後編 (九)
粉雪が舞い上がったかのように霧散した真紅の霧を力強い瞳で見つめるのは、漆黒のローブが目印のカナデだった。すでに二年は愛用しているローブは若干くたびれているように見えるが、今日で役目を終えるのであれば問題ないだろう。
まるでこれから自殺でもする者の心情であるかのように思うかもしれないが、カナデは間違ってはいないのだと思う。自分の身は自分が一番に分かる、と語る者がいるが実際はその通りで、自身の命が今にも消えかけているのが分かってしまうのだ。
無理に喩えるならば、強風を受けて揺らめくロウソクの炎に似ているのかもしれない。それ程までに頼りない命を刻一刻と燃やしているカナデではあるが、その両足が止まる事はない。
自身が信じるイリスという光のために。そして、無理をしてくれたクロエのためにも今は進むべきだ。
「やってくれるね。これだけやれば……代償の全てを支払っただろうに」
どうやら脳裏に浮かべた人物は同じであったらしく。
総意者は氷弾によって穿たれた体に視線を送りながらも、遥か彼方で代償である『記憶』の全てを解き放ったクロエを想ってくれたようだ。一般の者であれば自身の体に無数の穴を開けられた時点で怒りが心を支配するのだろうが、やはり彼は神を気取るだけはあるのか。クロエが抜け殻になってでも行った行動の背景が分かったようだ。
そして、当然ではあるがカナデにも分かる。彼女は総意者たる少年を対話が可能な場所まで強引に引きずり落としてくれたのだ。
そう。
言うならば、彼女はカナデを信じて全てを託してくれたのである。
「他人のためにここまで出来るのが人だ。確かに利己的な者も多い。もしかすれば、あなたのような高みにいる存在から見たら……今の私は自分の考えを押し付けようとする小物にしか見えないのかしれない。それでも、一度信じてはくれないだろうか? 世界を……そして、私を」
ならば、後は自身の胸に込められた想いをぶつけるのみだと確信したカナデは、ゆっくりと歩みながらも言葉を届けていく。
ただ想いを語るだけで届くのかは分からない。それでも想いは届けなければ始まらないから。
「確かに君の行いは意見の押しつけに過ぎないよ。でも、言いたい事は分かるかな」
カナデの想いを証明するかのように、少年は薄っすらと微笑んだ。
しかし、どうしてなのだろうか。笑っているというのに、孤独な一夜を過ごす子供のように寂しそうに見えてしまう。その理由を探ろうと、さらに一歩踏み込んだ瞬間に。
(……泣いている?)
少年の頬を伝う雫を目の当たりにしたカナデは、彼の心に寂しさが集う理由を正確に把握する事が出来た。神に近しいと思っていた総意者はカナデの想いを理解出来た事に喜ぶと同時に、これから訪れる結末を嘆いているのだ。
「どうして、共に歩めない。私達は分かり合えたのに」
実際は誰よりも長く生きているのだと思われる総意者ではあるが、どうしても年相応の少年にしか見えなかったカナデはそっと手を差し伸ばす。
そして、気づく。
自身の命が思ったよりも短いという事に。当に覚悟はしていたのだが、差し伸ばした手が真っ白な霧となって風に流されていく光景は、言葉では言い合わらせない恐怖を感じてしまう。
「そうだね。君の考えは手に取るように理解出来るよ。でも、ボクにも譲れないものがあるんだ。総意者なんて偉そうな事を言ったけれど……実際は孤独な王のために気まぐれを起こすような、そんな小さな存在でしかないよ。だからさ、ボクを殺してよ。そして、彼を止めて。もうこの大陸に戦いは必要ないから。そう……これが最後の戦い。決して歴史には残らない最後の戦いだよ」
カナデが恐怖と戦っている間に、少年はようやく本音を語ってくれた。
どうやら表向きでは乱立する国家の統一を促す敵として君臨したようだが、実際は一度手を貸したグシオン王を放ってはおけなかっただけらしい。自国の民のために『覇道』を進む王も氷雪種の総意者である少年が倒れれば諦めもつくという事だろう。
そのために彼は自身を『殺して』と言う。
「違うだろう。お前の戦いはそちらではない! 大切で心配だと思うなら――どうしてグシオン王を止めないんだ!」
対するカナデは彼の想いを理解しながらも反論する。
こんな結末は誰も望まないと思うから。いや、他の誰かが許そうともカナデは許したくはない。
「もう決定事項なんだ。拒むなら……ボクが君を殺す」
だとしても、少年は自身を終わらせるために駆け出してしまった。
ただの一歩が数分にも思える程に間延びした中で、大鎌の間合いへと無防備に入ってくる総意者。だが、カナデがこのまま手にした刃を振るわなければ、彼は容赦なく握った棍を振り下ろす事だろう。
