闇が開いた瞬間
二つの世界の狭間で、僕は自分を作り直した。
生きたいのか、
それとも――消えてしまいたいのか。
答えが分からないまま、
十五歳の少年は今日も息をしている。
壊れてしまった心。
戻らない時間。
言葉にできなかった想い。
これは、
「救われる物語」ではない。
「強くなる物語」でもない。
ただ――
失って、傷ついて、
それでも前に進もうとする
ひとりの少年の記録だ。
もし、
この物語のどこかで
あなた自身の影を見つけたなら。
それは、
決して偶然ではないのかもしれない。
二つの世界の狭間で、僕は自分を作り直した
夜11時。日本。
高層ビルの屋上に、一人の十五歳の高校生が立っていた。
冷たい夜風が彼の頬をかすめる。しかし、彼はそれを感じていないかのようだった。呼吸は乱れ、指先はわずかに震えている。
眼下には、何事もないかのように街の灯りが静かに広がっていた。
彼は下を見つめる。
あと一歩踏み出せば、すべてが終わる。
――そう、自分に言い聞かせていた。
心臓の鼓動が耳の奥で大きく響く。
体がわずかに前へ傾く――
だが、止まった。
足が動かない。
落ちる前に、勇気のほうが先に崩れ落ちた。
彼はゆっくりと、その場にしゃがみ込む。
そして――
泣き出した。
静かな涙ではない。
優しい涙でもない。
ずっと胸の奥に押し込めてきた感情が、限界を迎えてあふれ出したような涙だった。
涙は止まらない。
拭っても、拭っても、次から次へとこぼれ落ちる。
青山レイ
レイは拳でコンクリートを叩いた。
「今日も……できなかった。」
途切れ途切れの呼吸の中で、声が震える。
「生きたくない……でも、死にたくもない。」
髪を強く握りしめる。
「どっちも選べない。そんな勇気すら……ないんだ。」
言葉は空しく、夜に溶けていく。
「僕は……どうすればいいんだよ。」
そして――
意識は、過去へと流れていった。
五年前
淡い桜の花びらが、春の風に乗って舞っていた。
十歳のレイは、その木の下で、何の不安もなく笑っていた。
隣には、橘ミオがいる。
彼女は少し恥ずかしそうにレイを見つめた。
「レイって……ほんとに可愛いよね。」
小さく、でもまっすぐな声だった。
「高校生になったら……私の彼氏になってくれる?」
レイは目をぱちぱちと瞬かせる。
「え? なんでそんなこと言うんだよ。」
ミオは頬をふくらませた。
「本気だもん!」
レイは頭の後ろをかきながら笑う。
「じゃあさ、大人になってもずっと親友でいような。でさ……その時になったら、彼氏にもなってやるよ。」
二人は声を上げて笑った。
あの頃の世界は、ただ単純だった。
安全で。
あたたかかった。
病気
それは、その年に始まった。
レイは鏡の前に立ち、自分の姿を見つめる。
「なんで……太っていくんだ? そんなに食べてないし、毎日運動もしてる。ダイエットだってしてるのに……どうして。」
病院で、医師は静かに告げた。
「レイくん、これは君のせいじゃない。クッシング症候群です。」
母の体がこわばる。
「どういうことですか? この子は……治りますよね?」
医師は眼鏡を直した。
「この病気は、体内でコルチゾールが過剰に分泌される状態です。そのため、急激に体重が増加します。食事制限や運動だけでは、ほとんど効果がありません。今後数年で、体型は大きく変わるでしょう。首の後ろが腫れ上がる――いわゆる“バッファローハンプ”が現れる可能性もあります。」
母の手が震えた。
「治療法は……あるんですか?」
「手術という選択肢はあります。しかし非常に高額で、日本でもどこでも受けられるわけではありません。」
母は静かに目を伏せた。
何年お金を貯めても……私たちのような家庭には、きっと無理だ。
現在
レイは袖で乱暴に涙を拭った。
「ずっと……普通だったんだ。友達もいた。みんな、僕のことを好きでいてくれた。」
声がかすれる。
「でも……全部、変わった。」
視線。
ひそひそ話。
悪意を含んだ笑い声。
