第二話 (五)
城塞都市シェリティアの王城三階。
王族のみが使用を許されている西側の区画にある一室で、まるで倒れ込むようにベッドへと身を投げ出したのは一人の少女。
臣下の者があまりにも注意するために、淡い緑色の法衣から、純白のドレスへと着替えたイリフィリア・ストレインこと、イリスである。
「――疲れたわ」
イリスは自身がベッドへと倒れ込んだ理由を端的に述べた。正直な事を言えばすでに立っている事も辛いのである。その証拠に背から感じる、まるで包み込むような柔らかさと、温かさが徐々に瞼を重くさせる。
まだシーツの中に入っていないというのに、もはや深い眠りへと落ちてしまいそうだった。なぜここまで疲労したのか。その理由を知るには正午まで溯る必要がある。
事のきっかけはほとんど年の離れていないアリシアとカナデが、周囲の騎士達にまるで後れを取らない動きで鍛錬に励む姿を目にした事だった。彼女達は額にびっしりと汗を浮かべ、荒い息を上げてもなお己を磨いていたのだ。
そんな二人の必死な姿を目にしたイリスは、姫である自身も何かせねばと思い至り城内を駆けまわった。重たい金属の塊としか思えない騎士剣を振るう事、ゼイガンから兵法についての本を借りて読み漁る事、父から政治の何たるかを聞く事。実行可能な事は今日の内に全て行った事だろう。
だが、イリスの心が晴れる事はなかった。いや、逆に沈んでいるとも言える。
沈む原因は何をやっても中途半端だったからだ。
剣を振る姿はまるで騎士の真似事、兵法については知識として知っているだけで実戦経験は皆無、政治については今でも分からない事ばかりだ。全てが中途半端。
カナデもアリシアも戦いにおいては他に劣らないというのに。自身は姫であるというのに全てが中途半端なのである。臣下の者は時期が来たら大丈夫だと言ってくれている。
しかし、今はどこかしこも戦争をしている世だ。もしかすればイリスくらいの歳でも王となる事はあるのだ。実際に父は幼い時に政権を渡されて、今もこの国を支えている。
(私に出来る……ことを)
イリスは心中で呟いて、再び全身に力を込める。
おぼろげな意識は徐々に覚醒し、全身に溢れる力が伝わっていく。何か出来る事を見つけねば自身を保つ事ができないと思ったのだ。
どこか焦りにも似た心境を抱えながら、自身が何をすべきかを考えていると。
「姫様。ゼイガンです」
ノックの音と共に、渋みを増した声が聞こえた。
ノックの音がした時はアリシアかと思ったイリスは内心で首を傾げて、ゆっくりと立ち上がる。それと同時に内に秘めたこの悩みを彼ならば解決してくれるかもしれないと淡い期待を抱くイリス。ドアへと向かう足は自然と早足となってしまった。
「どうかしましたか?」
ドアを開けて、佇む彼に最初に掛けた言葉はそれだった。
まずは彼の用事を済ませようと思ったのである。長話になるのなら場所を移すか、自室に招くつもりである。
「お話は中で」
問いを受けた彼は人差し指をイリスの口元へと当てて、室内へと視線を走らせる。
(――なんなのですか?)
口を塞がれたイリスは視線だけで何とか伝えようと試みる。しかし、当然伝えられる訳はなく、彼の引き締められた表情には変化はない。
「内密に話したい事があるのです。どうか中に」
動きを見せないイリスに、ゼイガンは一度表情を緩めて囁く。どこか柔らかい微笑みはいつもの彼のものであった。老齢なる男性の柔らかさに何とか落ち着きを取り戻したイリスは、一度頷いた後に半歩下がる。
「御無礼をして申し訳ありません」
遅れて謝罪の言葉を呟くゼイガン。
そして、次の瞬間には彼は素早く一歩を踏み込み、後ろ手でドアを閉めていた。その行動はイリスが思っていたよりも幾分か早いか。それだけでなく彼はドアを閉める時も常に後ろを気にしていた。まるで追手にでも追われているかのように。
彼がこのような行動を取る理由として思い当たる事と言えば、先日の襲撃くらいだろう。しかし、まさか城内で刺客に狙われる危険性があるとでもいうのだろうか。
「構いません。どうしたのですか?」
どれだけ考えていても答えが出ない事を悟ったイリスは、彼へと二度目の問いをかける。おそらく今回は答えてくれるだろう。
「まず私は聖王国ルストへの使者として派遣されます。派遣理由は……ルストの無条件降伏の勧告。それが叶わない場合は宣戦布告を行います」
ようやく話せる環境が整った事を確認したゼイガンは、感情を感じさせない淡々とした口ぶりで言い切った。言い切った言葉には一切の迷いはなく、今述べた事を実際に遂行する気でいるのは明らかだろう。
(宣戦布告? 元は同じ国である聖王国ルストと?)
