第一話 (一)
第一話 光を求めし少女
「これでいいですかねぇ」
自室に置かれた鏡台の前に立ち、身なりを確認しているのはイリフィリア・ストレイン。親しい者はイリスと呼ぶ、聖王国ストレインの姫である。
一国の姫君たるイリスが確認しているのは身に纏うのは法衣のような衣類。普段は白を基調としたドレスに身を包んでいるが、外へと出る時は常に動きやすい服装を選ぶようにしているのだ。本来ならばもっと動きやすい恰好、例を挙げるならば騎士が纏う軽装などを着たいと思うのだけど、それは臣下の者に断固阻止されている。
「大変お似合いです、姫様!」
ほどなく身長よりも高い鏡台を眺めていると、背後からどこか嬉しそうな、それでいて弾んだ声が返ってくる。どうやら心からの賛同らしい。
「アリシアもそう思う? 嬉しいわ」
イリスは賛同を得られた事に心が弾み、表情をほころばせると共に、背後を振り返る。
背後には立っているのは、十六歳であるイリスより一歳下のアリシア。
しかし、一歳下と言っても浮かべる表情はどこか幼く、身に纏う胸、腰、肘、膝と主要部位のみを防護する軽装姿はどこか不似合に見えてしまう少女である。
そんな幼き騎士は――
「淡い緑色の法衣。姫様の深緑を思わせる瞳を引き立てるようです」
まるで抑揚のない言葉を発した。紡がれる言葉はまるで棒読みで、無理をしている事はすぐに分かってしまう。何よりアリシアの頬が引きつっている事が何よりの証拠だ。
それでもなお何とか騎士らしい言葉を続けようと、背伸びしようとするアリシアはどこか愛らしくて、可笑しかった。
「ふふっ。吹き込んだのはゼイガンね?」
イリスは六十を超える臣下のしたり顔を思い出しながら幼き騎士へと確認する。
「はい。姫の護衛を務める以上は……常にその御心を健やかにたもっ――!」
問われたアリシアは、吹き込まれた言葉を言い切る前に途中で言葉を切った。その原因は深い海を思わせる蒼き瞳が潤んでいる事ですぐに分かってしまう。
(噛んだわね……)
イリスは心の中だけで呟く。言葉に出さなかったのは彼女の騎士としての誇りを守るためだ。それに姫であるイリスが健やかな時を過ごすために、尽力してくれている彼女は立派な騎士だともイリスは思っている。
そんな事を思っているとは知りもしないアリシアは、与えられた命令を忠実にこなそうと結い上げた銀色の髪を揺らしながら唸っている。もはや困り果てているように見えるのは気のせいではないだろう。
そんな彼女を見かねたイリスは――
「ゼイガンの言った事は気にしなくていいわ。アリシアはアリシアらしく……私の側にいて。お願い」
戸惑うアリシアを優しく抱きしめる。いつものように。言葉だけでは想いを伝える事が出来ない事を知っているから。時には体を通して伝える事も大切なのだ。
触れ合う温もりは言葉以上に想いを伝えてくれるから。
「……姫様」
「イリスと呼んで」
汚れを知らぬ雪のように白い頬を朱色に染めた彼女へとイリスは優しく語り掛ける。
アリシアを落ち着かせるための抱擁。しかし、実際はイリス自身のためでもある。イリスにとっては同年代である彼女と過ごす時間だけが唯一の安らぎだからだ。それを奪われてしまっては叶わない。中には姫のお気に入りとして優遇されている、そうアリシアを非難する者がいる事は知っている。
だが、イリスにとってアリシアは欠かせない存在だ。二人きりの時くらいは友のような、姉妹のような関係を作っていきたい。そう思っている。
「そうだね……イリス」
想いが伝わったのかアリシアは、いつもの弾んだ声でイリスの名を呼んでくれた。
それはほんの些細な事。それでも姫としか呼ばれないイリスにとっては心が弾むくらいに嬉しい事だった。
「アリシア。今日も出掛けますよ!」
イリスは弾んだ心を抑える事は出来ず、抱きしめた体を離して力強く宣言する。向かうは城の外。目的はとある少女に会う事である。そのために着替えたのだから。
「彼女の説得はこれで五回目だったね。堅物のゼイガンでも三回で説得できたのに」
すっかり元通りの口調に戻ったアリシアは、幼さが残る表情を歪める。