少しずつ広がっていく距離。
レイは静かに立ち上がり、エレベーターへと向かう。
「死なない。」
小さく呟く。
「何があっても……僕は死なない。」
一時間後
レイは家のドアを静かに開け、鍵をかけた。
夕食の匂いが部屋に広がっている。
母はキッチンに立っていた。
彼は鞄を置き、ソファに腰を下ろして、ゆっくりと息を吐く。
「レイ、起きなさい。」
母が優しく肩に触れる。
「ご飯を食べなさい。」
レイは目をこすった。
「母さん……なに?」
「寝る前に、ちゃんと食べなさい。」
“食べる”という言葉が、胸に突き刺さる。
何かが、ぷつりと切れた。
「なんでいつも食べる話ばっかりなんだよ!」レイは叫んだ。「一食抜いたくらいで死なない! 食べなくても、僕は死なない!」
涙が再びあふれる。
「もう十分太ってるのに……それでも食べろって言うのかよ……。」
声は完全に崩れた。
母が何か言う前に、レイは自分の部屋へ駆け込み、ドアに鍵をかけた。
背中を預け、必死に声を殺そうとする。
静かに泣こうとした。
本当に、そうしようとした。
でも――
溢れ出す悲しみは止められない。
嗚咽は次第に大きくなり、
止まらなくなった。
ドアの外で、母はただ立ち尽くしていた。
黙って、聞きながら。
その目からも、音もなく涙がこぼれる。
時に――
この世界でいちばん辛いことは、
我が子の泣き声を聞きながら、
何もしてやれないことなのかもしれない。
翌日
翌朝、レイはいつもより早く目を覚ました。
母親に朝食を呼ばれる前に、家を出る。
最近、自分への嫌悪は日に日に強くなっていた。
早く家を出れば、朝ごはんを食べなくて済む。
食べなければ、これ以上太らないかもしれない。
それが、今の彼にとって唯一「自分で選べること」だった。
青山レイ
星林台高校 一年C組
レイは静かに教室へ入り、窓際の一番後ろの席に腰を下ろした。
授業が始まる。
時間はゆっくりと過ぎていく。
教師の声が教室に響く中、レイの視線は自然と橘ミオへ向かっていた。
そして、また――
記憶が過去へと引き戻される。
過去
「あのさ、セリア。席、交換してくれない?」
ある日のこと、ミオがそう言った。
「レイの隣に座りたいの。」
セリアは微笑んだ。
「いいよ、交換しよっか。」
レイは戸惑ったように聞いた。
「なんでだよ?」
ミオは少し身を乗り出し、彼の耳元でささやいた。
「だって、このクラスで私の友達はレイだけだもん。レイは私の一番の親友だよ。」
そして、くすっと笑う。
「それに、十五歳になったら……私の彼氏になってくれるんでしょ?」
その声は無邪気で、子どもらしい願いに満ちていた。
レイは苦笑する。
「十歳の頃からそんなこと考えてるのかよ。俺たちはただの親友だろ。」
記憶が切り替わる。
高校の入学初日。
「ミオ、今年は隣の席だな。」
レイの胸に、小さな喜びが芽生えていた。
だが、ミオは申し訳なさそうに微笑む。
「ごめんね、レイ。今年はソウマの隣に座るって約束したの。勉強、手伝ってあげるって。」
その名前を聞いた瞬間、レイは一瞬だけ言葉を失った。
一条ソウマ。
だが、何も言わなかった。
いつも、何も言えなかった。
現在 ― 教室
レイは教室の後ろで、静かに二人を見つめていた。
ミオとソウマは楽しそうに話している。
笑い合い、自然な距離で。
レイの胸の奥で、黒い感情が広がる。
――一条ソウマ。
この世界で、いちばん嫌いな人間だ。
五年生の頃から、ソウマはレイに絡んできた。
喧嘩を売り、教師に嘘の告げ口をし。
八年生のとき、病気のせいで体型が変わり始めたレイを、最初にからかったのもソウマだった。
最初に笑ったのも。
最初にあだ名をつけたのも。
あの喧嘩のあと、ミオは「もうソウマとは話さない」と言ってくれた。
それなのに――
今、二人は楽しそうに笑っている。
それでも、レイは分かっていた。
ミオは一度も自分を馬鹿にしたことはない。
傷つけたことも、からかったこともない。
