第三話 (八)
王都ルスティアの王城、地下一階。
目を凝らさねば二歩先すら視認する事も叶わない、頼りない明かりに照らされた固く、それでいて湿っぽい通路に、すでに何十年も手を入れていないと思われる、左右に立ち並ぶ鉄格子は、ここが王城である事を忘れてしまいそうな空間。
そんな善良なる市民であれば、決して足を踏み入れる事はない領域で。
「シュバルツ様……お迎えに上がりました」
腰をきっちり三十度に曲げて礼をしたのは、アルフレッドだった。
礼を受けるのは、地下一階、またの名を収容所と呼ぶ場所の最奥にて、両腕を拘束されたシュバルツである。こうして両者が言葉を交わすのは何日ぶりだろうか。
彼は答えてくれるのか。淡い期待を持って下げた頭を上げたアルフレッドは、冷えた床に片膝を立てて座っている彼を見つめる。
すると。
両目にかかった髪の隙間から覗く、紅い瞳が一度ぎらついた。
まるで獲物を求めるかのような殺気に満ちた瞳。腰まで伸びた手入れのされていない茶色の髪と相まって、どこか野蛮な印象を受ける青年だった。
(なぜ……人はここまで変われる)
アルフレッドは密かに両拳を握って、心中で述べた。
アルフレッドは彼が汚染者になる前から知っている。その時の彼は心が洗われるような笑顔を浮かべて、アルフレッドの後をよくついて来たものだった。
剣術を、そして人として学びたい事が多々あったのだろう。そんなシュバルツをアルフレッドは、畏れ多くも自身の子供を育てるように接してきた。将来は国を背負う立派な王となる事を切に祈って。
だが、彼はただの偵察についてきたばかりに、変わってしまった。
その場で出会ってはならないものに出会ってしまった事で。それは氷雪種と呼ばれる獣と、そして歌を奏でる真っ白な少女だった。
触れたものを氷の結晶へと変えてしまう忌むべき力は、周囲にいる騎士を、そして例外なくシュバルツを襲ったのだ。その結果は、ここに彼がいる事で全て説明できるだろう。
彼の身に宿った世界の天敵と同種の力は、王の息子であっても畏怖され、彼を遠ざけるには十分だった。だが、それだけであったのならば、救いようはあったのかもしれない。考えようによっては、王が人外の力を得ている事は、護衛の立場からすれば守りやすいからだ。
しかし、問題は彼が力を行使する際に支払われる代償だった。
――命、記憶、感覚。
数多ある代償の中で、この冷たき世界が彼のために選んだ代償は、渇き。
力を使えば使う程にシュバルツの心は渇いてしまうのだ。どれだけ潤っていても、力を使ってしまえば、干上がった大地で水を求めるかのように、ただただ自身を潤す事しか考えられなくなる。
そこに、シュバルツ・ストレインという個は存在しない。
内なる渇きを癒すために、敵であろうと、味方であろうと、ただ自身の渇きを癒すために戦い、殺し尽くす。思考なき飢えた獣がいるだけだった。
そんな彼が受け入れられる筈はなく、老王オーギュストの命で、この場に収容されているのだ。収容という言葉を使ったが、当然、彼が本気を出せば、こんな鉄格子など氷の結晶へと変えて砕く事などは容易だ。
それを成さないのは、彼が世界に絶望したのか、それとも再び力を使う事に躊躇いがあるのか。それはアルフレッドには分からない。
だが、何か代償を払うとしても、ここまで残酷な代償は他にないのではないかと思う。他の代償が軽いとは言わないが、自我を失う代償など、あまりにも酷に見えてしまうのだ。
(やはり。無駄だったか)
もう言葉は返ってこないかと、諦めて振り向こうとすると。
「ま……て」
言葉を受けた彼は、掠れた声を絞り出した。
幻聴ではないのかと思ってしまう程に微かな声。だが、自身が仕えるべく者はついに声を掛けてくれたのだ。長い、長い沈黙を破って。
「……何でしょうか?」
アルフレッドは、込み上げる感情を内に押し込めて問う。
彼の意思を確認するために。そして、叶うなら自らの意思で立ち上がる事を切に願って。
「俺は――生きる」
それが閉ざされた心と共に、固く引き結ばれていたシュバルツの口から漏れた最初の言葉だった。彼が言葉を発したのは、アルフレッドの様子から何かを敏感に捉えたのかもしれないが、その真相は彼にしか分からない。
それでも彼が進むと言うのだ。それをアルフレッドが止める理由はない。
だからこそ、心中で迷いを消し去ったアルフレッドは――
「仰せのままに」
短い一言を発すると共に、腰に吊っている鞘から金色に塗られた騎士剣を解き放つ。
――剣閃が駆けたのは数瞬。
一度瞬きをした時には、アルフレッドと次代の王を隔てる物は何もなかった。
「相変わらず……いい腕をしているな」
一閃によって、破壊されし鉄格子を見つめたシュバルツは一度苦笑する。浮かべた笑顔は、アルフレッドの後を付いて来ていたあの時と変わらない様に見えた。
だが、それは一瞬の事でしかない。再び口元を引き締めた彼は、ゆっくりと両腕を固定する鉄枷を胸辺りまで掲げる。その意味する所は、枷を外せという事だろう。
「聖王国ルストのために我が剣はあります。ゆえに自身を磨かぬ時などありません。いえ、それが人としての本来あるべき姿でしょう」
次代の王に応じたアルフレッドは剣を振り上げると共に、自身の生きる道を語る。
次代の王に自身の事を分かって欲しいからだ。騎士としての生き方しか知らない愚直な男の生き様を知ってほしいのである。
「知ってるよ。行くぞ、アルフレッド。もう俺はこの力に縛られるのはごめんだ」
アルフレッドという男を自身の父よりも深く知っているシュバルツは、想いに応えるかのようにその身を立ち上がらせる。まるで全身に降り注ぐ呪いに抗うかのように。
ようやく立ち上がった彼を、温かさを感じさせる、茶色の瞳に収めたアルフレッドは言葉を返す事はできない。ただ黙して、彼に道を開ける他に何も出来なかった事が、アルフレッドのただ一つの後悔だった。




