第四話 (四)
城塞都市シェリティアの王城、一階。
王に謁見を求める商人、他国の使者、そして数多の伝令、騎士が順に訪れる謁見の間にて。
「アイザックが待機している?」
疑念に満ちた声を上げたのは、ラディウスだった。
普段から厳つい顔をしているが、現在の顔はさらに険しくなっている事は確認するまでもない。その理由は自身が述べた通りだ。
ストラト平原に偵察に行ったアイザックが戻ってこない所か、その場で待機しているといのだ。そんな命令などした覚えはないというのに。
豪胆なる将軍の性格をよく知るラディウスからすれば、彼が命令通りに動かない理由がまるで分からない。確かに彼も一人の人であり、ラディウスとも主に軍事の事で衝突する事はある。
だが、ここまであからさまな命令無視は初めてだった。何かがあったと即座に思うのは自然だろう。その疑問を晴らすために、ラディウスは深い緑色の瞳を、真紅の絨毯が敷かれた広間で跪く騎士へと向け続ける。
すると――
「はい。やはり王は何も知りませんでしたか。私はアイザック殿が秘密裏に派遣した者です。私よりも早く伝令が来ませんでしたか?」
彼は神妙なる顔で報告をすると共に、ラディウスへと問う。
(伝令だと? リシェスの件か?)
ラディウスは問いを受けて、一度瞳を閉じて心中で確認する。
確かに彼の言う通りに、数十分前に伝令が来た筈だ。その伝令の報告は、勝手に動いたリシェス共和国と聖王国ルストとの戦いの顛末のみ。あまりにも正確で、用意のいい情報伝達に寒気を感じた事を、今でもラディウスははっきりと覚えている。
その情報源は、王の参謀たるカーマイン。彼の情報であれば正確なのだろうが、アイザックの件といい、何を信じて、何を疑えばいいのか、正直分からなくなっている。
「王?」
あまりにも思考に耽ってしまったためか、伝令の男が訝しんで声を掛ける。
「すまない。少し考えていた。確かに先に伝令が来た。リシェス共和国とルストとの交戦についての報告だった。アイザックの事は何もなかったな」
これ以上黙している訳にはいかないラディウスは、自身が持っている情報を彼へと伝える。
「そうですか。我らは……如何に?」
すると彼は一度唸った後に、一人の騎士として王へと指示を窺った。
余計な意見を加える事で、ラディウスの考えを曲げないためだろう。この年配の男は、騎士の手本とでも言えるような、そんな男なのかもしれない。
「アイザックに伝えて欲しい。即座に帰還せよ、とな。同盟国が戦っている間に……平原で待機していたなど知れれば言い逃れが出来ん。もう遅いのかもしれんがな。ただ伝令は二手に分かれてくれ。当然、護衛も用意する」
王の命を待つ彼に向けて、ラディウスは迷まず指示を出す。
ただの伝令を返すだけにしては仰々しいような気もするが、用心には越した事はないだろう。国内に裏切り者がいるとは思いたくはないのだが。
結局は、臣下を疑うよりも、無条件で信じてしまうラディウス。
この甘さがいつか自身の首を絞めるかもしれない。しかし、信じたいと思うのだ。己と、そして国の誇りのために突き進む臣下達を。
「分かりました。もしかすれば……帰還する姫と一緒となるかもしれませんな」
もう他に命がないと理解した、年配なる騎士はゆっくりと立ち上がり、そして柔らかい笑顔を浮かべて一言述べた。その表情はどこまでも優しい。
イリフィリアを思っての事なのか、それとも子を持つ者としての言葉なのか。それは分からないが、彼の言葉を聞いた瞬間にラディウスは、自身の道を真っ直ぐに突き進む愛娘が心配で仕方がなかった。
勝手に飛び出した事を怒っているというよりも、今は無事な姿をこの瞳に焼き付けたい。そんな気持ちで、心中は満たされていたのだ。
