第三話 (三)
マベスタの森を南に抜けて、さらにはストラト平原を南下した先には、聖王国という名を掲げる両国の国境線が存在する。しかし、国境線と言っても何か線が引いてある訳では決してない。
ただ短い草が生い茂り、地平線すら見えそうな平原が存在するだけだ。そんな気を付けていなければ、方向さえ見失ってしまいそうな程の広大なる平原で。
「こんな国境線の近くに砦があって……いいのか?」
地図を片手に問うたのはカナデだ。
元々は、聖王国ストレインの北に位置する、ロスティアの騎士であったカナデは確認せねばならない事が多々ある。とりあえず今回問うたのは、両国の国境線が引かれた地から一時間ほど歩いた場所に、砦が存在している理由だ。
常識的に考えると、あまりにも近すぎるような気がするのである。こんな場所に建設しようものなら即座に邪魔が入り、最悪はそれを契機に戦争状態に突入してもおかしくない。
「確かに国境線から近いよね。でも、線を引いたのは砦が出来た後なんだよ」
頭を抱えて悩み出しそうなカナデを助けてくれたのは、人差し指を立ててにこやかに笑うアリシアだった。今までの説明係はゼイガンだったので、何だか少し違和感を覚えてしまう。さすがにストレインにいる者の言葉なら間違っている事はないのだろうけど。
「見れば分かりますが……ここはただの平原。手に入れたとしもさほど有用ではありません。敵がいなければこの場を有効に使えるでしょうが……現状では不可能です。なので事実上……国境線として機能しているのは城塞都市シェリティアと、ここカストア砦でしょう。どちらかが陥落すれば……それはすなわち自国の領土が広がった事を意味します。後で線を引いたのはこれ以上進むというのであれば……攻撃するという明確な意思を示すためかと」
そんなカナデを見かねたのか、ゼイガンが補足説明を加える。
元々曖昧だった国境線は、ここカストア砦が建設された事をきっかけに出来たらしい。だからこそ地図だけを見れば、到底理解出来ない場所に砦が立っているという訳だ。
「話はそこまでよ」
ちょうどカナデが納得した瞬間に、先頭を進むイリスが緊張した声を発した。
おそらくカナデ達の話が終わるまで待っていたのだろう。彼女がどこか張り詰めた声を上げた理由は、眼前を見ればすぐに分かる。
高さ十五メートルはあろう石造りの城壁によって、円形に囲まれた堅牢なる砦。
そして、その前方に展開しているのは、ざっと数えただけで百人を超える甲冑で身を包んだ騎士達であった。カナデ達を捕らえるにしても、この場で消すにしても十分すぎる数だろう。
しかし、前方にて横陣、つまりは横一列に並んだ騎士は、剣を胸の前で地面と垂直になるようにして構えるのみ。まるで甲冑の置物が立っているのかと疑ってしまうほどに、彼らは動きを見せなかった。
そんな中でただ一人。
皆を代表するように進んでくるのは黒髪の男だった。周囲の騎士が甲冑を身に纏う中で、なぜか一人だけ真紅のロングコートを纏い、下のズボンもおそらく同一素材で統一された、ただただ紅い姿の彼は、どこか異物のような感覚がする。
そう。
例えば頑なに漆黒のローブを纏うカナデのような、特異なる存在だと言外に述べているかのようだった。
そして、そんな彼がようやく視認できる程の距離に近づいた瞬間――
「シオン・アルトールだと?」
カナデは一歩を踏み出すと同時に、彼の名を呟いていた。
胸に込み上がってきたのは、祖国を懐かしむ心、そして言葉では言い表せないような喪失感だった。
(彼でさえ……また新たな道を進んでいるのか)
心中に浮かぶ、数多の暗い沈んだ感情を、跳ね除けるために心中で呟くカナデ。心の中で発した言葉は上手く気持ちを前へと突き動かして、冷静に今は敵となった彼を見つめる事が出来た。
「一年前と比べて腕が鈍っていないのであれば……彼は一人で百人は殺しますのでご注意を」
カナデと同じロスティアの出身であるゼイガンが、姫に向けて一つ忠告をする。さすがに経験豊富な彼は、感情には流される事なく、即座にシオンを敵として認識しているらしい。それを受けて、どうイリスが応えるかと窺っていると。
イリスは――
「彼は――敵の主要人物。当然、知っているわ」
さも当然と言った表情で言い切った。
まだ国を預かるには幼いが、王となる心構えは十分にある姫君。そんな彼女に対して、いちいち説明などせずとも、最初から知り得る事は知っているという事か。それは当然と言えば当然なのだけど。
「性格は温厚で理想主義。どちらかと言えば……戦を嫌う」
ならば彼女が知り得ない事のみを助言するべきだと思ったカナデは、イリスにのみ聞こえるように囁く。
