後編 (六)
視界を覆い尽くしているのは深き闇。
まるで大地に差し込む日の光が失われてしまったかのように、世界は暗黒に包まれていた。当然ではあるが、夕刻を過ぎて夜が訪れた訳ではない。
突如として、一人の少年から闇を思わせる黒き霧が多量に噴出されたのである。
「最初から全力とはな。あちらにも氷雪種が出現しているのか?」
噴出した霧を何色にも染まらない瞳で捉えたカナデは、まずは現状を把握するために一人の少女へと視線を移す。
全てを知っている訳ではないのだろうが、同じように氷雪種を顕現させる事が出来る歌姫であれば何か知っていると思ったのだ。
「そう思う方が妥当だと思う。彼は自身を氷雪種の『総意者』と言った。私が出来る事は……ううん、私以上に力を使えるのだと考えた方がいいよ」
すると、予想通りに前回と同じように透き通った羽を背に生やした歌姫は即答してくれた。と言っても、得られた解答はカナデ達を歓喜させてくれるような内容ではない。
むしろ、イリスが総大将を務める混成軍には汚染者が少なすぎる。シュバルツの力を見くびる訳ではないが、彼一人では防ぎきれないのではないだろうか。
そうして思考を整理していると。
「……その通りだよ。ボクを止めないと、皆死ぬよ?」
まるで心を読んだかのように少年は語り掛けてきた。
いや、実際に心を読んだのだろう。歌姫が成せる事は全て出来るのならば簡単に予想出来る事だ。
「それなら止めればいいだけの事だ。クロエ、舞姫……準備はいいか?」
種が明らかならば驚くに値しないカナデは、上空を歌姫と一緒に飛んでいるクロエと、カナデの背を追いかけてくる甲冑姿の少女に声を掛ける。
「いつでもいいよ」
「心得た」
すると、ほぼ同時に二人の少女はカナデに応えてくれた。この場は騎士の経験があるカナデが彼女達を指揮する立場となっているらしい。
しかし、カナデ自身は指揮をする者としては不適格だと思っている。
なぜかと言えば――
「最初から全力で行く!」
人の背後に立って指示をするよりも、自分自身で武器を取って戦う方が性に合っているからだ。だが、そんなカナデを誰も責める事はしない。
それどころか今の今まで背後を疾走していた舞姫は、カナデの意思を肯定するかのように、セリエと名乗る少女の身から真紅の霧を噴出させていく。
外へと飛び出した赤き霧は一度様子を窺い。次の瞬間には、カナデの身へと溶け込んでいく。これで舞姫が身へと入り込むのは二回目となるが、さすがに慣れる事は出来ずに、頼りない両肩は一度身震いするが、その間に訪れた変化は終了していた。
とは言っても、ただ単に女性騎士が身に纏う事が多い軽装に身を包まれただけなのだが。しかし、それは外見の変化だけに過ぎない。前回は試す機会がなかったために分からなかったが、内に眠る力は格段に向上している事だろう。
(……解き放つがいい。お前の氷装具を)
内に溶け込んだ事で記憶と想いを共有している舞姫は、カナデが最も気にしている部分を正確に突く。説得するにも彼の刃を防ぐにも、まずは圧倒的な力が必要なのだ。
その力がどの程度であるのかを、カナデは知りたいと渇望していたのである。
「僕が援護するから――行って!」
前へと突き進むカナデの背を押してくれたのはクロエ。
前回と同じように歌姫の力を受け取った彼女は上空へと無数の銃口を形成して、豪快な音を奏でていく。しかし、奏でられたのは轟音だけではない。
まるで全てを洗い流す清流を思わせる歌声と、背を押すような力強い歌声が響き渡っていたのだ。
前者は戦場の中で聴いた覚えがある歌姫の歌声で。そして、後者はこの世界の言葉ではないように思うが、おそらく舞姫が憑代としていたセリエのものだろう。