「会ったら伝えて欲しい。心配で仕方ないから……さっさと帰ってこいと」
だからこそ王は、一人の父親としての伝言を彼へと託す。
「御意」
彼は何も言わずに、左胸へと右手を置いて一つ礼をするのみ。そんな彼を見つめるラディウスの表情は、どこまでも優しかった。
*
来た道を戻る。
それは楽しい事であっても、過酷な事であっても案外酷なものだ。しかも今回の場合で言えば、何の成果もなく戻る事になるというのだから。カナデの、いや、イリスの旅は一体何だったのかと、そう思わずにはいられない。
しかし、そんな事を思っているのはカナデ、ゼイガン、アリシアくらいなのかもしれない。そう思う理由は、カストア砦へと続く街道を、先頭を切って進むシオンの背はどこか迷っており、列の中央にいるイリスが浮かべる表情には後悔の色はない。
伝えるべく事は伝えた。後は彼らを信じる。そう言いたげな表情に見えるのだ。
「カナデ。どうしたの?」
どこか達成感すら感じさせる表情を浮かべたイリスは、カナデの視線に気づいたのか小首を傾げる。まさしくいつも通りだった。もうあの冷たい瞳を向ける事はない。
(あれは……幻だったのか?)
そう思ってしまう程に、イリスは自然体だったのだ。
もしかすれば一度謝罪した事で、もはや彼女の中では無かった事になっているのだろうか。そうであるならばカナデも忘れるべきなのかもしれない。
そう心中で決着をつけたカナデは――
「何でもない。そろそろカストア砦だ。しかし、砦に入る前に問う事がある」
誤魔化すと共に、そっと前方に、先頭を進む、真紅の軍法衣を纏う男の背を見つめる。
すると。
「申し訳ありませんが……私はここまで、です。次に会うのは戦場かと」
シオンは立ち止まると共に声を絞り出した。
他人の心境などそうそう分かるものではないが、ここまで辛そうに、そして両肩を震わせながら言われれば無理をしている事はすぐにでも分かってしまう。
彼が浮かべる迷いは何なのか。
それは知りたいような気もするが、同時に知れば彼に向ける刃は鈍ってしまう。それだけは国を守る騎士として、あってはならないような気もする。
「ここまで安全に動けたのはあなたのおかげです。それについては感謝致します。ですが……戦場で会うならば容赦はしません」
そんなカナデの心境を知ってか、知らずか。ゼイガンは釘を刺す様な言葉を皆へと向ける。それは心が触れそうになっている者を遠ざけるための言葉。どこか冷たい言葉ではあるが、迷いを断ち切るためには必要な言葉だった。
「あえて汚れ役を引き受けますか。敵である事がここまで悲しいと思った事はありません。叶うなら……国が統一された時に共に剣を取れる事を祈ります」
言葉を受け取ったシオンは振り返る事はなかった。
ただ言葉を発して、一歩、二歩と進んでいく。彼の眼前に立ち尽くすのは、両国の国境とも言えるカストア砦。その堅牢なる城壁は、もはや分かり合う事など不可能だと言外に述べているような気もする。それでも何か掛ける言葉はないのかと、カナデは思考を走らせる。その間にもシオンは迷いを振り切るように進んでいく。彼の背が遠ざかるだけ、重なり掛けた想いは遠のいてしまう。
そんな中で、彼を止めたのは――
「今からでも一緒に参りませんか?」
イリスの真っ直ぐな言葉だった。
敵であろうと、仲間であろうと、変わらずに、浮かぶ想いをぶつける聖王国ストレインの姫君。どこか独善的とも言える彼女の力ある言葉。そして、魔法でも宿っているかと思ってしまう、深緑の瞳がシオンの背を信じて見つめていた。
「あなたという人は……私を迷わせますか」
しかし、シオンの言葉は拒絶だった。
騎士として忠誠を誓った国を、簡単に裏切る事は出来ないのだろう。