実際にカナデに与えられた時間は、二秒。
悩む時間など存在しない中で、カナデが選んだ行動は――
「それでも私は諦めない」
迫る凶刃を手にした刃で受け止めるでも、避ける事でもなかった。
与えられた二秒を使ってゆっくりと氷装具を降ろして、総意者の想いを体で受け止めたのだ。脅しなどではなくて多量の殺意を込めて振り下ろされた棍は、カナデの胸部を覆う軽装を容易に破壊せしめて、体の内側から不快感極まりない音が鳴り響く。
込み上げる吐き気と血を強引に飲み下したカナデは、身を引き裂かれるような痛みを堪えて強引に微笑む。殴られて笑うなど常人がする事ではないのだろうが、それでも少年へと溢れる想いを伝えたかったのだ。
これがイリフィリア・ストレインの成すべき戦いだから。いや、カナデが信じたいと願った道なのだ。
「君はどうして……そこまで?」
骨の大半を砕かれて、視界が霞む中で届いたのは少年の震えた声だった。
どうやら彼はカナデが間合いに入った瞬間に氷装具を振るうと思っていたらしい。
神に等しい力を持つ者に対して、間合いに入ったという条件だけで切り裂く事が出来たかどうかは分からない。しかし、実際はそんな事をするつもりはないのだからこの場合は関係ないだろう。
「どうしてだろうな。一つ思い当たるとするならば……私も彼女のように誰かの心に光を燈してみたいのかもしれない」
それよりも彼の問いに答えるべく、カナデは漆黒の瞳を閉ざす。
正直な事を言えば、すでに瞳を開いている気力がなかったのだ。それどころか代償を払い過ぎてしまったカナデの体は、歌姫が歌を奏でた際に舞う白銀色の粒子へと時を経る事に変わっていく。
人であるというのに、氷雪種のように霧散していくカナデ。
汚染者という存在がやはり『人』ではなかったと思うと、恐怖と悲しみが込み上げてくるのだと思っていた。だが、不思議と怖くはなかった。それは汚染者という存在に慣れてしまったのか、それともセリエという少女が奏でる歌のおかげで氷雪種という存在を理解する事が出来たからなのか。
おそらく後者ではないかと思ったカナデは、氷雪種の代表と言っても過言ではない存在の言葉を待ち続ける。
「君はルスト王を救ったような気がするけれど」
すると、予想外にも少年は会話に応じてくれた。
としても、彼は一つ勘違いをしている。どうやら全ての想いを受け取る事が者であっても、まだまだ人という存在を完全には理解する事は叶わないらしい。
そんな様が愛らしいと感じたカナデは浮かべた微笑みを深くして。
「私はシュバルツ王を本当の意味で救えてはいない。人は一人の存在しか愛する事は出来ないのだから、当然ではあるのだが」
理解してくれるかどうかは分からないけれども、自身の心にある言葉をそのまま伝えていく。そして、同時にただ一人愛したアリシアの無垢な笑顔が自然と浮かんできた。
彼女の好意が始まりの関係ではあったが、この一年で心から愛する事が出来た人をこの世界に残してしまうカナデ。
そう思うと悲しくなってしまうが、おそらくアリシアにそんな事を言ったならば怒られてしまうだろう。それだけでなく、彼女は『幸せです』と胸を張って言ってくれると思う。
その事実が嬉しくて、誇らしい。
この短い命にも価値があったように思えるから。
浮かべた想いが伝わったのか、そうでないのか。
「……人は難しいね。ボク達みたいに単純であればいいのに」
少年はどこか遠くの景色を見ているかのように語った。
聞きようによっては人を理解する事を諦めて、どこか投げやりになってしまったようにも思える。しかし、実際は違うようで。遥か遠方にいる王ドレスティンを案じているのだろう。
『難しくないよ。人は複雑だけど……触れ合うだけで分かり合えるのは動物と同じ。ちゃんと向き合って触れ合えば全部伝わるから』
どこまでも真っ直ぐな想いを持った少年の背を押したのは、イリスと同じ想いを胸に抱いた歌姫だった。ソフィという名前の人でもあり、氷雪種でもある少女は両者の想いを知り得ている唯一の人物であり、彼をあるべき場所へと導くには適した人物であるだろう。
「行こう。あなたは向かうべき場所がある」
歌姫に任せるのもいいとは思ったが、やはり彼を連れて行くのは『人』であるべきだと判断したカナデは閉ざしていた瞳を開いて、そっと消え行く手を差し伸ばす。
以前、イリスがカナデに手を差し伸ばしてくれたように。
「……そうだね。行こう、ボクは君達を知らないといけない。共に歩むのはそれからだ」
伸ばした手を遠慮がちに握ってくれたのは、はにかむように笑う少年。
そして、そんな少年の手を引いて慈しむように抱きしめたのはカナデだった。




