後編 (十一)
カルティシオン大陸の全てを巻き込んだ戦争。
片方は自国の民が人らしく生きる事を願い。そして、もう片方は全ての国が手を取る事を願った。両者の願いが単純に民の笑顔のためだと思うと、争いが起きてしまう時点で悲劇なのだとイリスは思う。
しかし、大陸に訪れた悲劇は、数刻で終わりを告げるだろう。
グシオン連合国は氷雪種という『禁じ手』に近い手段を用いたようだが、小銃部隊をほぼ壊滅させたイリス達がセドリックと合流出来れば戦いは決するからだ。如何に氷雪種が優れていようとも、総勢二万であれば対応可能だろう。
実際に兵力に頼って氷雪種と戦った経験がないために断定は出来ないが、全ての者の命を預かっているイリスが勝利を信じなければ、これ以上戦い続ける事は出来ないだろう。
「陣は偃月。私に続いて!」
ならば、自身が先頭に立って皆を導く。
剣術は得意ではないけれども、皆の希望を受け止める器としての役目は果たすべきだろう。王の突撃などあまりにも危険だと思うのかもしれないが、イリスは戦場で倒れる事はないと信じている。
「私がイリスを守るよ。だから、シュバルツ王とシオン将軍で応戦して!」
イリスの絶対的な自信を支えるのが、ずっと傍らに立って槍を振るってくれるアリシアの存在だ。彼女が倒れる事がない限りは、イリスの身には傷一つ付かない。
そう何度も心に言い聞かせたイリスは、実際に戦う機会が多い二人の人物へと深緑の瞳を向ける。すると、シュバルツとシオンは特に何も言う事は無かった。
ただ黙って一つ頷いて、イリスが進む道を信じてくれるようだ。
(……カナデ、私は決着を付ける。あなたはどんな決着を付けたの?)
皆の心が固まり、後はぶつかるだけ。
皆が覚悟を決めて息を呑む中で、心に浮かんだのはもう会えないかもしれない友についてだった。イリスの代行者を務めてくれた彼女は氷雪種の総意者と何を語り、どんな答えを出すのか。
それは王であるイリスでも予想出来ない。だが、イリスは人と氷雪種の二つの想いを知った彼女であれば最も適した答えを出してくれると信じている。
信じているからこそ、イリスは漆黒の鱗に守られた氷雪種を視界には入れない。
今注視するべきは、同じ人として決着を付けなければならない人物であるのだから。
――十メートル、二十メートル。
少ない兵力ながらも猛攻を繰り返すグシオン連合国に押されながらも、何とか耐え忍んでいるセドリックを見つめながらイリスは駆ける。王という器として振る舞ってはいるがイリスも人の子だ。
さすがに共に歩む事を誓い合った者の命が危ういとあっては焦ってしまう。幸いとして、現在は指揮官突撃の陣を組んでいるためにイリスが突き進む事は障害とはならない。としても、指揮する者が平常心を失う事は危険であろう。
「イリス。私が先頭に出るよ」
そんな王を見かねた元護衛騎士は走る速度を増していく。
さすがに槍の腕だけで隊長という地位を獲得しただけはあるのか、アリシアはものの数秒でイリスを抜き去って目の前に躍り出る。そして、間髪入れずに手にした槍を構え直して掛け声を上げた。
次の瞬間。騎士達は彼女に倣って、自身を鼓舞するように雄叫びを上げる。
(……やはり隊長なのね)
一年前は妹のように思っていた彼女の小さな背中は、一時だけ戦いの事を忘れてしまう程に立派だった。これ程までに成長した彼女にならば、自身の身の託してもいいと改めて感じたイリスは一度深呼吸をして。
「グシオン王、ドレスティン! 一時で構いません。私の話を聞いて下さい」
自身が成すべきと思った事を貫く事にした。
剣にて彼の振るう刃を止める事が出来ないならば、発する言葉で彼を止めて見せるのだ。和平の使者すらも殺める男に言葉が通じるかは分からないが、今は共に戦場を駆けているシュバルツ王とて元は敵であったのだ。
ならば、想いを届ける事は無駄ではない。そう信じたイリスは言葉を届けた相手に力ある瞳を注ぎ続ける。
すると、数秒の後にドレスティンは――
「魔女か。その話術によって多くの者の心を動かしたようだが……私には成すべき事がある。すまないが、聞く気はない!」