「あなたの望みと私の望みは同じ。それなら共に歩める筈です」
しかし、その程度で諦めるイリスではない。
再び胸の前で両手を組んで言葉をぶつける。共に手を取って、進むという道を示すために。シオンだけではなくて、聖王国ルストの者達に示すために。
これがイリスの最後の説得。
シオンのように共に歩む事を望む者でさえ説得出来ないのであれば、もう未来はない。この大陸における戦争は、ただ血を流すだけの陳腐なものと成り果てるだろう。それは誇りも何もない、野蛮なる戦いと大差はないように、カナデは思う。
それはシオンとて分かっている筈なのだ。短い時間ではあるが、イリスの想いと言葉に触れた彼ならば。いや、同じ想いを浮かべる彼ならば、より深く理解している筈だ。
だからこそカナデは――
「シオン・アルトール。あなたの望む道を……この国に示す事は出来る。あなた自身が動く事で」
イリスを助けるために言葉を届ける。
同じ騎士として、そして祖国を失った者として。
「国を……誇りを失った者でも可能だというのですか?」
そんなカナデにシオンは応えてくれた。振り返ると共に、光の宿った瞳を向ける事で。
「ああ。あなた自身が変わる事で。変わらないのであるなら……あなたは何も成せはしない。祖国ロスティアを守れなかったように」
ようやく言葉が通じると理解したカナデは、あえて彼を挑発する。
愛する祖国の名を口に出した事に対しては、心を引き裂かれたような痛みを感じるが、今はその痛みすらも耐える。彼のために、そしてイリスのために。
「その言葉取り消してもらいましょう。祖国を想う者として、断じて……断じて許せません」
予想通りに挑発に乗ったシオンは、腰に吊った鞘から、金色に塗られた特注の騎士剣を
抜き放つ。
あの剣に触れた物は大楯だろうが、攻城兵器だろうが、易々と両断せしめる絶対の刃だ。それは剣が特殊だからではない。ただ彼の剣技が秀でているからだ。
だが、カナデは下がらない。失敗すれば即死するかもしれないが、譲るつもりはないのだ。
「あなたの怒り――我が命を持って応えよう」
心へと浮かぶ、揺らがぬ意志を言葉に変えたカナデは、手袋越しに騎士剣を抜き放つ。彼を説得するために、身に宿る穢れた力を使うつもりはない。
それでは何の意味もないのだから。
後は地を蹴るのみ。両者の鋭い視線が重なる刹那の直前。
「カナデ。信じていいの?」
「無論だ」
今まで状況を見守っていたイリスが、カナデへと問う。
その問いに向けてカナデは即座に応える。彼女を不安にさせないために、そして自身の心を叱咤するために。想いは両足へと伝わり、鋭く地面を蹴りつける。自身の命を決めるのは一秒にも満たない一閃。だが、カナデは恐れずに鋭い一歩を踏み込む。
刹那、甲高い金属音が鳴り響いた。
振り下ろされる金色の剣閃と、横薙ぎの銀閃が重なった音色だ。重なった二つの剣は、視界を塞ぐ程の火花を一度、二度と撒き散らす。
(さすがに重いか……だが)
重なる剣の重さを感じたカナデは、両手が痺れる事も構わず剣を振るう。そして、この大陸で一、二位を争う腕を持つ彼の剣を受け止め続ける。
――何度も、何度も。
彼が理解するまで。今のままでは、何も成せないのだと分かってもらうために。
「今のあなたの剣は……私には届かない!」
そして、叫ぶ。
精一杯の声で。例え見苦しくても、剣を通じて想いが届く事を信じて。
その瞬間。
彼の端正な表情が歪む。普段のシオンであれば、カナデの剣など即座にへし折る事が出来てしまう。それが成せない事に戸惑い、もう歩めない事を他の誰よりも理解しているのだろう。そして、自身がどうしたいのかも。裏切り者と罵られようとも、進みたい道が見えているのだと、そうカナデは信じたかった。