ソプラノとアルト。二つ混ざり合い溶け合った歌声は『氷結の歌姫』の力を借りて、世界へと白銀色の粒子として顕現する。どんな原理であるのかは知らないが、人と人の想いを繋げる溜息が出る程に煌びやかな粒子に包まれた空間。これまた経験した事のあるカナデではあるが、数秒後に以前とは別物である事を理解する。
否、別物という表現は間違っているのかもしれない。正確に言うならば、新しい効果が追加されていたのだ。その最たる原因はセリエが奏でる歌だろう。
数秒前までは、まるで理解出来ない言葉ではあったが歌姫の力を借りて翻訳された言葉は、自然とカナデの心の中に沁み込んでいく。
(これは氷雪種の言葉なのだな)
それと共に知る。
霧が集まり形を成した獣が何を懇願しているのかを。
そして、氷雪種の総意者と名乗った彼が真に望む願いを知ったのだ。確かに総意者を名乗る少年は人類の敵となる事で世界をまとめようとしている。
だが、それは表側の願いでしかない。その奥底には初めて心を通わす事が出来た孤独な王と平和な世界を眺めたいと思っているのだ。そして、叶うならばグシオンの王だけでなく、数多の人々と心を通わせてみたいと願っている。
総意者が心に宿した願いの始まりが『氷結の歌姫』。そして、人と対話する事が叶わなかったからこそ、初期の彼女は氷雪種を使って同化する事で分かり合おうとしていたのだ。
『……そして、人に拒絶された結果として生まれたのが私か』
カナデの思考を読んで、心の中で呟いたのは血染めの舞姫。
もっと早くに人と氷雪種が分かり合えていたならば、おそらく舞姫は存在し得なかった。そう考えれば彼女の存在そのものが人の業の塊なのかもしれない。
だが、人が生み出してしまったものであるならば、人が決着を付ける必要がある。ただ相手を討つだけではなくて、対話をする事で共に歩める道を模索するべきだ。
そして、浮かんだ考えは自身が信じる人の考えと同じで。
「私の成すべき事は……イリスの願いは、やはり間違ってなどいない!」
総意者の願いを知ったカナデは友を信じて、真っ直ぐな言葉を少年へと送る。
「そうか。なら、ボクに伝えてよ。共に歩んで行けると思えるくらいの……温かな気持ちを」
すると、総意者は薄っすらと微笑んで、そっと両手を広げて見せた。
それが戦いの合図だった。
少年の左右に展開する氷雪種三千体は堰を切ったかのように、太い四肢を平原へと踏みしめたのだ。それだけでなく、少年から溢れ続ける霧は今もなお新たな氷雪種をこの世界へと顕現させていく。だが、こちらとて黙って見ている訳ではない。
宙へと千を超える銃口を形成しているクロエが、引き金に指をかけたのだ。突如として、鳴り響いたのは耳を劈くような轟音。
注意をしていなければ飛び跳ねてしまいそうな程の音は一瞬だけカナデの細い肩を震わせるが、駆ける両足は当然ながら止める事はしない。
内側から器を破壊する程に溢れ出る力を真紅の大鎌という形として顕現させたカナデは、自身でも驚くような速度で戦場を駆けていく。
彼我の距離は目測で三十メートル。
舞姫の力を受け取った今のカナデであれば、ものの数秒で間合いに入れる距離だ。
それでも、即座に彼の間合いへ入る事はしない。おそらく冷静な思考を働かせる事が出来る者であれば、八割方はカナデと同じ行動を取る事だろう。
それもその筈だ。相手は接近する事でしか攻撃する手段を持たないが、こちらはクロエという遠距離攻撃の手段がある。
消極的だと思われるのかもしれないが、可能な限り相手の数を減らしておくのは定石だろう。としても、相手は際限なく氷雪種を出現させるのだから、結局はカナデが懐に飛び込むしかないのだが。