一時剣を止めて、振り返ると共に叫び返してきた。
それだけでなく、討つべき相手をセドリックからイリスへと切り替えた王は、放たれた弾丸のような勢いで戦場を駆けた。
どうやらセドリックの部隊は少数の手勢と氷雪種だけで事足りると判断したようだ。確かに今も増え続ける氷雪種の脅威は遠目でもはっきりと分かる。
ならば後方を迎撃し、尚且つ総大将であるイリスを討ち取った方がいいと判断したのだろう。
「イリスは自分がしたい事を! 私が守るから」
グシオン王の目論見は語らずとも分かってようで、前方を走るアリシアは槍を突き出すと共に背を押してくれた。
ならば、成すべき事は一つ。
改めて覚悟を決めたイリスは、凍てついた空気を肺へと送って。
「いえ、聞いていただきます! 私達と共に歩むために」
諦めずに想いを届ける。
いや、届くまで叫び続ける事だった。どれだけ心を閉ざした者でも、何度も何度も言葉を届ければいつかは聞いてくれるのだから。
「貴様はすでに私と同じ地平に立っているつもりか。この氷雪種の大軍を防ぐ事も出来ないというのに!」
しかし、届けた想いを彼は一言で斬り捨てる。
それと共に彼は、イリスから見て左右と正面に存在する黒き氷鱗に覆われた獣を指し示す。どうやら話は「戦いに勝ってからにしろ」とでも言いたいのだろう。
だが、それでは遅すぎる。この戦いを終結させるために必要な犠牲を考えれば正気の沙汰とは思えないのだ。としても、雪崩のように押し寄せる氷雪種を止める方法がない事も事実である。
何か一つ彼を屈服させる案がイリスには足りていないのだ。それが悔しくて下唇を噛み締めた時に。
「……これは?」
頬へと銀色の粒子が触れた。
まるで雪のように降り注ぐ輝きは、見た目とは裏腹に確かな温かさがある。そして、この温かさをイリスは知っている。いや、忘れる筈がない。
実際に触れる事が出来たのは一度だけなのだが、身も心も委ねてしまいたいと思うような温かさは彼女特有のものだ。時には刃物のように鋭くて、また時には抱きしめてあげたくなる程に弱々しい少女。命を代償にしてまでイリスの影を務めてくれる、イリスだけの騎士であるカナデの温かさだった。
『ずいぶんと待たせてしまって……すまない』
彼女であると確信した瞬間に、脳へと直接言葉が届く。
確かに驚きはした。だが、一年前の戦争では歌姫が奏でた歌によって、想いと想いが解け合うという不思議な経験を体験したイリスは慣れたもので。
「そうね。でも、間に合ってくれた。私の騎士様は……この状況をどうするの?」
この場に現れた目的をカナデへと即座に問うた。
少々冷たい気もするが、元々イリスとカナデの関係は『付かず離れず』だ。確かに心と心では深い絆で結ばれてはいる。それでも王と騎士という一線だけはずっと守り続けてきたような気がするのだ。
としても、イリスにとっては一番の友が駆けつけてくれた事は素直に嬉しかった。
『氷雪種は私の力で抑え込む。だから、イリスは総意者と共にグシオン王を止めて欲しい』
そんなイリスの気持ちが伝わったのか。
先ほどよりも柔らかさを含んだ声が脳裏を駆け巡る。どんな方法を取るのか、本当に可能なのか。冷静な自分が警告を発するが、その全てを消し去って友を信じる道をイリスは迷わず選ぶ。
そんなイリスに応えるように戦場に届いたのは、どこまでも心地良い音色。まるで争う事など愚かしいと思ってしまうかのような、無垢な音色が戦場に奏でられたのだ。
音の正体はいつの間にか平原を覆い尽くしていた真っ白な花。
イリスの膝丈程に達する、穢れを知らない小さな花が咲き誇っていたのだ。その花の名は『カナデの花』。浄化という花言葉を持った可憐な花は、その名の通りに一度イリスの心を洗い流してくれた。
しかし、洗い流したのは心だけではない。平原を横切る風に揺られた花は小指にも満たない花弁を宙へと舞わせて、蠢く漆黒の霧を浄化して見せたのだ。自身の命と引き換えに氷雪種を消していくカナデの花。その姿は命を代償に戦い続けたカナデの姿を思わせて、一瞬だけ心が痛む。だが、今は心を痛めている場合ではない。