その心が通じたのか、一度、彼の振り下ろす剣閃が鈍る。
ただの一般人であれば、その速さの違いは分からないだろう。だが、幾重にも剣を振るい続けたカナデには、はっきりと鈍った事が分かる。
その隙をカナデは見逃さない。この身にある全ての力を込めて、横一直線に薙ぎ払うかのような一閃を放つ。
――これがカナデ個人の全力。
穢れた力に頼らない、決意の一閃だった。
「私の剣を……」
結果は彼の漏らした一言で分かる。
駆け抜けた一閃は鈍った剣を真横から両断し、右へと剣先を吹き飛ばしたのだ。全てを両断するシオン・アルトールの剣を。聖王国ストレインが攻めあぐねている理由たる彼の剣を止めて見せたのだ。
「シオン・アルトール。これでも分からないか?」
カナデは、折れた誇りを虚ろな瞳で見つめる彼に問いを掛ける。
どこか泣きそうにも見える、全身を震わせる彼へと向けて。
「私の剣は……こうも鈍っていたのか」
だが、彼は問いには答えなかった。
そんな彼を見かねたカナデは――
「数日前の私もあなたと同じだった。何をすればいいのか、何を成したいのか……まるで分からなかった。それでもイリスが私に道を示してくれた。だから進める。迷いなく……信じる道を」
彼へと言葉を届ける。
自身よりも年齢が高い彼に言うべき言葉なのかどうかは分からない。それでも言わなければいけないと思ったのだ。イリスに救われた者として。
「そうか。それだけの希望が彼女には……いや、あの方にはあるのか。ならば……私は」
言葉を受け取った彼は、折れた騎士の誇りたる長剣を握り直して、柔らかい瞳をイリスへと向ける。
「私は希望ではありません。ただ皆が望むのであれば……希望となりましょう」
視線を受け止めたイリスはそっと微笑んで言葉を返す。
やはり最後は彼女でなければ動かせない。自身の小さき器に対して、密かに苦笑しながらカナデは鞘へと剣を戻す。
その瞬間――
「あれ?」
急に全身から力が抜けて、気づいた時には、自身の膝は乾いた地面へと付いていた。
「カナデ!」
このままでは地面に向けて倒れるかと思ったが、それは駆け寄ったアリシアが背中から抱きしめる事で止めてくれた。背へと届くのは彼女の温もり、そして温もりを受け取った体は、まるで極寒の地に身を投げ出したかのように、震えているようだった。
「どうやら……今さら恐れているらしいな」
震えの正体を即座に恐怖だと理解したカナデは、渇いた笑い声を上げると共に呟く。
何に対しての恐怖かと言えば、目の前にいる彼だ。何とか受け止められたから良いものを、下手をすれば、ただの一閃で絶命していたかもしれないのだから。
「無理し過ぎだよ。氷装具を使えば……対等に戦えるのに」
震えるカナデを、アリシアは再び強く抱きしめると共に述べる。
そして、敵意の塊みたいな視線をシオンへと向けていた。まるで主人を取られそうになっている小動物を思わせる彼女はどこか愛らしくて、微笑ましい。本人は怒っているのだろうが。
そして――
(抱きしめられると……落ち着くな)
もうすっかり彼女に触れられる事に対して、慣れている自分がいる事にカナデは驚く。しかし、彼女へと礼を言う前に言わねばならない事がある。
それは、彼に対して「祖国ロスティアを守れなかった」と述べた事だ。彼を挑発するにしても、あれは言ってはならない事。謝罪するのが道理だ。
人として、そして一人の騎士として。
「先ほどの事だが――」
「分かっています。全ては私のためですよね」
だが、カナデの言葉は、謝罪を向けるべきシオンによって遮られる。
どうやら全て伝わっていたらしい。
「そうか。良かった」
その事実に安堵したカナデはそっと瞳を閉じて、背に感じる温もりに少しだけ寄り添った。