――二射、三射。
千を超える銃口が氷雪種を元の霧へと戻した瞬間。
強い意志を漆黒の瞳に宿したカナデは、一度強く地面を蹴りつけた。目的は言うまでもなく、少年へと溢れ出る想いを伝えるためだ。
「なぜ人を信じられない!」
まず両の手を広げる少年へと大鎌を振り下ろすと共に届けた言葉はそれだった。
確かに人は未知なるものには有害、無害は別にして恐怖するものだ。それでも、何か一つでもきっかけがあれば分かり合える。
対等な立場で接するのは無理でも、遥か彼方まで開いていた距離を縮める事が出来るのも人なのだ。それをカナデはよく知っている。
イリスによって心に光を差し込んでもらえたカナデは、アリシアにセナおばさん。最初は明らかにカナデを拒絶していた騎士団、そしてシェリティアの住民にも受け入れられる事が出来た。
イリスの功績が大きい事は認めざるを得ないが、人と氷雪種が分かり合える日はそう遠くはないと思うのだ。それを証明するのが、カナデとアリシア。そして、クロエと歌姫の存在だろう。
「君の気持ちは極端過ぎる。人はそんなに簡単なものではないよ」
しかし、少年は薄っすらと微笑んで、カナデの気持ちを特例であると述べた。
数多ある事例の中で、たまたま上手くいった一例であると言いたいのだろう。確かにそれを否定する事は難しい。それでも繋がった気持ちを徐々に広げていけば不可能ではないと思う。
それでも彼はカナデを否定し、自身の役目を果たすために右手に形成した棍を振り上げた。女性としては小柄な部類に入るカナデではあるが、少年の身長とは大差はない。
ならば、勢いが乗った大鎌の一振りであれば有効だと思ったのだが、少年はどこにそんな力があるのか、ただ棍を振り上げただけで受け止めて見せた。
それだけでなく、新たに左手に顕現させた棍を右から左へと振るう。狙いは飛び込んでカナデの腹部だろう。平然と大鎌を防いでみせた相手の一振り。
直撃をすれば一撃で意識を失ってしまうだろう。
としても、カナデとて一振りで戦いが終わるとは思ってはいない。
当然に防がれる事を予想していたカナデは右手だけで大鎌を支えて、左手で腰に付いたホルダーからナイフを引き抜くと共に走らせる。
ナイフと棍が重なったのは、刹那にも満たない時間。
一度火花を散らした瞬間に、カナデは少年の放った横薙ぎの一閃の力を利用して左手側に飛ぶ。だが、悠長に着地をしている暇などはない。
「口だけではないんだね。さすがは舞姫の力を借りているだけはある」
カナデを弾き飛ばした少年が即座に追撃をしてきたからだ。
それもただの追撃ではない。歌姫が空を飛んだ際に生やした羽と同様の漆黒の翼を背に生やした少年は、瞬時にカナデの眼前へと移動して、両手に握った棍を振るったのだ。
――間に合わない。
瞬時にそう判断したが、内に存在する舞姫は対応策を用意してくれていた。
舞姫自身と言っても過言ではない真紅の霧を外へと噴出させた彼女は、即座に宙へと霧と同色の突撃槍を形成すると同時に射出したのだ。
「そうだ。二人だからこそ――抗える!」
一人では対応出来なくても、二人で力を合わせれば神を相手にしても抗える。
そんな当たり前だけれども、理解する事は難しい事を少年へと伝えるために自身の信じる刃を薙ぐように振るう。
紅く煌めいた刃が狙いを定める少年は、突如射出された突撃槍によって両手に握った棍を破壊され一時無防備な姿を晒す。それだけでなく、彼を追い詰めるかのように左右を数多の氷弾が覆い尽くしていた。
残る退路は上空か、それか後方にしか存在しないだろう。
「まだ足りないよ」
しかし、それはただの人である場合だ。