――一度、二度と深呼吸。
それだけでなく、両目を閉じて心を落ち着かせると。
「グシオン王。あなたには同じ地平に立って、共にこの大陸で生きてもらいます。私の理想は全ての国が手を取り合える事。そのための基盤をこのイリフィリア・ストレインは作りたいのです」
深緑の瞳を開きながら理想を語っていく。
氷雪種という絶対の刃をへし折ってから語るというのは、いささか対等ではない気もする。しかし、この場合は致し方ないだろう。
「総意者。お前も同じ考えなのか?」
どうやら勝機が薄いと判断したらしいドレスティンはイリスを無視して、この戦いを起こした原因とも言える存在へと問うた。
イリスを視界にすら収めようとしないドレスティンには、少なからず怒りを覚える。
だが、総意者が何を思い、どう行動するのか。それはイリスとしても知りたいと思い、開いた口を閉ざす事にする。
『全てが同じという訳ではないかな。ボクは君を止めるためにここまで来たんだ』
すると、総意者は自身が語るべきだと判断したようで。
残った霧をイリスとドレスティンが立ち尽くす場所へと集めて、少年の姿を形作った。
纏う霧は闇の使者を思わせる程に黒くて禍々しいのだが、総意者の姿はどこまでも神聖で作り物めいた雰囲気がするから不思議だ。おそらく聖職者が見たならば、神の生まれ変わりだと信じてしまう程に神々しい少年は薄っすらと笑みを浮かべると。
「一度、平和を願う女王を信じてみよう、ドレスティン。ボクは人と氷雪種ですら分かり合えると述べた……カナデと名乗る少女を信じてみたい。そして、これが証拠だよ」
続けて歌う様に言葉を紡いだ総意者は、両腕を開く事で平原を埋め尽くす白き花を指し示す。平原を覆う花は今も刻々と氷雪種の霧だけでなく、人の心を涼やかな音色と舞う花弁で浄化していく。
夢物語の世界を思わせる煌びやかな光景を『美しい』と思う心に、人も氷雪種もないと総意者は言いたいのだろう。いや、そうであるという確信がイリスの心にはある。
その理由は、突如として戦場へと届いた二つの歌が戦場を埋め尽くす想いを届けてくれたからだ。戦いの終わりが近い事を喜ぶ騎士達の気持ち、人の心を知って消える事を選択する氷雪種達の想い。
この場にいる全ての者の心が溶けて、人の代表であるイリスの心へと沁みていくのだ。全てを知った今のイリスであれば、どんな想いでも伝えられる。
『全てを伝えて、私は歌を奏でる事しか出来ないけれど……あなたなら出来るから』
そう確信したイリスの背を押してくれたのは、歌姫の澄んだ言葉だった。
想いを伝え合う歌を届けてくれただけでも感謝すべきだというのに、背まで押してくれた無垢な乙女に感謝したイリスは危険を顧みずに一歩を刻む。
『全ての人と氷雪種が歩める世界を作って。私の歌はあの子達の気持ちも伝えるから』
さらに一歩を刻んだ瞬間に、初めて聞く声が再びイリスを鼓舞してくれた。
女性にしては若干低い声は、氷雪種の言葉を歌として奏でている少女のものだろうか。
名前も面識もない少女ではあるが、カナデという共通の存在を経由して繋がる事が出来る。ならば、心を閉ざした孤独なる王の心も開く事が出来るのかもしれない。
そう信じて疑わないイリスは――
「私を信じて下さい。全ての民が笑顔を浮かべる事が出来る世界を作ってみせます」
一歩、二歩と進みながらも言葉を紡いでいく。
言葉を届ける相手との距離は目測で三歩。猛将とまで呼ばれる王であれば、即座に斬り捨てる事が可能な距離だろう。だとしても、護衛を務めるアリシアも総意者たる少年もイリスを遮る事はなかった。
皆が皆、イリスが求めた世界が成り立つ事を信じてくれたのだ。
ならば、伝わると信じて。皆の想いすら込めた深い緑色の瞳を彼の瞳に重ね合わせるのみだ。
「貴殿はどこまで傲慢なのだ。ただの一人で世界を変えられるつもりか? 否、貴殿はここで終わりだ!」
しかし、ドレスティンは己の覇道を進むために剣を振り上げた。
――一閃。
