第一話 (三)
澄み渡る青空から差し込むのは身を震わせる寒さを幾分か和らげる日の光。
極寒のこの大陸において比較的過ごしやすいといえる正午過ぎの時刻で。
「外に出るのは三日ぶり。やはりいいわね」
空高くへと両手を伸ばしているのはイリスである。
姫という身分のためか外に出る機会の少ないイリスにとっては、日の光は当然ながら全身に感じる凍てついた風でさえ心地いいと思ってしまう。それほどまでに外へと出る機会が少ないのである。今回のようにお忍びで外に出てしまう事も無理からぬ事だった。
「イリス。あまり目立っては駄目だよ」
すでに自身が姫である事をすっかり頭から抜け落ちているイリスに向けて、幼さが残る騎士が一言注意する。
だが、その程度でイリスは行動を制限する気はさらさらない。今は何気ない景色も、足へと伝わる固い感触でさえ、触れるもの全てが新鮮で仕方がないのだから。
そんな嬉しさで心躍らすイリス達が歩いているのは、聖王国ストレインの中心と言っても過言ではない、城塞都市シェリティアのメイン通りである。
――メイン通り。
都市南部に位置する城から真っ直ぐに北へと伸びた、赤茶色をした硬質なる岩が隙間なく詰め込まれた通りである。当然、通行人が最も多いのもメイン通りであり、声を上げたイリスを横目で見た住民の幾人かは驚きで目を見開いている。アリシアが声を掛けたのはそのためだ。
しかも、この通りの左右には一年中舞う雪の対策を重視した三角屋根の住居が立ち並んでおり、数分でもすれば姫の姿を見ようと人々が集まってしまうことだろう。そうなればこの場は人で埋め尽くされ、先へと進む前に臣下の騎士によって城に連れ戻されてしまう事は分かりきっている事だ。
ついでに南側、つまりは城に近い位置にあるのが、住民または城に務める者が暮らす住居であり、北側の城門近くにあるのは商人の工夫がなされた商店となっている。
「雪で滑りやすくなっておりますので……ご注意を」
アリシアの言葉を無視していると、次はイリスの身を案じた老齢な男性が一言。
(この二人は心配し過ぎよねぇ)
内心で呟いたイリスは、漏れそうになる溜息を何とか飲み込む。
迂闊に溜息などつこうものなら二人の心配性がさらに加速してしまうからだ。まるで子供の面倒を見るかのような二人の姿勢には困ってしまう事もしばしばある。しかし、全てはイリスのためであるので、そう邪険にする事は出来ない。
「大丈夫よ。それよりも銀の森に行くわよ」
何も言葉を返さないと二人も不満だろうから、とりあえずは目的地の名前を述べるイリス。
「うん。銀の森――元は生命の森と呼ばれた場所だね」
何気なく発した声に素早く反応したのはアリシアだった。
イリスは視線を一度左に向けて童顔の彼女を見つめる。見た所ではアリシアの横顔はどこか自慢げに見えるのは気のせいではないだろう。どうやら政治に必要な知識しか持っていないイリスへと自身が持つ知識を伝える事で、舌を噛んだ失敗を今ここで取り戻したいらしい。
アリシアは見た目だけでなく、どこか内面も幼い所がある事を心得ているイリスはただ黙って彼女の言葉を待つと。
「一年前までは白、黄色、赤と目移りしてしまうくらいに色とりどりの花が咲いていたんだ。鮮やかな色を見ているだけでも満足できるんだけど……その中で一番のお勧めとされていたのがカナデの花。風に揺れる事で澄んだ音色を響かせる真っ白な花だよ。奏でる音色がまるで生きて歌っているかのように聴こえる――だから生命の森。私は一度だけ聴いた事があるんだけど……今でも忘れられないなぁ」
ただ説明するだけのつもりだったアリシアは音を奏でる瞬間を目の当たりにした時を思い出したのか、頬を赤らめてうっとりとした表情を浮かべていた。
(やっぱり癒されるなぁ)
どこか夢心地な表情を浮かべるアリシアを見つめたイリスは表情を緩める。なぜか彼女の話を聞いていると優しい気持ちになれるのだ。極寒な地である事も、隣国といつ戦争になるのかも分からない現状でもほっと一息付く事ができるのである。
しかし、そんな幸せな瞬間はすぐに終わりを向かえてしまう。アリシアの言葉が過去形であったように、すでに色とりどりの花も、音を奏でる白き花も、向かうべき森には咲いていないのだから。
「私も一度くらいは聴いてみたかったですね。ですが、あの場所はすでに氷雪種によって荒らされてしまいましたからね」
明るい気持ちが沈みかけた時に向けられたのはゼイガンのどこか固い声だった。固い声を出す時の彼は何か考え事をしている時だ。何か直感に近いものを感じ取った、そんな時である。
(まさか氷雪種が現れるの?)
