最終話 (四)
戦場となった、ストラト平原を冷静な瞳で見つめているのはアイザック。
冷静でいられるのは、自身が率いる兵数五千の部隊が交戦状態に突入していないからだ。そんなアイザックの部隊が位置するのは、城塞都市シェリティアから南東に二時間程進んだ先だ。この場からさらに南へと進路をとれば、ゼイガンの部隊が一戦交えている事だろう。だが、湖の付近は立ち込める霧の影響があって窺い知る事は出来ない。
不利であれば援軍を送らねばならないのだが、無暗に霧へと突っ込む事は危険である事は言うまでもない。そのためアイザックは敵の分隊を迎え撃つ事を選んだのだ。
シュバルツの本隊か、それともアルフレッドが率いる部隊か。
どちらと戦う事になるかは神のみが知っている事だが、シオンの話では後者の可能性が高いらしい。正面から本隊が突っ込んでくるという事は、よほどの事がない限りは有り得ない。例えば兵数が倍以上あれば話は別なのだが。
それは知略に劣るアイザックでも分かる事だ。
(さて……兵が焦れる前に現れるか)
戦争経験が豊富なアイザックは両腕を組んで、どっしりと構える事が出来る。
しかし、戦に不慣れな兵は緊張に表情を強張らせて、今にも駆け出してしまいそうだった。それを古参の兵がどうにかして留めているという所だろうか。
なぜここまで恐怖に縛られるのか。その理由は、一人で百人は斬ると言われているアルフレッドと戦うかもしれないからだ。聖王国ストレインが長きに渡って攻めあぐねている理由となっている男。純粋たる強さという恐怖を眼前へと押し付けてくる、敵国の将に恐怖しているのだ。
(……このままでは飲まれるか)
恐怖した現状のままで彼に出会った際は、身動きが取れなくなると判断したアイザックはゆっくりと右手を掲げる。
これは予め定めていた進軍の合図。
進む事で恐怖を紛らわし、戦う態勢を整えるためだ。アイザックの意図は、すぐに伝わり、皆が揃って平原へと一歩を踏みしめる。
アイザックが選んだ陣は中隊歩兵陣形と呼ばれる、歩兵を横三列に並べた陣。
アイザックが位置する兵数二千を有する一列目、シオンが位置する兵数千を有する二列目、最後に予備兵力と考えている兵数二千の三列目を必要に応じて入れ替える事で、持久戦に持ち込む事が可能な陣形である。また、三列に分かれているため散開がしやすく、上手くいけば突撃してきた敵を包囲殲滅する事も可能だ。
代償として突進力は弱いが、ゼイガンが用意した攻城兵器に似た巨大なボウガンの援護を受ければ補う事は出来る。むしろ陣の左右に一つずつ設置された、この巨大な兵器を活かすにはこの陣が最適だろう。
そうしてアイザックが組んだ陣の有用性について考えていると。
「――来ましたよ」
二列目に位置するシオンが涼やかな声を上げた。
それと同時にアイザックの耳に届いたのは息を呑む音。そして、温かみを感じさせる茶色の瞳に映ったのは、真紅の衣類を身に纏った壮年の男を先頭に駆ける騎士の姿だった。
どうやら予想通りに「彼」と出会ってしまったらしい。この大陸最強の騎士、アルフレッド・オーディルに。
(よりによって……偃月の陣か)
彼らの形成した三日月を思わせる、中央が先行して両翼が遅れて続く陣を視界に収めたアイザックは、内心で舌打ちをする。
敵の作戦は至って単純だ。恐怖の象徴たるアルフレッドが最前線に立って突撃し、敵の指揮官、この場合であればアイザックを討ち取るつもりなのだろう。前哨戦となると言われるこの戦いにおいて、将軍たるアイザックを討ち取る事が出来れば十分な戦果だ。しかも明らかに劣った兵力、僅か三千程度の手勢で。
「来るぞ! 皆、アルフレッドを狙え! 臆する事はない、狙いは俺だ!」
相手の意図を把握したアイザックは、大声を張り上げる。
おそらく付近にいた兵は、あまりの声に表情を歪めたに違いない。
だが、そんな些細な事に構っていられる状況ではない。最強の騎士はもはや駆け出しているのだから。
――敵の部隊までの距離は、すでに目測で三百メートル。
剣ではなく、遠距離の武器が有効な距離だ。それも切り札たる兵器が最も力を発揮する距離である。
当然、その程度の事は把握しているストレインの兵は、指示を受ける前に轟音を鳴らす。狙いはもちろんアルフレッドだ。
真紅の衣類を身に纏う彼は遠目でもはっきりと判別する事が可能であり、視界を遮る障害物も存在しない。
視界に映ったが最後。一つ瞬きをした時にはその体は貫かれている事だろう。あまりにも多勢な部隊には効果が薄いが、ただの一人に向けて放ったのであれば必殺の兵器と成り得るのだから。その分だけ狙う事は難しいが、外したとしても態勢を崩す事が出来るのは明白。