間髪入れずに放たれたのは振り下ろすような剣閃だった。一応はアリシアと同様の軽装を身に纏っているイリスではあるが、鍛え抜いた男の一撃を受ければ命はないだろう。誰もが息を呑んで、希望を失ったと判断した瞬間。
「――光を失わせはしない!」
突風を思わせる風が意志ある言葉を届けてくれた。
それだけでなく。声を発した人物は彼女の目印と言っても過言ではない漆黒のローブをはためかせると共に、手にした大鎌を煌めかせる。
一度鳴り響いたのは、金属が擦れる音。そして、視界を覆う程の火花だった。
「カナデ!」
突如として戦場に現れた少女の名を呼んだイリスは、両手を胸の前で組んで一挙一動を見守る。それと共に助けられた身でありながらも、振り下ろされた刃に刃で答えていいのかと疑問に思う。
「王という存在は孤独なものだ。だとしても、イリスは一人ではない。シュバルツ王がいて、アリシアとシオン将軍もいる。そして、彼女の代行者たる私がいる。皆がいるから理想を貫けるんだ!」
どうやら、カナデもこれ以上刃を振るう訳にはいかないと思っていたようで。
大鎌を振るいながらもイリスの代わりに叫んでくれた。氷結の歌姫が奏でる歌は確かに便利ではあるが、イリスとカナデには不要なものだ。どれだけ離れていても、語らずともお互いが考えている事は分かるのだから。
「魔女の代行者か。そんな身になりながらも……まだ光を信じるか。貴殿は決して幸せにはなれんというのに!」
対するドレスティンは、過剰に代償を払った事で今にも消えかけているカナデをあろう事か哀れみに満ちた瞳で見つめた。確かにカナデはもはやこの世界に存在している事が奇跡であるように思える。
もはや左腕は失われていて、尚且つ全身からは止めどなく粉雪のように細かな粒子が立ち込めて霧散しているという有り様だ。それでも戦い、イリスを信じる彼女は見ようによっては痛々しく見えるのだろう。
「これこそが私だ。イリスという希望を信じて……たとえこの命が失われたとしても戦い続ける。私が消えた世界が微笑みで満たされると信じて!」
それでもカナデは向けられる哀れみを跳ね返すかのように、大鎌を薙ぎ払う。
片手のみで放たれた一閃ではあるが、彼女の想いと舞姫の力が合わさった一撃は思ったよりも重いらしく。カナデよりも頭三つは大きい男は刃を受け止めた瞬間に一歩、二歩と後ずさる。
「理解出来ん。人という存在は己の欲望に忠実に生きる存在。英雄にすらなれない貴様が――なぜそこまでするのだ!」
としても、その程度で怯むドレスティンではない。
即座に叫び返すと共に手にした剣を容赦なく振り降ろした。咄嗟にカナデも大鎌で防いだが、素人目に見ても苦しいのは分かる。
「カナデ! ありったけの想いを一撃に込めて。口で言って聞く奴ではないよ」
その窮地を救ったのはカナデの想い人だった。
即座に両者の間に割って入ったアリシアは手にした槍を振り上げて、振り下ろされていた凶刃を渾身の力で上空へと弾き飛ばす。
「心得た。これが私の最後の一撃。その身で受け止めろ、ドレスティン!」
――刹那。
手にした大鎌を投げ捨てたカナデは、左腰から騎士剣を抜き放つと同時に横薙ぎに走らせた。それが彼女の言葉通りに最後の一撃だった。
戦いを終結する意味でも、またカナデという存在が終わりを告げる意味でも。
その終末を王であるイリスは瞳に焼き付けなければならない。しかし、内側から外へと溢れる感情の雫が視界を歪めて、とてもではないが見ていられなかった。
「ありがとう、カナデ」
それでも消滅する前に感謝の気持ちだけは伝えたいと思ったイリスは、精一杯の気持ちを絞り出す。答えは返ってはこないのかもしれないが、想いだけでも届けたいと願ったのだ。
「それは私の言葉だ。私は私らしく生きる事が出来たから。ありがとう、イリス」
しかし、どこまでも律儀な友は最後の言葉を送ってくれた。その言葉を胸に刻み込んだイリスは頬を涙で濡らしながらも、王らしく戦いの終結を見届ける。
深緑の瞳が向かう先。今の今までカナデの身を形成していた細かな粒子が舞う地に咲き誇っていたのは、真っ白な一輪の花だった。




