後編 (五)
「陽動とはなぁ。やってくれる」
剣響が鳴り響く戦場で一つ悪態をついたのは、聖王国ルストの王シュバルツ。
どうも手応えがないと不審に思っていたのだが、案の定敵はこちらを誘き寄せるために新兵器をちらつかせていたのだ。
「だが、まだ甘いな。この場に五千を残していく! 他は西へと進路変更!」
しかし、シュバルツからすれば不審に思わせた時点で愚策だ。
小銃部隊の懐へと自身の汚染者の力を使って接近した時点で対応策を練っていた聖王国ルストの行動には迷いがなく。中央突破を図ろうとするグシオン連合国の側面を貫くために全力で駆ける。すぐ近くに小銃を構えている部隊がいるというのに、即座に切り替えた点は敵からすれば驚愕に値するのだろうが、シュバルツからすれば当然の行動だ。
ルストの騎士達を守る盾は王たる自身が用意するのだから。
「氷壁が砕けた後に突撃。俺は西に行くが……油断するなよ」
王を信じた臣下に応えるためにシュバルツは代償を支払って、即座に氷剣を投擲。
たちまちの内に地を凍らせ高らかな壁を形成せしめたシュバルツは、この場に残って露払いを行う部下へと指示を送る。
そんな王に応えた騎士は、一度身に纏う甲冑の胸部を叩く。それを合図としたシュバルツは敵の目的を砕くために西に向けて疾走する足を早めていく。
歩数にして、五歩。
疾走しながらも頃合いを見定めて、内なる力に合図を送る。すると、順々な力は主の願いを叶えて、小銃部隊とその場に残ったルストの騎士達を隔てていた壁を破壊せしめた。
しかし、シュバルツが把握する事が出来たのはここまでだ。
残してきた者達も心配ではあるが、今は眼前を横切ろうとする敵に意識を集中するべきだと思ったからだ。冷静に考えれば、たかだか一万の軍勢では城塞都市シェリティアを陥落させる事は難しいように思う。
だが、それは普通の将が率いている場合の話だ。ただの一度すらも敗北した事がない猛将ドレスティンが率いる部隊だと考えれば、油断は命取りとなるだろう。
「まぁ、やるだけか」
考えれば考える程に懸念事項が浮かんでくるが、シュバルツは一度思考を強制的に終了させる。
その最たる理由は、もはや考えても仕方がないからだ。すでにお互いの部隊が動き出している中で何か策を弄するのは難しい。
だが、シュバルツが考える事を放棄した理由はもう一つ存在する。部隊を率いる者にあるまじき行為に思えるのかもしれないが、すでにそんな細かい事を考えていられる余裕がないのだ。
小銃を防ぐために。また、シオンを救うために内なる力を解放してしまった代償が確実にシュバルツの体を蝕んでいるのだ。共同戦線を張る者達はすでに知っている事だが、シュバルツの代償は『渇き』。
世界に存在する物であれ、人であれ。例外なく物体を凍らせた瞬間にシュバルツの心は渇いてしまう。金銀財宝、異性に対する愛、はたまた生きるために必要な食欲、睡眠欲を満たす事。人それぞれ挙げればきりがない程に『渇き』を癒す方法があるだろう。
その数多の癒しの中で、シュバルツが選ぶ事が多いのは酒だ。酔う事で現実を忘れ、夢心地な気分を味わう事が多いだろうか。本来であれば、心から愛する女性と一夜を過ごす事が出来れば幸いなのだが、既婚者に手を出す程にシュバルツは腐ってはいない。
としても、ここは戦場だ。渇いた心を癒す程の酒は当然なく、あったとしてものんびりと飲んでいられる余裕はないだろう。ならば、どうするのか。
「悪いが……俺の憂さ晴らしに付き合ってもらおうか!」
答えは簡単だ。
倒さねばならない相手を切り刻む事で、内側に溜まった鬱憤を晴らすのである。父のように慕っていたアルフレッドが見れば落胆するのだろうが、シュバルツは彼のような騎士らしい騎士にはなれない。
だが、それでもいいのだとシュバルツは思う。
自身を王として信じてくれる者達がいて、その者達のために敵を討つ刃となれるのであれば、どんな醜悪な姿を見せてもいいのだ。
「――俺に続け!」
だからこそ、飢えた獣に成り下がったシュバルツは吠える。
戦場を駆け抜けた咆哮はグシオンの兵には未知の恐怖を。仲間であるルストの騎士達には突き進む勇気を与える。特に狙った訳ではないのだが、確かな効果を感じたシュバルツは両手に騎士の誇りたる長剣の柄を握り締める。
狙いはただ一人。