イリス達が暮らす聖王国ストレインに所属してほしい、そう説得すること四回。もう無理だと思うのも仕方がない事だろう。しかし、イリスは諦めるつもりはない。
その理由は二つ。
一つは今から説得に向かう彼女が氷雪種に抗う力を持っているからだ。
氷雪種。
氷の鱗を持ち、まるで粉雪のように真っ白な霧へと、その姿を霧散させる人類の天敵である。神出鬼没で、矢を弾く固い鱗を持っているだけでも警戒するべき存在だが、一番厄介なのは触れたものを氷の結晶へと変えてしまう能力だ。
しかし、例外というものは常にある。それが今から会いにいく少女だ。
彼女はどういう訳か氷雪種に触れても氷の結晶とはならない。それだけでなく人外を超えた力をその身へと宿していると聞いている。
そんな彼女達についた名は汚染者。氷雪種によって、その身を汚染され、同等の力を得てしまったが故についた名である。
誰が口にしたかどうか定かではない言葉は瞬く間に世界に広がり、彼女のような特異なる者は忌み嫌われ、差別を受けているのが現状となっているのだ。それ故に現状を何とか変えたい、そう思ったイリスは行動しているのである。
そして、この思いはもう一つの理由へと繋がっている。
もう一つの理由。それは彼女の瞳である。希望を、光を失った虚ろな瞳がイリスの心を掴んで離さないのだ。彼女の世界に絶望した暗き瞳に何とかして光を燈して上げたい。そうイリスは強く思っているのである。
(――絶対に)
彼女へと会う理由を、再び心に刻み込んだイリスは一度頷く。何を思っているのかを理解しているアリシアも一度頷き返してくれた。
後は出掛けるのみ。そう思った瞬間。
「姫様! 姫様!」
突如、低い声とドアを叩き割るかのような轟音が右側から響く。
どうやら時間をかけすぎてしまったらしい。この声は騎士の指揮を任されている将軍アイザックのものだ。一度部屋の外に出ようものなら、用兵の基礎から応用までをも一日かけてじっくり教育してくれる事だろう。普段であれば大変ありがたいが、本日は別の用事があるためご遠慮願いたいイリスである。
「イリス。奥の手」
どうしようか迷っていると、アリシアがイリスから見て左側に見える窓を指差す。
イリスの部屋は、中央に人が二人、三人は余裕で眠れるベッドが置かれ、右側の壁には寄り添うように机が置かれている。他には背にある鏡台、そして左奥の壁に本棚があるくらいだ。
唯一隠れる事が可能な場としてはベッドの下くらいだろうが、そんな子供騙しの手段は歴戦の将軍には通用しない事はすでに分かりきっている。
「仕方ないわね」
決断した少女二人の行動は早かった。すかさず窓を開け放ち、手すりのついたベランダに身を滑り込ませる。気づかれないように窓を閉める事は当然だ。
「これからどうするの?」
イリスは囁くように呟き、アリシアを見つめる。
窓から出たのはいいが、ここは城の三階に位置する場所だ。幸いにも城の西側、王族のみが使用を許された区画の端に位置する場ではあるが、飛び降りるなど無理な相談である。そんな事を考えていると。
「ロープがあるよ。先に行くから」
アリシアは迷う姿勢を見せずに、自身の身長と同じ高さの手すりへと手をかけてすかさずよじ登る。すると予め用意をしておいたローブを掴み、壁に両足をかけて遥か下に見える庭へと向けて降りていく。
(さすが……現役の騎士さんね)
イリスは、友の逞しい姿を瞳に焼き付けてから自身もベランダの手すりに手をかける。仮に失敗したとしてもアリシアが受け止めてくれる。何も心配する事はない。
心に何度も言い聞かせたイリスは、全てを友に託して壁伝いに降りていく。
(下を見たらいけないわ)
心の中で、何度も、何度も繰り返す。おそらく下を見てしまえば、手足は固まったように動かなくなってしまうから。
幸い手足は自身でも驚くほどに滑らかに動き、滑り落ちるという最悪の事態だけは防ぐ事が出来そうだった。
安心してほっと一息をつこうとしたイリスに――
「姫様。どちらにお出掛けですかな?」