人を遥かに超えた存在。それも氷雪種の頂点に立っている総意者は、迫る大鎌を避けて見せた。説得が目的ではあるが、カナデは手を緩めたつもりはない。
それでも少年は人の姿から霧へと戻る事で避けて見せたのだ。そして、お返しとばかりに背後へと再び姿を現した少年は、左右の手に握られた棍を容赦なく振り下ろした。
カナデ自身は戦い慣れていると言っても、さすがに背後からの強襲に対応出来る訳もなく。胸部を覆う軽装に全てを破砕する棍が触れた瞬間に、カナデはようやく反応する事が出来た。
だが、それでは明らかに遅すぎる。咄嗟に振り向いて、大鎌を振るった所で総意者を捉える事は出来ないだろう。
幸いとして、棍が触れたのは軽装を纏った部分。隠しているつもりはないが、身に纏っている漆黒のローブが「目隠しとなった」と言えるのかもしれない。
(……落ち着け。手はある筈だ)
としても、背には焼き焦がされたような痛みが走る。
これ以上少年の一撃を受ければ、人の柔らかい器など容易に破壊されてしまう事だろう。
ならば、どうするか。
その答えは案外、単純で。
「舞姫。全方位に突撃槍を!」
心の中だけでやり取りは出来るが、薄れる意識を繋ぎ止めるためにカナデはあえて叫ぶ。
その効果は絶大で。今の今まで霞んでいた視界は瞬く間に鮮明となって、カナデの背を強襲した後に再び霧へと姿を変えた少年をしっかりと捉える事が出来た。
刹那の時に重なったのは二つの瞳。
何があっても諦めない強き意志が込められたカナデの瞳と、どこか余裕に満ちた少年の瞳だった。しかし、少年が余裕を保っていられたのは、そこまでだった。
カナデの意思を受け取った舞姫が、空へと突撃槍を形成したからだ。
次の瞬間、カナデの周囲を覆い尽くしたのは色鮮やかな真紅の豪雨。
しかし、ただの雨ではない。触れたものを例外なく貫き、地へと縫い付ける舞姫の刃が寸分の隙間もなく降り注ぎ、地を抉り取ったのだ。
これならば姿を消して、一つ瞬きをする間に接近出来る相手であっても近づく事は難しいだろう。しかし、この状況を長く続ける事が不可能である事はカナデも気づいている。
突撃槍を使用するという事は、それだけ舞姫とカナデの命を消耗させるという事だから。自身の命ならば迷わず使うが、さすがに他人の命が削られていく事を黙って見ている事はカナデには出来ない。
「君は優しいね。君のような人が世界を覆い尽くせば……こんな事をしなくてもいいのかもしれない」
カナデが心に浮かべた迷いを感じ取ったのか。
総意者は舞姫の存在すら心配出来るカナデを悲しそうな、それでいて寂しそうな瞳で見つめてきた。そんな彼の様子は年相応の少年のように見えてしまうのは気のせいだろうか。
『気のせいではないよ。私の力で伝えるから』
そう思った瞬間に、心に響いたのは歌を奏でる歌姫の言葉。
そして、彼女が述べた通りに奏でられた歌は、総意者たる少年の悲しみに満ちた気持ちを伝えてくれた。
カナデのように氷雪種という未知なる存在ですら気に掛ける事が出来る相手と戦う事を少年は悲しんでくれたのだ。と共に、そんな運命を歩まざるを得ない事を寂しく思ってくれたのである。
「もう一度……。いや、何度でも私は挑む。だから、道を開けてくれ」
ならば、何度でも想いを伝える事がカナデの役目だろう。
そう信じたカナデは、今もなお降り続ける豪雨を止めるように内なる存在へと声を掛ける。その瞬間に、平原を覆ったのは粉雪のように細かな真紅の煌めき。
地へと突き刺さった突撃槍が役目を終えて、霧となって霧散したのだ。その中を再び駆けるのは漆黒のローブに身を包んだ一人の少女。皆の想いを小さな体に詰め込んだカナデだった。