言葉を受け取ったイリスは、助言に対して一度頷くのみ。芯は曲げないけれど、自身に不足している情報、または指摘は素直に受け取るイリス。そんな彼女を信頼したカナデは、両者の内で展開される会談の邪魔とならないように口を固く結ぶ。
――彼を待つ事、数秒。
ようやくイリスの眼前から、三歩ほど距離を開けた位置で止まったシオンは一度恭しく礼をして。
「シオン・アルトールと申します」
自らの名を柔和な、人の良さそうな笑みを浮かべて名乗った。どうやら彼は一年前と何も変わってはいないようだ。カナデの知る彼は、常に柔らかい笑みを浮かべて、声など荒げた所など見た事がないのだから。
そんなどこか温かみすら感じそうなシオンに対して――
「イリフィリア・ストレインと申します」
イリスは、彼に倣うかのように恭しく礼をした。
もうさすがに慣れたカナデは突っ込む事はしない。だが、アリシアは苦笑いを浮かべ、ゼイガンは引きつった笑みを浮かべているが、この際は気にしなくてもいいだろう。
「王族の使者が一介の騎士に頭を垂れるとは。まるでそちらが降伏しにきたようですね」
姫の礼を受けたシオンは、柔和な笑顔を崩さずに言った。
言う者が言えば嫌味に聞こえる言葉ではあったが、彼の交渉をするにしては柔らか過ぎる対応を見る限りでは、不快な気持ちを抱く事はない。真紅の衣類に身を包む、畏怖の象徴たる彼は、交渉に向いていないのか、逆に向いているのか。判断に困る人物である事は言うまでもないだろう。
「降伏の意思はありません。ただ望むべくは――」
「話は砦の中で」
下げた頭を上げて、さっそく要件を切り出そうとするイリスを、左手を掲げて遮ったのはシオン。
どうやら腰を落ち着かせて話をしたいらしい。王族が使者として派遣されたといってもこの場で斬られてもおかしくはない状況。しかし、シオンは自身の懐と言っても過言ではない砦に招くというのである。だが、何かの策かと疑う気持ちはカナデにはない。
彼の腕であれば、四人程度であれば片手間で殺せてしまうのだから。カナデが氷装具を形成すれば何とか逃げる時間くらいは稼げるだろうが、それも時間の問題か。
そんなある意味では物騒な事を考えていたカナデ。
「分かりました」
しかし、皆の代表者たるイリスは、そんな考えを真っ向から否定するかのように、一つ頷くと共に一歩を踏み出す。
(……同意は求めないか)
振り向いて皆に意見を求めるかと思ったが、彼女は自らの考えを貫くための一歩を踏み出した。皆の意思を確認しない彼女に対しては、少なからず不満はある。だが、同時にここでイリスに対して口論をする場でない事は重々承知している。
だからこそカナデは――
「信じていいんだな?」
イリスの背中へと短い問いを掛ける。
彼女の、心に光を燈してくれた人の言葉だけ聞ければ、どんな危険にでも飛び込めると思うから。
イリスの言葉を待ったのは、ほんの数瞬。しかし、カナデには数分ほど待ったような気がする。それはおそらくアリシアとゼイガンも同じなのだろう。どこか緊張した面持ちで、カナデとイリスを見守っていた。
すると。
「私を信じて。ずっと私を」
イリスは振り返る事なく、必要な言葉のみを伝えてくれた。
「分かった」
もう何も言う必要も、聞く必要もない。そう判断したカナデは、イリスの背中を追うようにして続く。自身で道を切り開こうとするイリスを支持するために。
「騎士の誇りに誓って――卑劣な手段は用いないと約束します」
迷いなく進むカナデに向けられたのは、シオンの穏やかな声。そして、同時に向けられた漆黒の瞳はどこか懐かしそうだった。ゼイガンならいざ知らず、ただの一介の騎士でしかなかったカナデを、どうやら彼は覚えていたらしい。
同じ祖国を想う二人。そして、礼節を重んじるロスティアの騎士において、決して曲げてはならないのが『騎士の誇り』である。主に忠誠を誓い、ただ一度の人生を気高く、誇り高く生きるのがロスティアの騎士。
そんな彼らが一度『騎士の誇り』という言葉を発した際は、決して約束を違える事はないという意思を、相手に伝える意味を持っている。この場合で言えば、ただの口約束ではないとシオンは述べているのだ。
「その言葉を信じよう――騎士の誇りに誓って」
信じるに値する言葉だと判断したカナデは、今は無き国の誇りを胸に抱いて言葉を紡ぐ。第三者から見ればまるで理解出来ないだろう、二人のやり取り。
だが、両者の間には、すでに見えざる信頼関係が結ばれたようなものだ。この砦内でのみ機能する約束事であるという事が悲しいとは思ってしまうのだが。それでも今はこれで十分なのだと思う。
彼とは敵として出会う可能性の方が高いのだから。そう気持ちを切り替えたカナデは、先頭を進む、自身が信じるべき人の背中をずっと追い続けた。




