第四話 (三)
リシェス共和国から真東に進んだ先にあるのは、グレイツ山脈。
標高千メートル程度の低山であるが、黄土色をした硬質なる岩が敷き詰められるようにして出来た一本道は、道を踏みしめる両足を確実に疲労させる。それでいて時折、雪が舞うというのだから、早さが求められる行軍には適さない事は言うまでもない。
だが、そんな険しき山道を、総勢三千のリシェス共和国の騎士達が進軍している。
理由は実に簡単で、聖王国ルストへと向かうには必ずこの山脈を越えなければならないからだ。仮に南東に進路を向けたとしても必ず山脈へとぶつかり、また北東に向かった際は広大なる湖が進路を塞いでしまう。
ならば、山脈に直進するしかない事は誰でも分かる事だ。
攻め手としては実に単調であり、動けばすぐに察知され手を打たれる。ゆえにリシェス共和国は聖王国ルストへと攻め寄せるには不向きであった。今回も東に向けて兵が動いた事はすでに察知されている事だろう。
しかし、不利な点ばかりでもない。
グレイツ山脈は真東の道も、また南東の迂回路を通っても基本的には一本道。右を見れば遥か下が見えない程の断崖絶壁で、左上に視線を向ければ城壁を思わせる程に高い岩の壁が存在する。進軍に気づいたとしても、伏兵を潜ませる事は事実上不可能だ。
つまり何が言いたいかと言えば、確実に突破出来る兵力と策があれば、易々と進軍出来てしまうという事を意味している。
しかし、言葉で述べる事は容易いが、そんな絶対的な策も、易々と進軍出来るほどの兵力もリシェス共和国にはない。全ての騎士を、そして住民を徴兵しても揃えられる兵力はせいぜい一万程度に満たない。総勢一万五千を保有している、二つの聖王国に真っ向から戦った所で勝ち目などないのだ。
今回の進軍も、リシェス共和国が聖王国ルストを引きつけて、聖王国ストレインの騎士達が側面、または後方から挟撃するという作戦となっている。
実に分かりやすい策ではあるが、兵力の均衡が崩れれば、有利不利が即座に入れ替わってしまう現状では侮る事は出来ない。成功すれば、という話ではあるのだが。
そして、そんな彼らの行動を監視するようにして、彼らが駆ける一本道の遥か上空、岩の壁を登った先に佇んでいるのは、望遠鏡を手にした二人の男だった。灰色の面で表情を隠し、どこか小奇麗な漆黒のローブを身に纏う怪しげな男達。そんな男達の背後には、万が一の事態を考慮して、甲冑に身を包んだ騎士が二十名待機している。
彼らは特に会話をする様子もなく、もはや三時間もこうして、ただ計画が成される事を静かに待っているのだ。
このまま面に隠した表情を、岩のように固めて眺めているのかと思われたが――
「これで……止められない」
この事態を仕組んだ者の一人、カーマインはついに堪える事が出来ずに一つ呟いた。
聖王国ルスト、その中でも最前線とされるカストア砦に潜ませている者からの報告では、姫イリフィリアは砦だけに留まらず王都までその足を伸ばしているという。しかも、ルスト内で影響力の強いシオンまでをも引き連れて。
まさか平和的な和平が成立するとは思ってはいないが、あれだけ人の心を動かす事に長けた姫が王都まで行ったのであれば、何かしらの動きが起きるのは容易に想像できる。だからこそ早急に戦争状態へと突入させる必要があったのだ。
冷静に、第三者視点から見れば、仕組まれた戦争であると分かるだろう。
だが、一度起きてしまえばもう誰にも止められない。頭で間違っていると分かっていても、人の生き死にが正しい事を歪ませる。仲間を斬った敵を、ただ斬る。ただそれだけの理由で戦い続ける事だろう。戦いが終局するまで。
それを成すのが、カーマイン・フォルスター。彼は今現在、最高の気分を味わっている。
「兵……三千を犠牲にして。そして、ラディウスを消すのに二千。総勢五千の兵を貸した。分かっているな?」
そんな彼へと冷や水を浴びせたのが、リシェス共和国の男。
数日前から面越しに会話しているが、どうも兵の数ばかりを述べて、戦局がまるで見えてはいないこの男が、カーマインは嫌いだった。たかが五千で栄光が手に入るのだ。安いものだと思っているのだ。
だが、それを手にするのはカーマインのみなのだが。そういう意味では五千の兵を無駄に使うこの男は哀れであろう。
込み上げる笑みを面で隠したカーマインは――
「分かっていますよ。見ていて下さい。これが――人が人を憎むだけの争いの序曲。この私が奏でて見せましょう」
左手側に佇む男に向けて、声高々に語る。
それを合図にして、鳴り響いたのは騎士達の雄叫び。
人一人しか通る事を許されない一本道を突き進むリシェス共和国の騎士と、それを一本道の終着点、カストア砦と王都ルスティアへと向かう分岐点にて、迎え撃つ聖王国ルストの兵達が上げる雄叫びだった。
どちらが勝利するかなど、いちいち見ずとも分かる。
そもそも一本道を進む部隊が勝てる道理などある訳がない。しかも迎撃側は一本道の終着点、平らな平地で三列に並びボウガンを放っているのだ。
