第二話 (九)
(離れて……何分経った?)
革の手袋を外した左手をナイフへと伸ばしたカナデは心中で呟く。
五分か、十分か。
正確な時間は分からないが一向に敵の姿は見えない。
ならば一度合流するべきか。それとももう少し周囲を窺うべきか。
迷ったのは数瞬だった。
即座に自身がどうするべきかを教える答えが示されたからだ。それは闇に慣れた瞳には眩しいランプの輝き。すでにゼイガン達はランプを消しているため残る可能性は一つのみだ。輝きが見えるのはカナデから見て右側。もしランプを持った何者かが気づいていないのであれば側面から奇襲できるだろう。
(敵かどうかは分からないが――)
敵であれば好機を逃すつもりはないカナデは身を低くする。
しかし、まだ飛び出すのは早い。適したタイミングを、そう例えばカナデ達のようにランプを消した瞬間を狙うべきだろう。
その瞬間はカナデが思っているよりも早く訪れる。時間にして数秒だった。
「先手をとらせてもらう」
短く呟いたカナデは迷わず地面を蹴りつける。
敵が闇に順応するよりも速く、接近に気づくよりも速く、ただ勝負を決めるために。
相手までの距離は目測で十歩。
彼らはカナデの姿は見えずとも、葉のがさつく音で接近に気づいたらしく、腰に吊るしている鞘から騎士剣を抜き放つ。だが、その動きは明らかに精細に欠けている。おそらく何が接近しているのか分からないのだろう。
(――山賊?)
彼らの身なりを視界に収めたカナデが、咄嗟に思いついたのはそんな言葉だった。
動物の毛で作られた革の軽装、清潔とは言い難い所々が汚れた衣類、屈強な体つき。まるで絵に描いたような山賊だった。それにも関わらずカナデが疑問に感じたのは、彼らが腰に吊るしている鞘が服装と相反してあまりにも綺麗で、そして引き抜いたのが両刃の騎士剣だったからである。山賊が騎士剣を使う事も稀にはある。だが、皆が皆騎士剣を扱うという話は聞いた事も見た事もない。大方ナイフか曲刀だ。
そして、騎士であるカナデから見て、彼らの構えは基本に忠実だった。かなりの訓練を受けている事は一目で分かってしまう程である。
(山賊に偽装した――刺客が二十名)
真実は分からないが素早く結論付けたカナデは、力を即座にナイフへと伝える。
響いたのは乾いた音色。触れたナイフが金属から凍てついた刃へと変質したのだ。
――すでに距離は三歩。
もはや剣の間合いに近づきつつある距離で、カナデは凍てついた刃を投擲する。
鳴り響いたのは金属が擦れる甲高い音と、苦しみに満ちた絶叫。
咄嗟の奇襲によってカナデが貫く事が出来たのは中央にいる三名。他は各々が手にした騎士剣で弾いてみせた。その技量は予想通り山賊のものでは決してない。
騎士の中でも副官となれる者か、はたまた王族の警護に当たる近衛騎士となれるほどの技量を有した者だろう。それほどの実力者が残り十七名。奇襲であったからこそ倒せた、そう言っても過言ではないカナデとってはいささか数が多すぎるだろう。
それを証明するかのように山賊の身なりをした騎士達は一斉に散開。気づいた時には騎士達はカナデを円形に包囲する態勢を整えていた。まさに完璧と言ってもいい程の理想的な動きだった。だが、それはカナデが一人であった場合の話だ。複数を相手にするにはいささか周囲への意識が散漫であるだろう。
「私に構わず――放て!」
意識が自身に集まった事を肌で感じたカナデは、声を張り上げる。当然、届ける相手は途中で道を違えた二人。ゼイガンとアリシアだ。
カナデが突如張り上げた声は、周囲を取り囲む刺客の瞳を一瞬にして見開かせる。だが、見開いた瞳が閉じる間などは存在しない。彼らが瞳を閉じるよりも速く、幾重にも渡る矢が駆け抜けたからだ。
(いい腕をしているな、二人とも)
一寸の狂いなく射出された矢を視界に収めたカナデは、姿が見えない二人を内心で賞賛する。夜目に慣れたと言っても暗闇で矢を放っているのだ。一本か二本かはカナデに向けて飛来する事も予想はしていた。
だが、狙った矢は刺客の防御の薄い首元を正確に射抜いていたのだ。誤って飛んできた場合は氷壁を展開しようと思っていたカナデが滑稽に見えてしまうほどに、二人が放った矢は正確だったのである。
第二の奇襲が終わって数秒の後。カナデは素早く視線を走らせていく。