言葉の意味は分かるのだが、イリスはなぜここまでの状況になっているのか理解する事は出来なかった。なにせ三十五年の長きに渡る年月の間で、戦も交流もなかった国であるのだから。なぜいまさらと思ってしまうのは当然だろう。
「王の参謀役であります……カーマイン殿が明日南のリシェス共和国と秘密裏に同盟を結びます。以後は、我が国は聖王国ルストの状況に変化がないか偵察を送りながら、侵攻の機会を窺っていく事になるでしょう」
ゼイガンはイリスが言葉を返さない事を気にした様子もなく、さらに言葉を続けていく。おそらくまずは言いたい事を全部言い切るつもりなのだろう。
「まずは続けて」
途中で下手な質問をする事で話を折る事を恐れたイリスは、短く述べて先を促す。
一度頷いたゼイガンは――
「二国による同時攻撃。まさに理想的です。ですが……私には理想的過ぎると思います。裏で誰かが糸を引いていると考えるのが自然なくらいに出来過ぎています。そこで私が怪しいと考えているのは、あっさりと同盟を締結させたカーマイン殿です。しかし、彼が怪しいと断定するには証拠がありません。それに、ただカーマイン殿が敵の策略に惑わされている可能性も否定できませんからね。その見極めを行いにルストへと向かいます。かの国へと行けば……必ず情報が手に入る筈ですから」
まるで仇敵でも見るかのように瞳を鋭くさせて言った。
確かに彼の言う通りにあまりにも同盟が締結されるのが早すぎるとイリスは思う。自国の利益のためならば形だけの同盟を組む時代ではあるが、それにしてもあからさま過ぎるのだ。だが、参謀を疑う証拠はなく、それでいて他国の策略とするならば、どの国が仕掛けてきたのかが分からなくては動きようがないのも事実だ。その見極めをゼイガンが成すというのである。
「今……使者が向かうのは危険ではありませんか?」
使者としてならば根っからの将軍であるアイザックよりも、ゼイガンが適任なのは理解できる。だが、戦争と成り得る国に赴くのは明らかに危険であると思えるのだ。
「そうでしょうな。ですが……私、アリシア殿、そしてカナデ殿を指定されました。騎士として拒否する事は叶いません。ですが、拒否できたとしても結果は変わりません。他の誰でもなく……自身の瞳で真実を確かめたいと思いますので」
イリスの問いに、ゼイガンは瞳を和らげて返す。
いつもと変わらない優しい瞳と表情だった。しかし、そんな表情がイリスを不安にさせる。まるで彼の微笑みを見るのがこれで最後になってしまうかのような気がしたからである。いや、もしかすればゼイガンは最後にイリスに会いに来てくれたのかもしれない。
律儀な彼ならば十分にあり得る事だとイリスには思える。
これが最後。もう彼から何も教わる事は叶わない。もう心を安心させてくれる笑顔を見る事は叶わないというのだろうか。
(それは……嫌)
イリスは心中で呟いて、頭を振る。
ゼイガンにも、アリシアにも、そして何とか説得出来たカナデともずっと一緒に歩んでいきたいのだ。彼らを失う事など到底許容できる筈がないのである。
「姫?」
突然、頭を振ったイリスに戸惑ったのかゼイガンが眉根を寄せる。
「あなた達を失いたくはありません。使者は……私が務めます」
イリスは数秒という短い時間で考えをまとめ上げて言い切る。
我ながら無茶な事を言っているとイリスは思う。だが、彼らを失うくらいならば賭けに出る方がいいと思ったのだ。
「姫! 何という事を。危険過ぎます」
当然、ゼイガンは声を荒げて叫ぶ。
ここまではイリスの予想通りだ。だが、この程度であれば切り返せる。剣では無理だが、言葉でならイリスにも返す事が出来るのである。
「王族の使者です。聖王国ルスト……いえ、どのような国でも無下にはできないでしょう。最大限の礼儀を持って対応したにも関わらず王族を手にかけたとするならば、後の外交に多大な影響力が出るのは目に見えています。外交を閉ざされた国が今後の戦で勝てるとは到底思えません。かの国もその程度の事が分からぬ事はないでしょう。当然、王族の従者に手をかける事も同義。私が行く事で皆の安全は確保できます。その隙にゼイガン……真実を見極めて下さい」
イリスはまとめた思考を言葉に変えて、彼へと伝える。
ただの勢いだけの言葉ではないのだと分かってほしいのである。
「異を唱えたい所ではありますが……姫に返せる言葉がございませんな。それに以前の暗殺者の件もあります。実を言えば離れるなど心配でなりません」
ゼイガンは一度肩を竦めて言葉を返す。どうやら降参だと言いたいらしい。
「それなら!」
「ええ、参りましょう。聖王国ルストへ」
弾んだ声を出すイリスに、ゼイガンは一つ頷いて柔らかい声音で呟いた。