後編 (七)
左翼と右翼に展開した聖王国の戦果を遠目で見守っていた元クエリア神国の狂信者だったイグニスは、自身の役目はないのだと思っていた。そう判断したのは開戦して間もなく、二つの聖王国はグシオン連合国の小銃部隊に甚大なる被害を与えたからだ。
さすがに中央に位置するグシオン王が直進してきた時は、組んでいた成人男性の二倍はあろうかと思われる太い腕を解いたイグニスではあるが、シュバルツ王の活躍のおかげで、すでに半数まで数を減らしている。
猛将とまで呼ばれる王であっても、五千と一万では勝負は目に見えているだろう。それでいても、イグニスは見た目通りの武人だ。数で勝っていても、歴戦の王と戦えるとなれば血が騒ぐ。当然、手など抜くつもりはなかった。
ゆえに中央突破を図るために一直線に迫る敵に対して、万全の構えを。わざわざ鶴翼の陣に変えて、比較的安全な中央に陣取って待ち構えるイグニス。その心中は接近されるまでにボウガンで着実に数を減らし、折を見て両翼で挟撃するという教本通りの戦術が占めていた。
しかし、間違ってはいないのだと確信している。ただ直進をしてくる相手には、この陣以上に有効な陣が他にあるとは思えなかったからだ。
だというのに、南下を続ける王ドレスティンの表情は変わらない。もはやイグニスの部隊など眼中にはなくて、その奥にある城塞都市しか見えていないらしい。
(舐められたものだ)
確かにイグニスは敗者だ。
それは悔しくはあるが認める。だとしても、二度も負けるつもりはない。
例え相手が名の知れた王であったとしても、時にはイグニスのような無名な人物が勝利出来る事を世界へと証明して見せるのだ。
(……そうだろう? キルア)
自身に全てを託してくれた少年のために、イグニスは右翼と左翼に位置する兵へと手を降ろす事で指示を送る。指示を違う事無く矢を放つ合図だと理解した兵は、遥か遠方に位置する味方へと『指揮官の指示』を伝えるためにも順に甲冑の胸部を叩き出す。
次の瞬間。
数多に鳴り響く金属音に混じって平原を駆け抜けたのは、数多のボウガンの矢。指示通りに右翼と左翼に位置する兵が矢を射出せしめたのだ。合計六千の兵による一斉射。
対するは、五千にも満たないグシオン連合国の兵士達。
もしかすれば、これで戦いは終焉するのではないのかとイグニスは思う。
だが――。
まるでその考えを否定するかのように、日を吸って煌めいた銀閃が愚直なまでに真っ直ぐに突き進む矢を上空へと弾き飛ばした。
「何だと!」
何か悪い夢でも見せられているのかと勘繰ったイグニスは二度、三度と瞬きをする。
だが、結果は変わらない。グシオン連合国の兵達は両手に握った剣を舞でもするかのように忙しなく輝かせて、矢の尽くを弾いてみせたのだ。
その瞬間に脳裏を掠めたのは、フィーメア神国の老将を討ち取ったという精鋭部隊の話だ。僅かな手勢で突撃の陣を揺らがす程の腕を持った兵士達。
その数は記憶が正しければ五千人だ。どうやらドレスティンは、開戦する前から件の五千人を突破させる事しか頭になかったらしい。
戦争は数だと誰しもが言うが、それは違う。如何に優れた策を相手にぶつける事が出来るかで、戦況は大きく揺らぐのだ。
「だとしても、抗わせてもらおう。最悪は我が剣で……貴様を!」
しかし、兵を率いる立場の者が諦めてはならない。
そう信じて疑わないイグニスは、ドレスティンの部隊が鶴翼の陣の中心へと傾れ込んだ瞬間に再び合図を送った。今度は自身の腰に吊った鞘から剣を抜き放つ事によって。
合図を受け取った兵達は、恐怖を顔中に張りつけたまま雄叫びを上げる。その様は眼前に迫る未知なるものへと必死に抗っているように見えて、どこか痛々しい。
それでも共に戦ってくれる事に感謝したイグニスは、亡きキルアを想って地を蹴る。
しかし、イグニスを含むフィーメア神国の兵達が希望を抱く事が出来たのはそこまでだった。単純にぶつかったグシオン連合国の兵が強力だったという事もある。