敵の数はすでに十名。前方後方に三名ずつ、左右にそれぞれ二名だ。まだ数で言えば敵に分がある。諦めるにはいささか早いだろう。
「――やはり来るか」
カナデの考えをまるで読んだかのように、山賊に扮した騎士は一斉に地を蹴った。刺客が狙うのはカナデ。刺客の初手は目の前にいる者を十人がかりで倒すという事らしい。
戦いは常に各個撃破が基本。まさに教本通りの行動だった。
ここまで接近されればボウガンでの援護は不可能であり、今さら救援に向かったとしても間に合うかどうか。いや、辿り着く前にカナデが倒されてしまうのは誰の目にも明らかだ。
(使うしか――ないな)
カナデの脳裏に浮かんだものは禁忌の力。力の代償たる命をより多く捧げる事によって発動する穢れた力である。
――氷装具。
汚染者の切り札とでもいうべき力だ。
代償を払う事を躊躇う者も当然いるだろう。しかし、カナデは迷わない。
姫が心に再び光を燈してくれたのだから。例え戦う事で失うのだとしても、以前の自分と比べれば幾分かましに思えるのだ。
確かな決意を心に感じたカナデは皆の希望を守るために、自身の分身たる刃を形成せしめる。過去にカナデへと向けられた恐怖の瞳を振り切って。
刹那。
横薙ぎに駆け抜けたのは凍てついた大鎌。狙うは前方から迫る三人である。
空気を切り裂くように右から左に駆け抜けた絶対たる刃は、騎士剣を、軽装を、人を形作る肉体を瞬時に容赦なく凍らせていく。
轟いたのは何度聞いても慣れない叫び声。人と人が戦ったとしたならば決して耳にする事はない断末魔の叫びだった。
しかし、天へと届くような叫び声に心を痛めていられる時間は存在しない。立て続けに迫る騎士剣に対応せねばならないからだ。
(左、後ろ……最後は右か)
カナデは銀閃が迫る順を、心の中で確認するように呟く。
一斉に仕掛けてこないのは、大振りな氷装具の間隙を突くためだろうか。如何に優れた武器を持ち、それでいて人外の力を身に宿していたとしても無敵という訳ではないのだから。
カナデの予想では、おそらく右からの一閃を防ぐ手段は存在しない。
これは力量の問題ではなくカナデが飛び込んだ際に、刺客が包囲という策を即座に展開した時から決まっていた事である。鍛錬を積んだ者同士の戦いにおいて偶然などという言葉は存在しないのだから。
だとしてもこの場で倒れるつもりはないカナデは、即座に返す刃で迫る騎士剣へと対応する。氷装具を通して、身に宿る氷雪種の力と繋がったカナデの動きはまさに神速だった。本来であれば反応する事は適わない左、そして後方からの一閃が振り下ろされるよりも速く氷刃が駆け抜ける。
回転の力を受けて煌めいた刃は、刺客の胴を切り裂いて一瞬で氷塊へと変貌させた。一瞬の内に左、そして後方から迫る五名を戦闘不能にしたカナデ。
だが、ここまでがカナデの限界である。
如何に神速の一閃だとしても、先に振り下ろした刃の尽くを上回る速度を出せる訳はないのだから。それを証明するかのように焼けるような痛みと衝撃が左腕、正確に言えば二の腕を襲う。
痛みは腕を引き千切るように突き進み、衝撃はカナデの体を吹き飛ばすかのように押し込む。左腕が切断されるのは時間の問題かと思われた。
実際にカナデが化け物と忌み嫌われる存在でなければ易々と両断されていた事だろう。しかし、カナデはやはり人を超えた存在なのである。人が出来ない事を成せてしまうという意味では。
「血が――固まっただと!」
今まさに腕を両断せしめようとした山賊紛いの騎士は、自身の目の前で広がる光景に声を震わせる。
――彼の眼前で広がる光景。
それはカナデの腕から溢れ出る血が固まるというもの。まさに彼の言葉通りである。
それだけでなく固まった鮮血色の氷は食い込んだ刃を押し出し、そして触れた刃を侵食していく。同一の物体へとその姿を変えるという方法で。
騎士の誇りたる剣を理解の範疇を超えた手段で失った刺客。そんな彼が即座に戦える訳はなく一歩、二歩と恐怖に怯えて後ずさる。
――戦闘可能な者は残り一人。
(退くか、来るか)
カナデは恐怖に揺れる敵の瞳を涼やかに見つめる。数の上では有利となった現在でも下手に動く事はしない。他に敵が潜んでいる可能性も捨てきれないからだ。
「くっそ!」
そんな中。最後の一人は悪態をついて地を蹴った。
