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氷結の歌姫  作者: 粉雪草
第一部 たとえ失ったとしても
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最終話 (二)

 視界を埋め尽くすのは、白き霧。

 まるで氷雪種を形成する死の霧を思わせるような、ただ白い空間が広がっていた。

 視程は極端に悪い。何となく人がいる事は分かるだろうが、それが誰かを判別するのは難しいのではないだろうか。

 はっきり言って戦場として選ぶには適さない状況を作り出しているのは、湖で両目を閉じて佇む一人の少女。触れた物を氷の結晶に変える力を持った、汚染者カナデだった。

 先ほど湖の上で「佇む」という言葉を使ったが、カナデは何か、例えば太い丸太のような物の上に載っている訳でなく、かといって木製の船に乗っている訳でもない。自身の力を漆黒のブーツ越しに湖面へと伝え、凍結させているのだ。

 全てを凍らす力はストラト平原の南に位置する湖の温度を下げ、早朝という事も相まって、普段よりも濃い霧を立ち込める事に成功している。普段からこの湖を見ている者であれば即座に濃すぎると気づくだろうが、巡回程度に立ち寄る者ならば発見が遅れるだろう。それを狙って、カナデはこの場にずっと独りで佇んでいるのだ。

 合図となる音が届くまで、ずっと。

 漆黒のローブに包まれている体が霧の水分によって湿り、痛いくらいに冷えても気にした様子もなく。ただ聖王国ストレインに、イリスに勝利を届けるためだけに、この場に佇んでいるのである

(……もう何時間経っただろうか)

 全身が冷えたためなのか時間が経つ度に眠くなっていく自身を覚醒させるために、カナデは心中で呟く。

 正確な時間は分からないが、おそらく一、二時間は経っているのではないだろうか。

 お互いに自国の未来を決める戦いとなるため、慎重になるのは理解出来る。だが、そろそろ始まっても良いのではなかろうか。

 戦いが始まらない事も不安だが、それと同時にゼイガンの取った策が成功するかどうかも気がかりではある。彼が言うには、必ず湖面に沿って軍が移動すると言っていた。その一団を、攻城兵器に似た巨大なボウガンで射抜いて乱し、その間にカナデが湖面を侵攻して奇襲するという事になっている。

 それがゼイガンの用意した策だ。中央を進む部隊は、アイザックとシオンが止めてくれる事だろう。

(アルフレッド・オーディルか。それとも、シュバルツ・ストレインか)

 どちらかが率いる部隊に側面から特攻する事になる、カナデ。

 冷静な第三者が見たならば、馬鹿げていると思うかもしれない。しかし、だからこそやらなければいけないと思う。化け物と呼ばれるこの力も上手く使えば、切り札となり得るのだから。

 それに、イリスは戦う事しか出来ないカナデに戦う理由をくれた。戦えない彼女の代わりに刃を振るう者、代行者。汚染者という名と比べれば格段に良いのは言うまでもない。

 再び内から溢れた熱を感じたカナデは、そっと漆黒の瞳を開く。

 何かが見える訳ではない。だが、自身の成すべき事を、しっかりと両目で見据えておきたかったのだ。

 ――しかし。

 それは、ある種の直感がそうさせたのかもしれない。祖国ロスティアにいた時からずっと戦場に立ち続けていた自身が戦いの合図を無意識に捉え、閉じた瞳を開かせたのかもしれないのだ。

 それを証明するかのように、鳴り響いのは轟音だった。

 おそらくあの巨大なボウガンに似た兵器から、ランスを思わせる程に太い矢が射出されたのだろう。

「――行く!」

 一人で突撃する恐怖を叫び声一つで吹き飛ばしたカナデは、まるで弾かれたように鋭い一歩を踏み出す。

 寒さと恐怖で震えた右手に形成せしめたのは、童話の世界で死神が魂を刈る際に用いる大鎌に似た凍てついた刃。

 ――氷装具。

 透き通った氷色の刃は、カナデの手を通じて身に宿った力と結びつく。その結びついた力を伝えるのは両足。さらに正しく言うならば、漆黒のブーツ越しに湖面へと伝えていく。

 鳴り響いたのは、数多の乾いた音色。

 力を受けた湖の表面が、一瞬で凍りついた音だ。

 だが、液体から固体へと姿を変貌させたと言っても直に触れた訳ではないため、その力は目に見えて弱い。まるで指で突けば割れてしまうのではないか、そう思える程に足場となった湖面は脆いのだ。

 そもそも氷雪種の力は生命を持ったものに有効な力。それは人であったり、花であったり、木々であったり、育ち命を育むものに強く影響を与える。

 力に触れても身に纏う衣類が凍らないのは、そこに命がないからだ。限界まで力を解放すれば氷の結晶とする事も可能だが、それは支払う代償を思えば、あまりにも非効率だと言わざるを得ない。

 だが、今はその非効率な事を成さねばならない。

 頼りない足場の下は氷点下の世界なのだから。一度落ちれば、凍死する事は誰でも分かる事だ。全てを凍らす者が凍死するというのは悪い冗談のように聞こえるが、所詮はカナデも人間。落ちれば他の者と同じように助かる事はないだろう。

(まだ……見えないか)

 頼りない足場を駆ける事、数歩。ガラスが砕ける乾いた音色を耳にしながらカナデは心中で呟く。当然、その間も力は緩める事なく、漆黒の瞳は前方を睨んでいる。

 しかし、視界を埋めるのは依然として、真っ白。

 目標とするべき聖王国ルストの騎士は視界に映る事はない。それはおそらく相手も同じだろう。この深い霧がカナデという、奇襲の要を覆い隠してくれているのだから。

 だが、不安もある。

 それは相手の位置が正確に分からない事だ。下手をすれば、ゼイガンの部隊の真横に飛び出してしまう可能性もあるからだ。

 それを防止するために、ただ真っ直ぐに直進する。湖面を揺らすかのような騎士の雄叫びと、ゼイガンが用意した兵器が鳴らす轟音を頼りにして、ずっと。

 響く音は次第に耳にうるさく変わり、密かに戦いが近づいている事をカナデに知らせる。

 ――その瞬間。

 一つ、鼓膜を破壊するかのような轟音が鳴り響いた。轟音は水面を乱し、カナデの唯一の足場を揺らす。

 薄い氷の膜が粉々に砕けるのに要する時間は、おそらく数瞬。瞬きすら許されない時間だろう。

(――近い!)

 湖面から伝わった振動から大よその距離を把握したカナデは、与えられた数瞬を使って凍てついた湖面を蹴りつけた。


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