第三話 (六)
頬を撫でたのは、凍てついた風だった。すでに正午を過ぎているというのに、寒さは一向に衰えるという事を知らない。
そんな寒空の中で――
「まったく……あいつに似たのだろうな」
独語するように毒づいたのは、王ラディウスである。
白い吐息と共に吐き出された言葉は、普段であれば決して臣下に漏らす事は出来ない本音だった。当然、独語した所で胸の内が晴れる事はない。
だが、玉座に座っている時は常に鋭利なる思考を働かさねばならないため、一人でいる時くらいは、脳裏に浮かんだ言葉を思ったままに吐き出したいのだ。
そう考えるラディウスが現在立ち尽くしているのは、自室の窓を越えた先にあるベランダ。王族のみが使用を許されている王城の西側に位置する区画であるので、どれだけ言葉を吐き出しても支障はないのである。さすがに叫べば誰かが来るかもしれないのだが。
しかし、だからといって昼間から悪態ばかりついている王というのは、いささか滑稽に映るのかもしれない。そうだとしても、ラディウスは思わずにはいられなかったのだ。一人の王として、父親として。
――そんな王の脳裏に浮かぶのは、二人の女性。
愛娘であるイリフィリアと、今は亡き王妃シルヴィアだった。
「常に自由で――いつも私を困らせる」
過去を思い出したラディウスは懐かしそうに、娘と同じ深緑の瞳を細めて、空を見上げる。空へと、まるで天に昇った愛しき人を見つめるように。
ラディウスの想い人たる王妃シルヴィア。
彼女は元を辿れば、聖王国ストレインの貴族だった。
だが、屋敷に留まるという事を知らずに、常に外へと飛び出し、城下の騎士と共に剣を握り続けたのだ。敵国に囲まれたこの国で、優雅に座っている事などあってはならないと言い切って。いや、むしろ貴族たる者が市民の先頭に立ち、剣を振るうべきだと断言した。
そんな彼女の言葉は、聖王国ストレインの常識を破壊するには十分だった。
彼女に倣った貴族が騎士剣を手に取り、市民を守る刃となる事を選んだからだ。ただ財を多く持っているだけでなく、自身で技を磨き、有事の際は最前線に立つ事を選ぶ貴族達。
その先頭を突き進んだのが、シルヴィアだった。
――己の命を掛けて戦場を駆け抜ける、高貴なる女性。
その目的が国と市民を守るためだと言うのだから、市民の中で英雄として浸透するのは時間の問題だった。だからこそ騎士は、身分を保証された特別な者として存在する事が許されているのだ。
特別な者。言葉で述べる事は容易い。
だが、それを維持し、定着させる事は並大抵の努力では成し得ない。それを分かっているからこそ、騎士は技を磨き、誇り高き者としてあり続けなければならないのだ。
騎士が特別な者ではなく、誇り高く、それでいて高貴なる者達を騎士と呼ぶのだから。
その象徴とされたのがシルヴィアであり、そんな彼女の隣でラディウスは王として、一人の男性として戦場を駆け抜けた。シルヴィアの輝くような銀髪を追いかけるように、そして時には迷って揺れる蒼い瞳をしっかりと見つめて。
お互いを認めて、そして支え合って。
彼女がいたからこそ、今のラディウスがいる事は今さら言うまでもない。一人では五倍強を誇るグシオン連合国を追い返す事は出来なかったのだから。
その代償がシルヴィアの命。
表向きはラディウスとアイザックの奮戦となっているが、事実は違う。揺れない意志を心に刻んだ彼女が、勝利への道を作ってくれたのだ。その命と引き換えにして。
古くからの将軍であるアイザックが、皆の前でアリシアを隊長または副官にすると平然と言えるのは彼女の活躍があったからに他ならない。当然、女性であるイリフィリアが次の王になる事に反対する者などはいないのもまた同じ理由からだ。何の根拠があるのかは知らないが、王となる者は男性に限定している国も多々ある中で。
ある意味では国の在り方まで変えてしまった女性。本来であればシルヴィアのような女性が王となるべき人なのかもしれない。
そう卑下するラディウスではあるが、国民の中には強国を追い返した英雄王として称える者はいる。だが、所詮は愛する妻を死なせてしまった小さき男でしかないのだ。
しかし、それも終わりにしなければならない。もう二度と大切な人を失わないためにも、今度こそは自身の手で国の平和を勝ち取るためにも、勝たねばならないのだ。
彼女の面影を強く感じるイリフィリアに頼る事なく、自身の力で。
「お前に会うのは……その時でいいな」
ラディウスは変わらず空へと言葉を届ける。
こんな弱気な事を言ったのならば、彼女は怒るかもしれないのだが。だとしても死して天に昇る事があるのならば、最初に彼女に会いたいと思う。聖王国ストレインを、自身よりも優れた王となるだろう、イリフィリアに託した後に。
それまでは死ねない。どれだけ見っともない姿を晒そうとも生きて、この国を支えなければならないのだ。この手に勝利を掴み取るために。ただそのために。
浮かんだ揺らがぬ意志を胸に感じたラディウスは、一度胸に拳を当てて瞳を閉じる。だが、次の瞬間には振り向いて、一人の王として一歩を踏み出した。




