れたシュバルツの右手は、まるでカナデを拒んでいるかのように冷たかった。その冷たさは、そのまま彼との距離を示しているのかもしれない。

 だが、カナデは触れた手を離すつもりはない。今度こそは差し伸ばしたこの手で、自分ではない誰かを救いたいのだから。もう過去に縛られた弱い自分に別れを告げたいのである。

 決して揺らがないカナデと、想いを受け止めるシュバルツ。

 そんな二人を見つめるのは数多の視線。この場を埋め尽くす聖王国という名を背負う騎士が、戦う手を止めて二人を見つめているのだ。

 二人の結末によって、両国の運命が決まるかもしれないと思っているのだろう。

「お前の言葉で終わらせろ。汚染者ではない――王としての言葉で!」

 だからこそカナデは叫ぶ。

 焼けるような痛みに耐えて、流れ出る血を視界に収める事もなく。

 シュバルツという王の言葉で、この戦いを終わらせるために。そうでもなければ、この無意味な戦いは前哨戦という範囲を超えて、どちらかの国を殲滅させるまでに発展してしまうだろうから。

 ――数秒か、数分か。

 痛む右肩のせいで、全ての感覚が鈍り始めた時に――

「殺せ」

 カナデへと届いたのは、シュバルツの掠れた声だった。

 彼の発した言葉が短いのは、シュバルツがもはや生きる事に疲れているためか。それともカナデの温かさではやはり救えないという事なのだろうか。

 そんな弱気な考えが脳裏を埋めていく。折れそうになる心は、意志に反して諦めてしまいそうになってしまう。

 それでも――

「断る。生きて……イリスと一緒に聖王国を……支えてくれ」

 カナデは途切れた言葉を届ける。

 喉元から込み上げる血のせいで上手く話す事は出来ないが、それでも想いだけでも伝えるために。イリスのように上手くいかないというのであれば、アリシアのようにしつこく言葉をぶつけていけばいいのだから。

 脳裏に二人の微笑みを思い浮かべたカナデは、霞む視界の中で、彼の血に飢えた瞳に漆黒の瞳を重ねようとする。

 しかし、瞳に映ったのは血を思わせる赤でなくて、白銀色の輝きだった。一瞬雪かと思ったが、頬へと触れた光は冷たさを感じる事はなく、むしろ伝わってきたのは温かさだった。

 ただ人を想って、戦う事を悲しむ。そんな優しくて温かい想いだったのだ。

(この想いは? それに……もう一つ?)

 カナデは伝わる温かさに戸惑いつつ、自身の心に語り掛けるように流れ込んでくるもう一つの想いへと意識を向けていく。

 それは触れた温かさ、正確に言うならばカナデの手を通して伝わる温かさに戸惑う心だった。他人の心など読む力はカナデにはないが、はっきりと瞳を合わせた相手が戸惑っているのが分かる。

 まるで自身が考えているかのように、まさに手に取ったように眼前にいる相手の心が分かったのである。それは頬に触れた、この穢れ無き雪を思わせる白銀の輝きのおかげなのだろうか。それを確かめる手段は持ち合わせていないが、現在注目するべきは相手の心が分かるという事だ。

 そして、こちらが分かるという事は、シュバルツにも当然伝わっている事だろう。カナデが上辺だけで述べている訳ではないという事が。そして、真に聖王国を想っているという事、そのためには数多の力を集結させる事が必要だという事が。

 その中には当然シュバルツも含まれている。それは彼が汚染者だからではない。イリスは汚染者だろうが何だろうが、心を閉ざした相手が目の前にいるならば、一瞬の迷いなく手を差し出すのだから。

 仮に彼が力を使う事を拒んだとしても、イリスは変わらず共に歩む事を望むだろう。例え世界から背を向けたとしても、彼女だけはずっと見ていてくれる。そして、必ず心へと光を届けてくれる。望むと望まざるとは関係なく。

「必ず一緒に歩めるから。だから!」

 もう言葉を発しなくても、全部伝わっている事だろう。それでもカナデはあえて言葉をぶつける。心で願うだけでは伝わる事はないと思うから。

 特に代償によって、シュバルツという個性を失いつつある彼に想いを届けるのは簡単ではないだろう。それを証明するかのように、血に飢えた彼は自身の迷う気持ちとは別にカナデの肩を抉る力をさらに強くしていく。右肩は氷装具の力を用いて血を凍結させて防いではいるが、正直な事を言うならば右肩の組織がどうなっているのかは考えたくはない。

 だが、今は自身の肩よりも彼を説得する方が先だ。

 いや、彼の自我を取り戻す方が先だろう。

 しかし、どうすれば彼は自分を取り戻す事が出来るのだろうか。カナデを、人を殺せばいつかは晴れるのだろうが、それでは遅すぎる。

 いや、カナデが倒れる事があればストレインの騎士は再び動き出してしまう。それでは駄目なのだ。この考えは、この場にいる全ての騎士に伝わっているが、それでも動き出した流れを止めるだけの力にはならないだろう。

「こんな失うだけの力に負けるな。失うだけで終わらせるな、シュバルツ・ストレイン!」

 だからこそカナデは諦めずに叫ぶ。

 イリスならば、そうするだろうと信じて。自身の肩を抉る彼の心の奥深くへと、手を差し伸ばすかのように、カナデは想いを外へ、外へと解き放つ。

 想いは周囲を照らす光によって、まるで流れる風に乗るかのように、平原を駆け抜ける。駆け抜けた想いは、この場にいる全ての騎士へと伝わり、心を揺らす。揺らいだ心はすぐさま一つの形へと結びついていく。

 彼らの望みは、戦いのない世界。

 友と、家族と笑い合える、ただそれだけの世界だった。そして、それを成し得る可能性を持っているのは、この場で迷う一人の男。その男の言葉を皆は静かに待っているのだ。

「お前達は……本当に甘すぎる」

 この場にいる全ての想いを受け取ったシュバルツは、どこか人懐っこい微笑みを浮かべて、ようやく言葉を返してくれた。そんな彼の姿は無垢な少年のようで、今までのくたびれた感じはしない。それ所かどこか吹っ切れた彼の様子は、精悍なる王を思わせる程に清々しく見えてしまう。おそらくこの姿こそが皆が望む姿だったのだ。

「それなら――」

「皆まで言うな、うっとうしい」

 想いが通じた事に喜ぶカナデの言葉を遮って、シュバルツは乱暴に言葉を返す。それと同時に、手荒く右肩を抉っていた氷剣を引き抜くシュバルツ。

 その瞬間に言葉では言い表せない痛みがカナデの右肩に駆け抜ける。だが、この痛みは勝利を成し得た痛み。苦しくはあるが、どこか誇らしい痛みだった。

「全軍撤退! これ以上の戦闘は――シュバルツ・ストレインの名を持って禁じる」

 そんなカナデを無視したシュバルツは、叫ぶと共に敵だった者達へと背を向ける。

 当然、そんな彼へと武器を向ける者はいない。彼が向けた背には両国の希望が重く伸し掛かっているのだから当然だ。

(終わった……。私にしてはよくやったかな)

 去り行く背中を漆黒の瞳に収めたカナデは、そっと心中で呟く。そして、次の瞬間には数多の想いに包まれながら、眠る様に意識を失った。


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