掛けられたのはどこか落ち着いた声。まるで迷子の子供に語り掛けるような優しい声だった。だが、その奥底には涼やかな怒りが込められている事は分かっている。イリス自身が説得し、この国へと招いた人物である彼の事は、他の臣下よりも深く知っているのだから。
「ゼイガン」
イリスは深く理解している臣下の名を呼び、自身が降り立つべき庭へと視線を向ける。
氷雪種の被害を免れた城下の庭は短い草が生い茂り、頬を撫でるような緩やかな風に吹かれて花のつぼみが揺れていた。何とも平和で、ほっこりする庭だ。
そんな庭に静かに佇むのは老齢な男性。年齢に似合った長い白髪を頭の後ろで結び、整った口髭と顎鬚が特徴的なほっそりとした体躯の人物。身に纏う礼服と相まって老紳士という言葉が似合うような男である。
「まずは話を聞きましょう」
ぴたりと動きを止めたイリスに、ゼイガンは頬を緩めて庭を指差す。
上はアイザック、下はゼイガン。もはやイリスに逃げ道はなかった。
「……分かったわ」
観念したイリスはしぶしぶと庭へ、ゼイガンの元へと降りていく。老齢な臣下はイリスが降り立つのを待ち、それからゆっくりと口を開く。
「また彼女……カナデ殿の所へ行かれるのですか?」
ゼイガンは緩めた頬を引き締めて二人へと問う。
やはり彼は全てをお見通しだったらしい。おそらくどんな目的と理由で向かうのかも予想出来ている事だろう。ならば言い逃れをする必要も、言葉を濁す必要もイリスは感じなかった。
「ええ。彼女はこの国に必要だわ。そして、叶うなら彼女を救いたい」
イリスは右手を胸の前で握り締めて、迷いのない言葉を発する。
胸に触れた右手からは自身の溢れる想いが伝わってくる。国のより良い未来を、そして光を失った彼女の力になりたいという想いが。ただそれだけの想いが。この溢れる想いが伝われば、彼は道を開けてくれる。イリスはそう信じていた。
仮に伝わらないというのであれば、イリスの人を見る目がなかったという事だろう。それは王としての才覚がないと断言されても仕方のない事だ。ただの姫であるイリスに対しては気が早い話ではある。しかし、臣下は常にそういう目で次の王を見ているのだ。
ゼイガンはイリスの試す様な力ある瞳に気づいたのか――
「仕方がありませんね。このような老いぼれですが……姫の道中にある危険を全力で排除させていただきます」
引き締めた表情を緩めて恭しく礼をする。その姿はまさに忠誠を誓う騎士の姿であった。彼は王ではなく、自身を説得したイリスに仕えている。そう述べているかのようだった。
「ありがとう……ゼイガン。助かるわ」
彼の忠誠心に少しでも応えるために、イリスは頭を下げた。本来は王族が臣下に頭を軽々しく下げるべきではない事は知っている。しかし、イリスは内に浮かんだ気持ちを隠したいとは思わない。
感謝する時は素直に感謝したいのだ。未熟者、または臣下に甘い王族などと言われるかもしれない。しかし、この姿勢だけは崩したくはないのである。
――臣下と共に歩む。
それが聖王国ストレインの姫たるイリフィリア・ストレインなのだから。
「私は姫のそういう所に惹かれて……この国の騎士になりました。どうか……そのままで。そのままのお姿で成長なさって下さい」
下げた頭に向けられたのは、どこか感慨深そうな言葉。まるでお別れの挨拶のようだ。それだけゼイガンがイリスの将来を心配してくれているという事なのだろうか。
(ゼイガンがいれば……安心ね)
正直な事を言えば、女性二人での道中は少々不安もあったのである。しかし、彼が同行してくれるのであればありがたい。危険を払うのも、そして彼女を説得するにしても。
「行くわよ。彼女に光を燈しに」
イリスは浮かぶ不安を、あえて明るい言葉で消し飛ばす。
忠誠を尽くしてくれる二人の前で落ち込んだ顔も、弱音も吐くわけにはいかないのだから。常に明るく、そして前向きに。
それもまたイリスの本来の姿だ。
「心得ました」
「うん!」
イリスが何を想っているのかを知り尽くしている二人は、一度頷いて後に続いてくれた。そんな二人に感謝しつつ、イリスは一歩を踏み出した。