プロローグ
プロローグ
白銀の世界。
平原一帯を覆ってしまうのではないかと錯覚するほどに、世界は白銀の輝きによって満たされていた。
輝きの正体は、月明かりを吸って煌めく雪ではない。
正体は三千を超える甲冑を纏いし騎士が地を蹴り、駆ける度に舞い上がる花弁。
まるで生命を失ったかのように本来の鮮やかな色を失い、水晶のように透けてしまった花弁。心を閉ざしたかのように固く、固く凍りついてしまった花弁だった。
絶望の花、または氷結花と呼ばれる花である。まるで世界から切り離されたような幻想的な世界。しかし、ここは夢幻の世界ではない。
ただの戦場。人が人を殺すだけの場所だ。そんな人の罪の全てが集約した悲しい場所で。
(氷結花か。やはりいるのか?)
一人主要部位のみを防護した軽装姿の少女、カナデが心中で呟く。
記憶を辿ると数日前、ここシグド平原に来た時は白く可憐な花が咲いていた筈だ。しかし、今は命を失い氷結花と成り果てている。
つまりは花を変えてしまった存在がこの場にいるという事。現在戦争をしているグシオン連合国よりも忌むべき、恐れるべき相手が。今、この場所に。
その事実がカナデの心を引き締める。震える心は全身へと伝わり、カナデは両刃の騎士剣の柄を強く握り締める。いつ忌むべき相手が出現してもいいようにと。
「カナデ! 正面!」
鋭い漆黒の瞳を前方に向けたのと、背に声が届いたのは同時だった。正面から何が来たのかはいちいち確認せずとも分かる。
本来戦うべき相手である敵国の騎士との距離は、目測で三百メートル。目視は可能だが実際に剣を交える距離ではない。ならば対峙すべきは予想した相手であるだろう。
浮かんだ仮説を確かめるために、カナデは注意深く地を覆い尽くす氷結花に視線を移す。
すると。
鼓膜を震わせたのは氷が砕けるような乾いた音色だった。身の危険さえなければ心が洗われるような涼やかな心地良い音色。しかし、今はこの清浄なる音色は警告を知らせる合図だ。
「各員、応戦せよ! 陣は鶴翼の陣を維持。聖王国の騎士が来るまで耐えよ!」
危険を知らせる音を捉えて即座に指示を出したのは指揮官である男だった。
――指示が戦場を駆け抜けた瞬間。
上がったのは騎士達の叫び声。戦いの恐怖を、揺るがぬ意志へと変えるための騎士達の咆哮だった。以後の騎士達の動きは当然訓練通りである。素早く騎士剣を鞘へと戻し、腰に固定されているボウガンを引き抜く。
狙いは氷結花を踏み砕いて駆ける無数の獣。
身を氷の鱗で覆い尽くす狼に似た獣である。正確な数は不明だが、ざっと八百体はいるだろうか。両翼を前方に張り出しV字型の陣を組む鶴翼の陣に対して、氷鱗を纏いし獣は隊列も組まずに無謀にも陣の中央に向けて突撃してくる。
これが兵士対兵士の戦いであれば楽に殲滅出来た事だろう。ボウガンから射出される矢で着実に数を減らし、機を見て両翼を閉じる事で挟撃すれば終わりだからだ。
しかし、それは化け物との戦いでは当てはまらない。
獣は幾重にも放たれる矢を身軽な四肢で軽やかに避け、仮に射出された矢が直撃したとしても強固な氷鱗が弾き返してしまうのだから。効力は目に見えて低い、そう言わざるを得ない事は一目見れば分かってしまう。
(これが……氷雪種)
陣の中央に位置し、皆と共に矢を射出していたカナデは心中で呟く。
気づいた時には頬には嫌な汗が流れていたが、汗を拭う暇は当然なく、カナデはボウガンを再び腰に固定する。
――化け物との距離はすでに五十メートル。
ボウガンで応戦可能な距離ではすでにないのだ。むしろ効力がないと分かった武器をいつまでも構えている意味はない。
「両翼は前進! 中央の部隊で氷雪種と応戦!」
次の指令が再び部隊へと伝わる。
両翼を閉じて氷雪種と戦えば、前方から迫る本命とは無陣形で戦う事となってしまう。それを恐れての陣形変更だろう。
(この数で? こんな化け物と?)
一度舌打ちをしたカナデは地を駆ける氷雪種に鋭い視線を走らせる。しかし、獣は向けられる殺気に怯むことなくただ獲物を求めて、一斉に飛び上がった。
当然、隊の一員であるカナデにも一体の氷雪種が鋭利な爪を煌めかせる。獣の狙いは頭部。受ければもちろん即死だ。どんな防具をつけていようが、この化け物には何の効果もないのだから。しかし、ただ単純に爪を振り下ろす程度の単純な攻撃が、この場にいる者に触れる事はない。
それを証明するかのようにカナデは獣の爪よりも速く、他の氷雪種が動くよりも速く、手にした騎士剣を横薙ぎに走らせる。
一度、固い音が鳴り響く。手に伝わったのは確かな振動。
煌めいた銀閃が氷雪種の頭部を切り裂いたのだ。
(やった……のか?)
