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氷結の歌姫  作者: 粉雪草
第一部 たとえ失ったとしても
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第五話 (五)

 鼻につくのは、酒気を帯びた澱んだ空気。

 酒とは無縁の生活をしているアルフレッド・オーディルは、この空気に触れるだけで不快極まりない。

 しかし、アルフレッドが立ち尽くしているのは「憩いの楽園」という名前のついた酒場であるのだから、文句を言う事は出来ない。どちらかと言うと金糸をあしらった豪奢な軍法衣を身に纏っている自身の方が異物であり、この場には不釣り合いだろう。

 では、なぜ酒を飲まない堅物がこんな場所にいるのかと言えば。

「シュバルツ様。軍議が終わりました」

 それは自身の口から漏れた一言で分かるだろう。

 アルフレッドが声を掛けたのは、一人の青年。

 力強く踏み込めば踏み抜いてしまうのではないかと思われる脆い木目調の床を十歩ほど進んだ先にある、カウンターに座る一人の青年だった。

 腰まで届く茶色の髪を頭の後ろで一つに縛り、真紅の軍法衣を身に纏う体躯は男性にしては細い。だが、それは貧弱という事ではなくて、引き締まった無駄なき体という意味だ。

 本来であれば、こんな下賤な場所にいてはならない人物。

 ――次期国王、シュバルツ・ストレインである。

「なんだ、アルフレッドか。 俺はどうせ……南よりの迂回路なのだろう? そして、お前は直進……違うか?」

 その次期国王は酒の入った透明なグラスを片手に、アルフレッドが報告すべき事を的確に述べた。

 南よりの迂回路とはカストア砦から出撃して西に、つまりはストラト平原に沿う湖に寄り添うように進軍する事を意味している。そして、アルフレッドの部隊は進路を北西に。最短の道を進軍する事になるだろう。

「おっしゃる通りです。とは言いますが……それ以外に侵攻する道はありません」

 彼の意見を肯定しつつ、アルフレッドは長身の体を一歩、二歩と進めていく。

 その間に、円形のテーブルにて酒を飲んでいる男達が視線を向けてくるが、当然視界には入れない。ただ見つめるべきはシュバルツのみだ。

「まあ、そうだろうなぁ。北への迂回路という道もあるが……それはグシオン連合国を刺激するようなもの。あまりにも危険過ぎるからな。そして、部隊を分けずに全軍突撃など愚者が選ぶ策……伏兵の可能性がない湖に沿っての進軍が安全と言える。だが、そんな分かりやすい策でいいのか?」

 アルフレッドの痛いくらいの視線を受け取った次期国王は、軍議において出された進路を、酒を飲みながら語る。そして、軍議が長引いた理由ともいえる、何の捻りもない行軍についての懸念についても問うてきた。

 ただ一言、二言話しただけで。

 おそらく彼がいれば、軍議などものの数分で終わったのではないか。実際に先ほど彼が述べた案はすぐに出た。ただ最終決定が出来る者がおらず、長引いてしまったに過ぎないのだから。

「我らは……カーマイン殿がラディウス王を討つまで戦えばよいだけです。それに平原で奇策を用いるには限界があるでしょう。ならば『正面から戦う』というのが皆の意見です」

 特に細かな説明は不要なために、アルフレッドは問いへと淡々と答える。そして、その間にアルフレッドは言葉を届けるべき相手の眼前へと辿り着いていた。当然、これからやるべき事は決まっている。翌日に備えて城に連れ帰るのだ。

「悪いが……今夜は戻らんぞ。俺の代償は、渇き。今日は溺れる程に酒を飲みたい」

 だが、彼はアルフレッドに背を向けて豪快に酒を飲む。

 酔い潰れるという言葉とは無縁の勢いだった。殺すか、酒を飲むかで代償と戦うシュバルツ。そんな彼の姿は、純粋な彼を知り得るアルフレッドには見るに堪えない姿だった。

 ――いっそこの手で、終焉を。

 そう思ってしまう程に、変わり果てた彼の姿は悩ましい。

 だが、それは叶わない事は知っている。こんな姿となろうとも彼は自身が仕えたいと望む者なのだから。いつか彼が剣を握らなくてもよくなれば、以前の純粋なる笑みを浮かべてくれると信じているのだ。

 だからこそ、今は――

「分かりました。今夜は引き下がりましょう」

 言葉を残して、彼へと背を向ける。

 無防備な首筋に手刀を叩き込んで気絶させてもいいが、それはやはり臣下としては出来ない事だ。もしかすれば、それを成す臣下もいるのかもしれないが、アルフレッドには出来はしなかった。

 やはり自身の子供と同じように育ててきた彼に、どこか甘い部分があるのかもしれない。百人は殺せる畏怖の象徴たる武人も、所詮は一人の人間。甘さもあれば、弱点もあるものだ。

 一体何のために、こんな場所まで来たのか自身でも理解に苦しむが、目的が果たせないのならば、もうこの場にいても仕方がないだろう。

 そう諦めた時。

「安心しろ、アルフレッド。俺は……いや、俺達は絶対に勝つ」

 酔った男達の大声に混じって、澄んだ声が届いた。それはアルフレッドがよく知る彼の言葉だった。穢れというものを知らず、ただ前だけを見ていた純粋な彼の言葉だったのだ。

「――その言葉だけで十分です」

 どうやら自身は、この言葉が欲しくてここに来たらしい。そう確信出来る言葉だった。彼が勝つと言うならば、倍の軍勢が向かって来ようとも勝てるような気がするのだから。いや、例え不利であろうとも自らの剣で道を切り開く事だろう。

 百人という数字を凌駕し、千人でも斬ってみせる。

 そう思えるのだ。だからこそ、届ける言葉も短くていい。信じる次期国王には、この言葉だけでも届くのだと信じているから。

「お前はそういう奴だったな。まあ、戦いが終わり……あの生意気な姫を俺に跪かせた後ならば、お前の説教くらいは聞いてやる」

 その想いが伝わったのかどうかは分からないが、シュバルツは言葉を返してくれた。

 しかし、どこか横柄な物言いに溜息が漏れそうになる。だが、敵国の姫を即座に殺すと言わない辺りは、まだ純粋な心が残っているのかもしれない。それは同時に、アルフレッドの言葉もまだ届くという事だ。

「どうやら……少々、お説教が長くなりそうです」

 ならば、戦いが終わった後にゆっくりと話せばいい。

 そう判断したアルフレッドは言葉を残して、来た道を戻っていった。大騒ぎをする酒場の雰囲気とは対照的に、静かに物音を立てずに。

 まるで今からでも戦になりそうな、張り詰めた緊張感をその身に宿して。そんなアルフレッドの背に、シュバルツの視線が届く事はなかった。


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