神出鬼没なあの化け物ならば、出現しないと断言する事はできない。
しかし、それ以上はゼイガンも、同じく彼の言葉を聞いたアリシアも言葉を発する事はなかった。そのため自身の考え過ぎだろうと判断したイリスは浮かんだ疑問を霧散させる。
しばらくは無言で、溶け残った雪が残る赤茶けた通りを歩いていると、次第にイリスの体をすっぽりと覆う影が全身を包み込んでいた。
影の正体は一つの建物。聖王国と呼ばれる所以たる大聖堂だった。
都市の、そして国の象徴と言っても過言ではない建物の高さは、二十メートルを誇る城壁と同程度、見上げれば首が痛くなりそうな程に高くそびえ立っている。まさに見る者を圧倒してしまう程の強さと迫力を感じさせる建物だ。
そんな王族が住まう城以上に存在感を放つ大聖堂から漏れ聞こえるのは、楽しそうに笑う子供達の笑い声と、神に捧げられる清浄なる歌だった。
聴く者の心を洗い流すかのような聖歌を、イリスは一度深呼吸をして聴き入る。届いた歌声は瞬く間に心へと沁みていき内側から力と変わっていく。
「懐かしいなぁ」
「いつ聴いてもいいわね。アリシアは今でも歌えるの?」
イリスは左隣で、どこか懐かしそうに呟いたアリシアへと問う。
「そちらは全く駄目だよ。その代わりにお菓子作りと――こっちは負けないけど」
問われたアリシアは一度恥ずかしそうに頬を赤らめてから、左手に持つ槍を軽く掲げて見せた。聖歌が歌えないのなら大聖堂にて販売しているお菓子を作るか、それか代わりに皆を守る刃を握る。そう宣言したアリシアはただひたすらに己の腕を磨き、結局は後者を選んだ。
そんな彼女も現在では騎士という身分をイリスの名において保障されている。なぜイリスの名が必要なのかといえば、元々は身寄りがない孤児だからである。平民でさえない彼女を戦時下において徴兵する兵ではなく、身分の保証された騎士とする事に対しては、当然反対する者は数多くいた。
そんな反対を槍一本で黙らせたのがアリシアだった。
反対する騎士に対して正面から決闘を申し込んだ彼女の戦績は、五十戦、四十八勝。
一時期は私闘を続けるアリシアを罰するという声もあったのだが、華麗な槍捌きと、ただ純粋に世話になった人を守ろうとする心根が気に入ったイリスが専属の護衛として側に置くと宣言した事で今の形が成り立っている。
ある意味では命の恩人と言ってもいいイリスではあるのだが、そんな事を主張する気はさらさらない。アリシアにも気にして欲しくはない事は言うまでもない。
だからこそ。
「そちらは頼りにしているわ、アリシア。それでは……いつものように道案内をお願いしようかしら。街道の道は覚えたけれど森は全く分からないから」
小さいけれどどこか頼りになる彼女に向けて、イリスは一度肩を竦めて呟く。
「任せてよ!」
言葉を受け取ったアリシアは、即座に蒼い瞳を輝かせて、我先にと歩いていく。
「ああいう所は……まだまだ子供ですな」
「そうね。でも、彼女の明るさは必要だわ」
アリシアの様子に固い表情を緩めたゼイガンに、イリスは自身に言い聞かせるように呟く。気分が落ち込んだ時も彼女を見ていれば、なぜか心が明るくなっていく。
ただ槍が扱えるだけが理由で彼女を側に置いている訳ではないのである。
「遅いよ。二人とも!」
イリスとゼイガンが何を思っているのか知らない彼女は振り返って、元気な声を発して両手を大きく振った。見ているとこちらが恥ずかしくなってしまうのだが、明るい爽やかな彼女を見ていると自然と心が軽くなっていく。
不安な気持ちなど最初からなかったかのように、晴れ渡った気持ちになれるのである。
そして強く思えるのだ。今度こそ伝わるのだと。
初めて会った時は、瞳すら向けてくれなかったカナデに想いが伝わると思えるのである。
一回目は先ほども述べたようにまるで相手にしてはくれず、二回目は一度だけ光を宿さないガラス細工のような瞳を向けてくれて、三回目は揺れた瞳をイリスに向けてくれた彼女へと。
(もう一度……この手を差し出せば)
四回目は言葉と共に、イリスは手を差し出した。
触れたものを氷の結晶へと変えてしまう力を持つ彼女に向けて。衣類越しならば力は発動する事はないのだが、自ら触れようとしたイリスに驚いたのか差別されし少女は一度瞳を大きく見開いた。
あの瞬間になってようやくイリスは、カナデの心に触れる事が出来たような気がしている。もう一度声を掛ければ彼女の心は動き出す、そう思えたのだ。
(絶対に――)
浮かんだ決意をイリスは強く、強く心へと刻み込む。決して消えない想いを。
――ただ一人の少女を救うために。
刻まれた想いはイリスの迷いを全て消し去ってくれる。
「連れ帰るんだから」
溢れた想いを言葉に変えたイリスは、両手を振るアリシアに向けて力強い一歩を踏み出した。