和平を望むイリフィリアに断固として反対し、自国の民が何者に対しても媚びへつらう事なく自由に暮らす事を望む男。他国から見ればあまりにも身勝手に思える道を突き進む男ではあるが、一国の王としてはどこまでも正しい。
ゆえに、シュバルツは彼を『悪』と断定する事は出来ない。だが、一度女王イリフィリアが和平の手を差し伸ばしたというのだから、こちら側に『義』があるように思う。戦争というものは勝ち負けが正義を決める行い。悪だの義などと語る意味はないのかもしれないが、自身に義があると思えば振るう剣に迷う事がないのも事実だ。
もはや突き進む事しか頭にはないシュバルツは、猛将とまで呼ばれた王ドレスティンのみを見て剣を煌めかせる。
一太刀は振り下ろす一閃を、二太刀は右から左に薙ぐような一閃を。
一秒の間もなく駆けた剣閃は、応戦するために東側へと振り向いた敵兵の甲冑を砕き、鮮血を宙へと舞わせる。だが、血を見た程度でシュバルツの渇きが潤う事はない。
そもそも人では成せない力を振るう事が出来るのだ。少ない刺激で潤うならば、利点の方が多すぎる。そんな都合がいい力であるならば、シュバルツはストレインと対立している時期に大陸を統一していた事だろう。
ありもしない夢を脳裏に浮かべたシュバルツは一時頬を吊り上げて、本能の赴くままに凶刃を輝かせる。背後など振り向く余裕はすでにないが、後方から自国の騎士達の耳にうるさい声が響き続ける所を思うと、自然と指揮官突撃の陣を。正確に言うならば、偃月の陣を形作っているらしい。
王の命なく陣を変更する事は危険ではあるのだが、シュバルツは臨機応変に有利な態勢を作った配下を誇りにすら思う。常日頃から教本通りにしか動けない、頭の固い臣下は聖王国ルストには不要だと思っているのだから、なおの事だ。
しかし、喜びに震えるシュバルツへと、突如として冷や水を浴びせるかのような野太い声が掛けられる。
「我が覇道を阻めると思うなよ、飢えた獣風情が!」
勢いに乗った王の勢いを止められる者。
それはすなわち自身と同じ『王という器』を持った者でしかありえないと判断したシュバルツは、導かれるように燃えるような赤い瞳を向ける。
声が届いた事を思えばすぐ近くにいるのかと思ったが、件の相手は総勢三百名の兵に取り囲まれながらも前進を続けていた。目測で距離は十メートル。
この場にいる全兵力を用いれば手が届く距離ではあるが、今もグシオンの兵達は激流を思わせる速度で南下を続けている。それも不気味な事に側面を見事なまでに突いたルストの軍勢が見えていないかのように、ひたすらに真っ直ぐ突き進んでいるのだ。
まるで意思なき人形か幽霊が横切ったかのような錯覚すら感じてしまう軍勢。
ドレスティンの一喝も確かに効果はあるのだろうが、平常な思考を働かせている者であれば両足が竦んでしまうのは無理からぬ事だろう。
だが、今のシュバルツは冷静さを欠いていると断定されてもいい程に平静さを喪失している。猛将ドレスティンが即座に『飢えた獣』と表現したのは、比喩などではなく実際にそう見えたのだろう。
としても、今は飢えた獣で十分だ。
未知なる恐怖に動けずに後悔するよりも、聖王国の名に恥じない王がここにいる事を証明したいのだ。
ゆえに、シュバルツは意思無き者達が群がる激流の中に一人先行する。
しかし、人外の力を扱えるとしても、ただの一人で人の荒波を突破出来る訳はない。同時に恐怖によって、突破力を失った軍勢の突撃では目に見えた効果が発揮されない事は兵法を知らぬ者でも分かる事だろう。
「ドレスティン!」
それでも、叫ぶ事で内側から力を湧き出したシュバルツは、進路を塞ぐ兵を体当たりするかのような勢いで吹き飛ばし、それでも阻む者は容赦なく斬り捨てて突き進む。
だが、そこまでだった。
「……付き合いきれんな」
どこか呆れたように呟いたドレスティンは、周囲を守っていた兵へと合図を送り。
まるで小物でも見るかのような瞳を一度向けたのを最後に、早足に決戦の場から遠ざかっていく。
当然、彼を追うために即座に地を蹴ったのだが。
ドレスティンの合図を受け取った護衛三百人が素早くシュバルツを囲う。
一人対三百人。誰がどう見ても勝ち目がない状況に思えるが、それは他に味方がいない場合の話だ。
「――王!」
数多の叫び声と甲冑が擦れる音が鳴り響く中で。誰のものとは分からない、自身を呼ぶ声が届く。どうやら、ようやく恐怖から立ち直った騎士達が追いついたらしい。
とは言っても、もはや目標に追いつく事は難しいだろう。