恐怖を叫び声によって霧散させたのだろう。彼のとった行動はただの無謀な突撃。
だが、背を向けて逃げたとしても結果は同じで助かる事はない。ならば自身の誇りをかけて挑む事にしたのだろう。その心意気は賞賛に値するが、カナデは同時に悲しいと思ってしまう。こんな無意味な事をずっと続けていれば、人は全ての例外なくおかしくなってしまうと思うからだ。
「――すまない」
だとしても振るう刃を止めるつもりはないカナデは、踏み込んだ騎士の胴を大鎌にて切り裂く。切り裂かれた男は、瞬時に複雑骨折でもしたかのように全身から鋭利な氷の結晶が突き出る。後は床へと叩きつけられたガラスのように砕け散るのを待つだけだ。まるで人の死というものを冒涜するかのような汚染者の力。
しかし、カナデは迷うことなく力を振るい続けるだろう。代償は全て自身の命として払うつもりだから。
(さて……最後は)
最後に残った一人がどうするのか。カナデが確認のために視線を向けると。
それと同時に轟いたのは、世界の終わりを見たかのような絶叫だった。当然ではあるがカナデが何かをした訳ではない。ならばゼイガンとアリシアかと思い、視線を左へと向ける。
しかし、彼らはカナデの救援のために走っている所だった。何かをした様子はない。
ならば何が彼を殺したのか。答えはすぐに一つの存在へと結びつく。
「――氷雪種」
カナデは身を震わせながら、人類の天敵たる存在の名を呟く。
名を呼んだカナデに応えるかのように鳴り響いたのは乾いた音色。身を凍らせた騎士が砕けた音だった。
音は鳴ったが姿を見せない、氷雪種。
(どこにいる?)
大鎌を隙なく構えたカナデは周囲に視線を走らせる。自身は触れても凍る事はない。
だが、他の皆。特に前回狙われたアリシアとイリスは危険だろう。
「どこにいる!」
姿が見えない相手に対しての恐怖が最高潮に達した瞬間。頬へと触れたのは凍てついた冷気。人という存在を、カナデという存在を知りたがっているようにも感じる凍てついた冷気だった。だが、触れられたカナデは不快な気持ちしかなく、拒絶の意志を明確に示すべく、姿が見えない相手に向けて大鎌を振るう。
しかし、横薙ぎに駆け抜けた一閃は何か硬質なるものによって弾かれる。
「なんだ!」
今まで経験のない感触に戸惑いを隠せないカナデは鋭い一声を上げる。
「あなた達は……なぜ戦うの?」
そんなカナデに応えたのは涼やかな声。
そして、その声を上げた人物はすぐさま姿を現す。目と鼻が触れそうな程に近くに立っていたのは人形のように細い体をした真っ白な少女だった。
ここまで寄られた事はおそらく汚染者になってから経験がない。触れれば、その者を殺してしまうのだから。
「お前は――なんだ!」
カナデは問いには答えずに、叫ぶと共に大鎌の柄を少女へと振り上げる。見た目は華奢だが氷装具の一閃を弾いてみせたのだ。手加減など出来よう筈がなかった。
だが、返ってきたのはまるで馬車に跳ね飛ばされた様な衝撃だった。
人外の力を得ているとしても、それほどまでの衝撃に耐えられる訳はなくカナデは瞬く間に吹き飛ばされ、その身を地面に強く打ちつけてようやく止まった。
「どうして殴るの? 私は何もしないよ」
吹き飛ぶカナデを、氷色の瞳に捉えた少女は小首を傾げた。しかし、他に何かする訳でもなく敵意も感じはしなかった。だが、刺客の男を殺したのもこの少女なのである。
(なんなんだ……こいつは)
いろいろと質問してくるが、聞きたいのはこちらの方だ。
見た所では氷雪種に近い存在である事は想像できる。ならば彼女は汚染者なのだろうか。しかし、少女の雰囲気は明らかにカナデとは異なる。何かこの世の者ではないような気がするのだ。
「カナデ!」
打ち付けた体を何とか立ち上がらせようとしていると。ようやく救援に間に合ったアリシアが声を上げる。
だが――
「来るな! こいつは危険だ」
カナデは素早く声を張り上げる。同じ人が相手ならば救援はありがたい。だが、氷雪種の類はあまりにも危険過ぎる。
「たくさん来たね。なら、私に教えて。あなたたちを――」
この切迫した空気が分からないのか、少女は弾んだ声を上げた後にゆっくりと瞳を閉じた。完全なる無防備な姿ではあるが、彼女に迂闊に攻撃しようものなら吹き飛ばされる事は目に見えている。
(何をするんだ?)