まさに殺されるために突撃している。ただ国のために、命じられたままに。カーマインによって流された偽の情報に踊らされているとも知らずに。彼らは自身を助ける援軍が訪れる事を信じているのだ。
――ただ愚直なまでに。
疑うという言葉を、脳裏から抜け落としてしまったかのように。
「くだらん。何が……騎士だ」
カーマインは先の見えた戦いから視線を外して、振り返る。
ある程度の数が減れば、リシェス側は殿を残し撤退するだろう。
――もはや見る価値もない。
そう断定したカーマインは、現在の活動拠点としか考えていない、城塞都市シェリティアへと向けて一歩を踏み出す。
その瞬間――
「誇りある者達に……救いを」
凍てついた風に乗って届いたのは、幼いようで大人びた神秘的な声だった。
一瞬、隣にいる者が自国の騎士に対して発した言葉だとカーマインは思ったが、声が明らかに違う。
「――私ではないぞ」
カーマインが不審に思ったと悟り、面をつけた男は頭を振った。
ならば一体誰が。
カーマインは確認するように視線を彷徨わせると。
「叶うなら想いが伝わるように」
再び声が届いた。
はっきりとカーマインの背後から。そこは断崖絶壁だというのに。
「まさかこの場に現れたというのか? 戦いの音色に惹かれて」
カーマインは生唾を飲み込んで、背後を振り返る。
瞳は閉じる事は出来なかった。切れ長の目を可能な限り見開いて、眼前に広がる光景を注視する。
カーマインの視界に収まったのは、真っ白な少女。
膝まで伸びる髪も、肌も、身に纏うワンピースまでも白い、ただ純白なる少女だった。
「数多の想いを繋いで――ただ分かり合えますように」
その少女はカーマインの言葉が届いている様子はなく、歌う様な言葉を紡ぐ。
そして、まるで世界の理を無視するかのように、ゆっくりとその小さな体を落下させていく。
彼女が目指すのは、人が人を殺すだけの場所。
救いも、希望もない。ただ絶望だけが場を埋め尽くす、戦場だった。
刹那。
轟いたのは、渇いた音色とガラスが砕けるような音。
そして、一人の少女の澄んだ歌声だった。鳴り響く音色は、その場にあるもの全てが凍てついた音と砕ける音。
そして、それを成すのは少女の歌声だった。
「馬鹿な。私の計画が……」
カーマインは絶壁の下を、絶望の戦場であった場所を、望遠鏡で見つめる。
年季の入った望遠鏡の、ひび割れたガラス越しに拡大された世界は、彼の望む世界では決してなかった。
その場に揺らぐ事なく佇む少女が、成すべき事を成すだけの場と成り果てていたのだ。
――歌う事で、全てを凍らせる少女。
何が目的であるのか、どうすればこの場を去るのかも不明な、『氷結の歌姫』がその場に君臨していた。
その結果は一目で分かる。
両国の騎士は少女から、そして凍る地面から離れるように後方へと退くのみだった。これでは両国の騎士はお互いを恨む事はない。怒りも恐怖も全て、この少女に氷雪種に向けられてしまう。
それは終わらない戦争の連鎖を引き起こすには不十分。カーマインは、ただの茶番を演じたようなものだ。それだけで済めばいいが、疑いの目が二人へと注がれれば、今後は動きが取りにくくなる事は容易に想像出来た。
「ここは一度退くか? あの歌は私達にも影響があるぞ」
絶望へと沈んだカーマインに向けて、リシェス共和国の男は自身の保身のために言葉を掛ける。まだ少女と距離があるために無事であるが、いつ自身の身に効果が出るのか分からないのだ。男が不安がるのも理解出来る。
しかし、カーマインはまだ退かない。
それだけでなく――
「まだだ。本当の策士は……一手、二手、先を考えているものだ」
面に隠れた表情を不敵に歪めて、ゆっくりと立ち上がる。
「まさか……!」
そんなカーマインを見て、男は何をするのか理解したのだろう。驚きに混じった声を上げる。しかし、その程度で止まるカーマインではない。
「やれ」
カーマインは感情のない、まるで虫けらでも殺すかのような、冷淡なる声で呟く。
命令を受けた騎士は即座に動いて、予め用意しておいた高さ三メートルはあろう、攻城兵器として使用出来そうな、巨大な岩を押していく。
狙いは当然、真下。
眼前に迫る恐怖に視線を釘付けにされている騎士達だ。いちいち語るまでもないが、気づいたとしても反応出来る訳はない。
「少々、予定が変わったが……まあ、後でどうとでも言えばいい。リシェス側の騎士には上手く伝えて下さいよ」
そうカーマインが言葉を発して、今度こそ振り返る。
それと同時に、巨大なる大岩が崖から容赦なく落とされる。これで少女が凍らした数よりも、こちらの方が増えた事だろう。
あの人外を超えた少女が与えた印象を上回れるかどうかは謎だが、その辺りはカーマイン同様に戦争をしたい者が上手く立ち回る事だろう。
今回の茶番は、点数をつけるならば三十点にも満たない事だ。だが、権力を持った者が後から手を加えれば十分な成果となるだろう。
それに結局はどんな形であれ、戦いが起きればいいのだ。その過程にカーマインは興味がない。例え外道と罵られようとも、ただ己の出世のために進むだけなのだ。
そんなカーマインの鼓膜を震わせたのは、巨大なる岩が地を破壊する轟音だった。