カナデは心中で問う。
問うた理由は、まるで手応えがないからである。剣が鱗を砕き、食い込んだ感触は確かにあった。しかし、明らかに威力が足らずに刃は途中で止まった筈なのだ。
それにも関わらず横薙ぎに走った剣は氷雪種の体を通過している。まるで幻でも斬ったかのように。
「離れろ!」
自身の成した事に自信も手応えもなく固まるカナデ。そんな彼女に向けられたのは鋭い一声だった。声を背に受け取ったカナデは、訳の分からぬまま後方に跳躍するために両足に力を込める。
しかし、それはあまりにも遅すぎた。すでに眼前の敵は、その体を粉雪のような真っ白な霧へと姿を変え、四方へと霧散していたからだ。
退避が間に合わなかったカナデは、一呼吸する間もなく真っ白な世界に包まれる。即座に全身を襲ったのは、見た目通り雪に全身を埋めたかのような寒さ。そして、自身がどうなってしまうのかという恐怖だった。
「カナデ!」
突如、雪のような霧に包まれたカナデを捉えた騎士の一人が叫び声を上げると共に一歩、二歩と近づいてくる。
姿は見えずとも足音でだいたいの位置を把握したカナデは――
「来ては駄目だ!」
鋭い一声を上げる。仲間を巻き添えにする訳にはいかないのだから。
カナデの声で一瞬でも躊躇してくれるのであれば全ては終わる。地に咲いている氷結花と同じ姿となる事で。
死ぬ事は恐い。だが、他の者を巻き込んでしまう事は耐えられなかった。ならば自身の失敗を胸に抱いて死ぬ方がいい、そうカナデは思ったのだ。
しかし、終わりはいつまで経っても訪れはしなかった。カナデと同じような末路に至ったらしい、騎士の断末魔のような叫び声が届いているというのに。
あの異形の獣に触れれば、皆例外なく氷の結晶へと姿を変える筈だというのにだ。
(なぜだ?)
気づいた時には、視界を塞ぐ雪のような白き霧は晴れていた。
変わらず広がるのは氷結花が広がる平原。しかし、雪原に立ち尽くす自身は何も変わってはいなかった。
「皆は!」
数瞬呆気に取られていたカナデであったが、すぐさま騎士の誇りたる剣を強く握り締めると共に、視線を左右へと向ける。
だが、差し向けた視線は数瞬の内に固く閉ざされる。平原を埋め尽くしていたのが二百、三百を超える結晶化された騎士だったからだ。彼らが生きているかどうかなど確認せずとも分かる。彼らはもう人ではなく、氷という物体へと変質しているのだから。
(聞こえる)
瞳は固く閉ざしたが、今も世界の終わりを見たかのような絶叫はずっと鼓膜を震わせ続ける。正確な数は分からないが、今も一人、また一人と犠牲者が増えているのだろう。
「くそっ!」
叫ぶ事で臆する心を追い出したカナデは、閉じた漆黒の瞳を見開く。そして、次の瞬間には振り返り、地面を蹴っていた。咄嗟の動きには理性などというものはない。ただ成せると思う事を実行するためだけに地を蹴ったのである。
理由は分からないが自身は無事だったのだから。まだ戦えるというのであれば、この場で立ち止まっている訳にはいかないのである。
――祖国のためにも、今も苦しむ仲間のためにも。
浮かんだ想いは、まるで背を押してくれるかのように全身へと伝わっていく。内から溢れる力を確かに感じたカナデは平原を駆ける。
地を覆い尽くす氷結花を踏みしめて、道を防ぐ氷雪種を切り裂いて、なお前へ。
ただ成せる事を成すために。結果はカナデが思うよりも早く訪れる。
「助けて……くれ」
突き進むカナデを見た一人の騎士が救いの手を差し伸ばしてきたからだ。
(両足が……すでに)
助けを求めた騎士はすでに両足が結晶となっており、自身で結晶化の激しい両足を切断する事も、身動きを取る事も不可能に見える。だが、幸いと言っていいのか分からないが、結晶となる速度は個人差があるらしく、彼は割合進行が緩やかであるように見えた。
「大丈夫か!」
気が急いているのか、漏れ出た言葉はありふれた言葉だった。しかし、想いは届いたのか騎士は一瞬だけ表情を緩める。
(どうすればいい?)
カナデは思考を走らせる。
自身は無事ではあったが、救う方法など全く分からないのだ。結晶化が進んだ両足を切断すれば助かるのだろうか。それともただ黙って見ている他にないのか。
(――違う)
カナデは浮かんだ否定的な感情を振り切って、苦しむ彼へと手を差し伸ばす。自身に起こった奇跡を何かいい方向に活かせるかもしれないからだ。それはある種の賭けだった。
しかし、触れた瞬間に上がったのは苦しみに満ちた絶叫。頬へとこびりついたのは生温かい鮮血だった。
触れた騎士は症状が止まる所か、さらに結晶化が加速してしまったのである。まるで新たに氷雪種に触れてしまったかのように。
カナデは目の前起こった事を信じる事は出来なかった。そして、自身が彼を追い詰めてしまった事に恐怖し、一歩後ずさる。
その間にも目の前の彼は、結晶へとその姿を変えていく。カナデをまるで化け物でも見るかのような恐怖に満ちた瞳で見つめながら。
「どうして? そんな……私は」
さらに一歩、カナデは後ずさる。眼前に広がる恐怖から逃れるかのように。
そんなカナデを追い詰めたのは、空へと向けて放たれた叫び声だった。