一つ舌打ちをしたシュバルツは、一度深呼吸をする事で荒ぶる心を落ち着かせて。
「ここで応戦する! これ以上は突破させるな」
今ここで必要な指示を騎士達へと送る。
それと共に自身が模範となるよう流水を止める堰のように、南下する事しか脳裏にない敵兵を斬り捨てていく。ドレスティンに『小物』扱いされた事は腹立たしいが、戦は勝利してこそ意味がある。
ここで聖王国ルストの兵がドレスティンの歩兵部隊を足止めし、シオンが率いる部隊が追いつけば甚大な被害を与える事が出来るだろう。
目測のために定かではないが、突破に成功したのは半数の約五千。フィーメア神国の一万と城塞都市シェリティアを防衛しているリシェス共和国の部隊を突破出来るだけの戦力はないと判断してもいいだろう。ならば、ここで一時は敗者となる事を甘んじて受け入れる事など容易い事だ。
そこまで冷静でいられるのは戦に負け、恋にも負けたが故だろう。これ以上負けたとしても、もはや耐性が付いている。
そう割り切って、ただ眼前に迫る敵兵を淡々と斬り捨てた瞬間。
突如として、周囲の空気がざわついたような違和感にシュバルツは身震いする。大の男が身震いする程の違和感。その正体は、自身の体に刻み込まれた拭いきれない恐怖だった。
「……あの霧は? 黒いだと?」
恐怖に囚われたシュバルツは、ここが戦場である事も忘れて背後を振り向く。
すると、そこにあったのは数十メートル離れた地点さえ霞ませる細かな霧だった。それも不思議な事に漆黒の霧であったのだ。極寒の大陸である、ここカルティシオン大陸では真っ白な霧が大地を覆う事は多い。
しかし、今まで生きてきた中で漆黒の霧などは当然見た事はない。その不気味さは、どこかの作者が描いた読み物に出てくるような、化け物の体から溢れる『瘴気』のようだった。いや、もしかすれば瘴気と呼んでもいいのかもしれない。
触れた物を凍らせ、生き残ったとしても彼らと同等の存在へと変えられてしまう呪いの霧。氷結の歌姫と女王イリフィリアのおかげで、だいぶ恐怖が薄れてきたように思うが、この霧の禍々しさは別格だ。
それを証明するかのように。南下するドレスティンの部隊を援護するかのように地へと顕現した黒き氷鱗を纏いし獣は、進路を塞ぐフィーメア神国の兵へと牙を向ける。
ただの人であれば対応する術もあったのだろうが、敵は氷雪種。一万程度の軍勢で止められる訳はない。
そこまで、突如出現した霧に視線を釘付けにされていたシュバルツであったが。
「――シュバルツ王!」
これまた突然に、聞き慣れた声が名を呼んだ。
だが、この呼び方はただ呼んだだけではないだろう。叫ばずにはいられないような緊急を要する事が自身の身へと振りかかっているに違いない。
実際にその通りであったらしく。
慌てて振り向いた瞬間に、眼前で剣と剣がぶつかる事で火花が散っていた。溢れた火花は着々とシュバルツの頬を焼いていくが、その程度では表情は歪ませない。
「世話になったな、シオン」
左手側から割り込むようにして、敵国の剣を防いだらしい元聖王国ルストの将軍に礼を述べたシュバルツは、残忍な殺人者のような笑みを張り付けて、手にした剣を真っ直ぐに突き出す。
「いえ、先ほどは助かりました」
さすがと言うべきか。彼の背を貫くような一突きを、まるで背後に目があるかのように適した時機で右側へと飛んで避けたシオンは、礼を礼で返す。
相変わらずに律儀な男だと内心で思いながらも、突き出した剣は緩めないシュバルツ。当然、敵国の兵が突如出現した長剣に表情を青ざめても止める事はない。
「こいつらを片づけて……救援に向かう。付いて来い」
それ所か合流出来た事を『運が良い』と捉えたシュバルツは、その身に生暖かい鮮血を浴びながら指示を送る。すでに彼は聖王国ルストの騎士ではないのだが、元は仲間であり、同じ人の剣を見ていた時期がある間柄だ。
極自然と口から命令が飛び出してしまったのである。
「こんな私でよろしいのなら」
しかし、命を受けたシオンは剣の柄を握り直しながらも、口元を緩ませた。どうやら不快には思っておらず、逆に望郷の念を抱いているらしい。
自分で勝手に出ていきながら懐かしがるとは。どこまでも我が儘な奴だと思うが、自身が統べる国を想ってくれた事は素直に嬉しくて。
「今はお前が必要だ」
控え目な声に恥ずかしさを多分に含ませながらも、真っ直ぐな気持ちを彼へと届けたのだった。




