最終話 (六)
頬へと触れたのは、生温かい鮮血だった。
すでに数百を超えた騎士を切り裂き、その身に鮮血を浴び続けてきたシオン。
だが、今回触れた温かさを言葉で言い表す事は出来ない。すでにどんな者を斬ろうとも、例え名を知る者を斬ろうとも殺す事に慣れた心は何も感じないと思っていたというのに。
だというのに、自身の頬へとこびりついた確かな熱は、発せられた言葉よりも深く、深くシオンの心を抉っていく。
「死しても……私を止めるか。見事」
その温かさの正体たるアルフレッド・オーディルは、自身の腕を掴む将軍に最大限の賛辞を送る。シオンによって左脇から右肩にかけて斬られているにも関わらず、壮年の騎士は敵である将軍へと、温かさを感じさせる茶色の瞳を向けていたのだ。
その瞳は敵を見てはいない。ただ自国のために命を捧げた男を認め、評価しているのである。だが、それは数瞬で終わりを告げた。
鋭い視線が、敵となったシオンへと注がれる事によって。
「悪いが――ここで死ぬつもりはないぞ、シオン!」
刹那、叫び声を上げたアルフレッドは、自身を止める将軍の腹部を力任せに両断する。溢れた鮮血はアルフレッドの軍法衣を汚していくが、当然そんな些細な事を気にする彼ではない。
「私も――そのつもりです!」
彼が向ける気迫に応えたのは、シオン。
アルフレッドは見ての通りに手負いだ。今の自身の技量でもどうにかして止める事は可能だろう。だが、彼に続いて戦場を駆け抜けた、偃月の陣の中央を固めていた主力部隊は、すでに中隊歩兵陣形の二列目、三列目を食い破るかのような勢いで進行している。さすがにアルフレッドの手勢だけはあり、まさに精鋭揃いの騎士達は兵数で劣っていながらも、目に見えてストレインの騎士達を圧倒しているようだった。
ストレイン側も散開した一列目が狙い通りにルストの騎士達を挟撃しているが、いずれ突破されてしまう事は火を見るよりも明らかだった。
ならば、どうすれば聖王国ルストを撤退させる事が出来るかと言えば。それは眼前に立つ、最強の騎士を倒す他にないのだ。そうすればシオンも兵を押し返す役目に加わる事が出来るのだから。
「二列目、三列目は戦線を維持。私は――彼を討ちます!」
もはや一刻の猶予も許されないシオンは叫ぶと共に、長剣の柄を握り締める。
次の瞬間、重なって鳴り響いたのは剣響。
二つの金色に塗られた両刃の長剣が音色を響かせたのだ。鳴り響いた音色は一度、二度では止まる事はない。まるで何かの音楽を奏でているかのように、絶えず響き続ける。
一度聴き入れば、ここが戦場である事も忘れてしまいそうな澄んだ音色の数々。そんな音色を響かせ続ける事が出来るのは、二人の技量が等しいからに他ならない。正確に言うならば、最強の騎士たるアルフレッドの動きが鈍っているからこそ、シオンが剣を合わせる事が可能となっているのだが。
しかし、戦場という残酷な場所では手負いであろうが、技量が劣っていようが関係はない。そこにあるのは殺すか、殺されるかだけ。それ以外の方法が取れるならば、もしかすれば戦争など無くなるのかもしれないが、今の両者には殺すために剣を振るう他に道はない。
片方が剣を振り下ろせば、もう片方は応じる。愛する祖国を守るために、信じる道を突き進むために、剣を振るい続けるだけなのだ。
いったいどれだけ剣を重ねただろうか。
単純なる技量において後れを取っているシオンは、頬へと流れる汗を拭う間もなく長剣の柄を握り締めて、左から右へと横薙ぎに剣を走らせた瞬間。まるで止まっていた時間が再び動き出したかのように、事態は変化した。