後は手にしたボウガンで一斉射撃をすればいいだけだ。何も不安に思う事はない。そう何度も自身に言い聞かせて、ボウガンを放つ絶対の機会を窺う。
だが、その時はいつまで経っても訪れはしなかった。確かに轟音を鳴り響かせて、二本の「必殺の矢」が放たれたというのに。
眼前を突き進む最強の騎士は表情を変えずに一本目を回避し、そして二本目に関しては手にした両刃の剣にて両断したのだ。振り上げるようにして駆けた金色の剣は、大楯すら易々と貫く矢を破壊せしめたのである。
「――馬鹿な!」
アイザックは、彼を人間として認める事が出来はしなかった。
長く戦場を駆け抜けてきた歴戦の将軍でさえ、彼のような男は見た事がないのだ。それほどまでに彼は人と言う存在を凌駕していた。それは皆も同じであるのか、すでに敵が二百メートルに迫るにも関わらず、手にしたボウガンからは一本の矢すら放たれない。目の前で起きた出来事に目を疑い、固まっているのだ。
「二列目、三列目――前進! 一列目は左右に散開! 急いで下さい!」
そんな中で一人冷静に戦局を見つめていたシオンが、代わりに指示を出す。
彼の判断が正しいかは不明だが、放心していた騎士は弾かれたように動き出す。
一列目は指示通りに散開し、中央を突き破ろうとする敵国ルストの兵を左右から挟み込む。そして、二列目、三列目は兵を密集させて眼前に迫る敵へと備えていく。手にするのはボウガンではなくて、騎士の誇りたる剣だ。
――すでに敵は眼前。
皆の判断は正確だった。それらの情報を数秒で整理したアイザックは、背負った大剣の柄を両手で握り締めて正面を睨みつける。
重なったのは二つの茶色い瞳。普段は穏やかで温かさすら感じさせる両者の瞳は、今は冷ややかな殺気を含み鋭い。その鋭さは両者の剣へと伝わり、戦場を切り裂く。
振り下ろされる金色の長剣と、振り上げられる全てを破壊する剛剣となって。
共に兵を預かりし者達の命をかけた一閃は、焼かれたような火花を撒き散らしてアイザックの視界を埋めていく。しかし、見えずとも放たれる殺気で相手の位置は手に取るように分かる。
ゆえに、アイザックは迷わない。
自身が成すべき事は、ただ手にした大剣に全ての力を注ぎ込むだけなのだから。怯まぬ意志を受け取った剛剣は、完璧なる膂力の助けを借りて、一瞬だけ最強の剣を上回り、アルフレッドを強引に後方へと吹き飛ばす。
だが、これが常人の限界だった。
それを証明するように、一歩、二歩と後ずさった最強の騎士はすぐさま態勢を整えて鋭い一歩を踏み込んだのだ。当然、重量のある両手剣を振り上げたアイザックに成す術などある筈がない。
アイザックが再び大剣を構え直している間に、陽の光を吸って煌めいた剣が自身の体を両断している事だろう。
無理を承知で下がるか、それとも最後の手段を使うか。
迷ったのは数瞬だった。
どうせ助からないのであれば、最強の騎士に傷をつけるのも悪くはないと思ったのだ。全ては聖王国ストレインのために。そして、王ラディウスのために。
迷いを振り切ったアイザックは振り上げた大剣を、勢いはそのままに放り投げると――
「シオン殿! 貴殿を信じる!」
力の限り叫ぶ。
老い先短いこの命が未来を担う若い世代に引き継がれる事を信じて。一度疑ってしまった彼が、アイザックの想いに応えてくれるかは分からない。
だが、カナデが、そして他ならぬ姫が信じた騎士なのだ。
――必ず想いを受け継いでくれる。
そうアイザックは信じる事が出来た。いや、そう信じたかったのだ。
だからこそ自身を数秒の暇もなく切り裂くであろう、絶対者の一閃を腹部にて受け止めて、すかさず自由を得た両腕を伸ばす。
アイザックが掴んだのは、軍法衣と呼ばれる衣類越しに触れた最強の騎士の右腕だった。しかし、掴んだ手は金属でも仕込まれているのかと思える程に揺らがずに、刻一刻とアイザックの腹部に騎士剣が食い込まれていく。
だが、これでいい。
その間にも、希望の音が近づいているのだから。
「アイザック殿! 彼は――私が!」
届いたのは駆ける足音と、どこか柔らかい声。
アイザックが国の希望を託した青年の声だった。その声を耳にしたアイザックは再び両腕に力を込める。唯一の機会を決して離さないために。自身の行動が、聖王国ストレインの明るい未来へと通じていると信じて。
――刹那。
閉ざされていく視界に映ったのは、希望の一閃。アイザックの信頼に応えた、シオン・アルトールの揺らがない意志が込められた一閃だった。