ようやく起き上がる事が出来たカナデは、氷装具の柄を強く握り直すと共に少女の様子を窺う。
すると少女はゆっくりと口を開き、病人のように白い手を胸の高さまで掲げた。
「数多の想いを繋いで――ただ分かり合えますように」
少女の小さな口から紡がれたのは、そんな言葉だった。
刹那、響き渡ったのは歌声。そして、物質が凍る乾いた音色だった。
歌を歌っているのは正体も目的も分からない真っ白な少女。そして、凍りついているのは地面を覆う草と花々。
「耳を塞げ! 早く!」
彼女の能力にいち早く気付いたのはカナデだった。ただの憶測であればいいが、仮に歌を聞いた相手を凍らすというのであれば危険過ぎる。
「心得ました」
「う……うん!」
カナデの張り上げた声を聞いたゼイガンとアリシアは素早く耳を塞ぐ。アリシアに至っては瞳すら閉じていた。
その間にも少女の歌は続き、地を覆う生命は失われていく。
数秒の後にカナデが立ち尽くしていたのは別世界。
凍りついた草と花。まばらに立っているのは水晶色の木々。まるで銀の森に帰ったような錯覚する覚えるほどであった。
――世界を変えたのは一人の少女。
歌う事で全てを凍らせる絶対的で可憐な存在。そして、今もなおこの世界に君臨する乙女。まさに『氷結の歌姫』という言葉が似あいそうな少女だった。
「悪いが……抗わせてもらう」
カナデは恐怖に震える身を叱咤して一歩進む。
耳を塞いでいる二人がどこまで耐えられるのか不明だからだ。もしかすれば人体には影響はないのかもしれないが、ただの仮定で判断するには危険過ぎるのも確かである。
危険を取り除く方法は少女を倒す他にない。
そう結論付けたカナデは、とりあえずは歌っている時にも攻撃が弾かれるのか。それを確かめるために腰に固定してあるホルダーからナイフを引き抜く。
汚染者の力がナイフへと伝わった事を確認したカナデは、一息で凍てついたナイフを下投げで投擲する。
鳴り響いたのはガラスが割れるような音色。
ナイフと少女の眼前に展開している何かが干渉を起こした音だ。よく見ると少女の目の前には砕けたガラスのような壁が存在していた。歌に集中して防壁が弱くなったのか、それとも大鎌の一閃が効いていたのか。理由は分からないが、どうやら攻撃は通るらしい。
勝てない相手ではないと理解したカナデは、素早く凍てついた地面を蹴りつける。
一歩、二歩と凍りついた草を、花を踏み抜いて駆けるカナデ。
その度に舞い上がる透明な花弁が過去の忌まわしき記憶を呼び起こす。しかし、今はただ前へと両足を進める。未知なる恐怖へと抗うために。
好機があるとするならば少女が歌を歌っている間だけに思えるからだ。
だが、そんなカナデの考えは甘かった。
「それが答えなの?」
接近したカナデを視界に収めた少女が歌う事を止めたのである。再び防壁を展開するかと思ったが、少女の行動は違った。
一つ瞬きする間に防壁を消失させ、二つ瞬きする間には身を低くして駆けていたのだ。氷装具を手にしたカナデよりも速く、いや、この世界にあるどんなものよりも速く少女は駆けていた。
――殺される。
カナデは咄嗟にそう思った。それほどまでに少女の動きは洗練されており、無駄がなかったのだ。だが、少女の刃はカナデを傷つける事はなかった。
代わりに砕け散ったのはカナデの氷装具。少女はただ戦う力を奪っただけだったのだ。
「私はあなた達が知りたいだけだよ。ねぇ……教えて」
武器を失ったカナデの眼前に立った少女は、ゆっくりと白い手をカナデの頬へと差し伸ばす。殺気は感じないが、差し伸ばされた手は恐怖以外の何者でもなかった。
「止めろ!」
カナデは恐怖に怯えた声を張り上げる。言葉には明確な拒絶の意思が込められていた事だろう。
「そう……残念だな」
拒絶された少女は一度寂しそうに肩を落とす。氷色の瞳が潤んでいる事はおそらく気のせいではないだろう。しかし、掛けてあげられる言葉はカナデにはなかった。
いや、もはや声すら発する事が出来なかったのだ。
「また会えるといいね」
少女はどうやらここでは目的を果たす事が出来ないと判断したらしい。そんな彼女は薄っすらと微笑んだのを最後に、その姿を粉雪のような霧へと変える。まるで氷雪種のように。
カナデは少女が眼前に迫る恐怖が消えた後も、しばらくは動く事が出来なかった。それは耳を塞いでいたゼイガンとアリシアも同じであった。