今の今までは手負いである事が嘘であるかのように揺らぐ事はなかった、アルフレッドの剣が鈍ったのだ。横薙ぎに駆けた一閃は明らかに速さも、重さも足りてはいない。それでも彼は一瞬だけ表情を歪めただけで、シオンの剣を受け止めて見せた。
まさか油断させるための演技ではないだろう。シオンが知る彼は、戦いに関しては手を抜かない。ただ全力で応じて排除するのみだ。
(……傷の影響か)
そんな彼の剣が鈍る理由など、シオンが切り裂いた傷以外には考えられない。
自身の技ではなく、他の誰かの命を犠牲にして得た勝機にすがるのは人として、騎士として心が痛む。可能ならば全力の彼と戦って超えてみたい。そう思わずにはいられなかった。
「来い……シオン。それとも私を愚弄するか!」
どうやらシオンが考えている事など、手に取るように理解している年配の騎士は声を張り上げた。
手負いだろうが、命のやり取りにおいて手を抜かれる事だけは許せないのだろう。しかし、それだけではない事をシオンは知っている。彼は今なお迷うシオンを叱咤してくれたのだ。
信じる道をただひたすらに突き進むためには、迷いなどあってはならないのだから。彼は「自分を殺して、進め」そう伝えてくれているように思えた。敵となってしまったシオンを彼はまだ案じてくれているのだ。それでいて、彼は生きる事を望んでいる。生きて、そして新たな王と共に進む事を望んでいるのだ。
――敵わない。
シオンは素直にそう思った。
しかし、それでも人として、騎士として、彼を超えなければならないのだ。
「分かりました。次の一撃に――私の全てを込めます」
迷う心を霧散させたシオンは、横薙ぎに重なった剣へとありったけの力を込める。込められた力は徐々にアルフレッドの剣を押していき、最終的には力任せに吹き飛ばす。
さすがに騎士剣を手放す事はなかったが、剣をシオンから見て右側へと大きく飛ばされたアルフレッドは無防備な体を晒す。そんな彼が取れる手段としては後方へと引いて、態勢を整える事くらいだろう。
だが、そんな暇をシオンは与えない。
発した言葉の通りに自身の全てを騎士剣へと伝えて、彼が剣を戻すよりも速く、半歩下がるよりも速く。
シオンは鋭い一歩を踏みしめて、無防備な腹部へと高速の突きを繰り出す。
シオンの右手に伝わったのは確かな手応え。刃を防ぐ役目を果たす事はない軍法衣を易々と突き破り、肉を貫いた感触が手へと伝わったのだ。
「それでいい、シオン。お前は信じた道を――」
もう会話する事は不可能だと思っていると、どこか穏やかな声がシオンへと届いた。
アルフレッドは最後の力を振り絞って、背を押すための言葉を届けてくれたのだ。自身の命が消え去る、その瞬間に。
届いた言葉はシオンの心にすんなりと沁みていく。漆黒の瞳から溢れ出ようとするのは数多の想いだった。しかし、それを胸の内に戻したシオンは貫いた剣を引き抜いて、背後へと振り返る。まだ生きている自身にはやるべき事があるのだから。
ならば泣いている時間も、立ち止まっている時間もないのだ。正直な事を言えば、シオンよりも倍も長く生きている壮年の騎士二人の想いを背負うのは重いと思う。それでも想いを託された者が立ち止まる事は許されない。
だからこそ、シオンは――
「全軍――押し返して下さい!」
叫ぶと共に地を蹴る。
漆黒の瞳に宿るのは迷いなき意志。その意志を受け取ったストレインの騎士達は、息を吹き返したように攻勢へと移行していく。例え自身が倒れようとも仲間が、そしてシオンが押し返してくれると信じているのだろう。
その信頼に応えるためにシオンは剣を振るう。そんなシオンの背で倒れていくのは、穏やかな笑みを浮かべた最強の騎士だった。