冗談だと思うかもしれないが、まさに大人と子供が戦っているかのような錯覚がする程に相手は精鋭揃いだったのだ。その精鋭を一人仕留めるためには、軽く十人は要する。
単純な計算が出来るならば、子供であっても勝ち負けは分かるだろう。
(挟撃すら出来んとはな……)
それだけでなく、さらにフィーメア神国を苦しめる存在がいた。
それは突如として、戦場を覆った漆黒の霧から生まれ出た存在。どれだけ鍛えた戦士であっても触れただけで生命を奪う事が出来る、恐怖の象徴とも言うべき氷雪種が戦いの音色に惹かれて戦場へと姿を現したのだ。
味方であった時は心強かったが、今はその逆で、イグニス達を人から氷という物体へと誘う死神にしか見えない。その死神は、雄叫びを上げる事で恐怖を振り切った右翼と左翼の進路を塞ぐように顕現して、丸太を思わせるような図太い腕を重たそうに持ち上げ、地へと振り下ろした。
重厚な鈍器を思わせる重い攻撃ではあったが、突如現れた敵に対応出来る筈もなく兵の尽くは甲冑を砕かれて、その身を彼らへと同化させていく。
後に鳴り響いたのは、どこまでも澄んだ音色。人の死とはあまりにも遠い涼やかな音色は、耳に痛い程に戦場へと響き続ける。その音の一つ一つが仲間の死だと思うと、戦う事に慣れたイグニスであっても身が震える思いだった。
ならば、他の兵はどうなのか。それは言うまでもなく、ただでさえ恐怖に囚われていた兵は、鳴り響く澄んだ音色を打ち消すかのような雑音という名の雄叫びを戦場へと奏でていた。
「無様だな、狂信者共。もう少し手応えがあるかと思っていたのだが」
そんなイグニス達を嘲笑うのは、この戦いを引き起こした人物。
今も着々と南下を続ける王ドレスティンだった。
もはや勝機はない。それはイグニスにもよく分かっていた。そして、今さら将である自身が背を向けた所で見逃してはくれないだろう。
「皆、シェリティアまで後退しろ! 殿は俺と中央の部隊だけでいい!」
ならば、今は希望を繋ぐべきだ。
こんな戦いにすらなっていない、ただの虐殺に近い戦場で戦う者など少数で構わない。浮かべた想いが伝わったのか、中央に位置した兵達は殿の任を全うするために同時に地を蹴った。向かう先が死地である事を知っていても、ただ一人でも多くの仲間が生きて共同戦をしている仲間と合流出来る事を祈って。
「すまない」
そんな彼らへと短い礼を述べたイグニスは、右手に握った剣の柄を強く握り締めて。
目標とすべき男へと向けて、駆け出していく。
歩数にして、約十歩。
すでに興味すら失いかけている王へと、イグニスは剣を振り下ろす。否、振り下ろす事は叶わなかった。
王へと迫る危険因子に素早く反応したグシオン連合国の精鋭達が、左右からイグニスの体を貫いたのだ。前方しか見ていなかった者が左右からの攻撃に反応する事は、当然不可能。
内側から生温かい血が溢れ出た事で、ようやく刺されたと理解したイグニスであったが、それでも握った剣は離さない。
「――ひれ伏せ、狂信者」
しかし、そんなイグニスを王は一撃の元に斬り捨てた。
視界が朱に染まる中で、脳裏に浮かんだのはキルアの想い。
この世界に生きる全ての人が居場所を手に入れる、その時まで我らの神を守って欲しい。それがキルアの願いで、自身が戦うべき理由だった。
だというのに、イグニスはここで朽ちる。また無様に負けて、守って欲しいと頼まれた人も守れずに。
「まだだ。俺は約束したのだから!」
確かに結ばれた約束は一方的なものだ。
それでも結んだ約束を違える訳にはいかないイグニスは血を吐きながらも、最後の力を右腕に込める。
――一閃。
鍛錬に鍛錬を重ねた戦士が夢見る完璧なまでの膂力に支えられた剣は朽ちゆく者の想いを乗せて駆け抜ける。次の瞬間に飛び散ったのは、イグニスの視界を埋めたものと同色の液体。
その生温かさを全身に感じたイグニスは、後を自身が恨んで恨み抜いた人物へと託して静かに瞳を閉ざしたのだった。