けれど、彼女は知っているはずだ。
最初に自分を傷つけたのがソウマだったことを。
そして高校に入ってから、ソウマの嫌がらせはさらにひどくなっていたことも。
昼休み
チャイムが鳴る。
昼休み。
レイは静かに立ち上がった。
今は、ひとりで食べることがほとんどだ。
かつては他にも友達がいた。
だが、少しずつ離れていった。
隣にいることが面倒になると、人は簡単に離れていく。
それでも――
心のどこかに、小さな救いがあった。
ミオだけは、今も時々話しかけてくれる。
たまに、一緒に昼食を取ることもある。
それだけで、十分だと思おうとしていた。
レイはいつものように、屋上へ向かった。
階段を上がっていくと、声が聞こえた。
「ミオ……だめだよ。誰かに見られたらどうするの。ここ学校だよ。」
ミオの声だった。
続いて、余裕のある声が響く。
「なんで? 彼女にキスしちゃいけないのかよ。お前は俺の彼女だろ。」
レイの足が止まる。
ソウマはさらに言う。
「言ってほしければ、今日にでも友達に言うぞ。俺たち、正式に付き合ってるって。」
レイは動かなかった。
屋上へ出ることもできず、階段の陰に立ち尽くす。
ただ、見ていた。
ミオとソウマは、すぐ近くで向かい合っている。
小さく笑い合いながら。
レイの顔に表情はなかった。
怒りも。
驚きも。
何も。
ただ――
涙だけが、静かに頬を伝っていく。
一滴。
また一滴。
拭うこともせず、ただ立ち尽くす。
胸の奥で、
何かが、
静かに壊れていった。
レイは俯いたまま、突然走り出した。
涙はまだ止まらない。
走りながら、次から次へとこぼれ落ち、視界を滲ませていく。
――大丈夫。大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせる。
落ち着け。
一度も顔を上げることなく、レイは校門を飛び出した。
周囲の人々が足を止め、彼を見つめる。
「どうしたんだ?」
「なんでレイ、あんなに必死で走ってるんだ?」
その声は、ほとんど彼の耳には届かなかった。
レイは走り続ける。
学校を出て、通りへ。
それでも、顔を上げることはなかった。
――大丈夫だ。
ミオは、俺に「好き」だなんて言ってない。
あれはきっと、子どもの頃の冗談だった。
ただからかっていただけ。
最初から、俺たちはずっと「仲のいい友達」だったんだ。
祝福してやるべきだ。
親友が、想ってくれる相手を見つけたんだから。
俺たちの間に、本当に何かあったのか?
たぶん、ただの友情だ。
期待しすぎていたのは、俺のほうだったのかもしれない。
勝手に、先のことまで考えてしまっていただけだ。
それに、ソウマは――
俺より、ずっと優れている。
裕福な家の出だ。
誰からも好かれている。
俺以外には、誰にでも優しい。
きっと、ミオを大切にしてくれる。
だから、俺は喜ぶべきなんだ。
なのに――
どうして涙が止まらない?
どうして、こんなにも必死に走っている?
ミオは、ただの友達だったはずだ。
大切な友達。
いつも俺のそばにいてくれた人。
病気のことで、一度も俺を笑ったことのない人。
――ふと、記憶が蘇る。
初めて、病気のことをミオに打ち明けた日のこと。
「……怖いんだ」
あの時、俺はそう言った。
ミオは、優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ、レイ。私はいつも一緒にいる。何があっても、私たちは友達だよ。私は、ずっとレイの味方だから」
レイは、はっとして現実に戻る。
まだ、走っていた。
気づかないうちに、細い路地へ入り込んでいた。
――いつの間に、こんなところまで……?
自分でも分からなかった。
その時――
世界が、変わった。
昼間だというのに、路地は突然、闇に飲み込まれる。
あまりにも深く、あまりにも濃い闇。
レイは、自分の姿以外、何も見えなくなった。
風が唸りを上げ、嵐のように吹き荒れる。
砂埃が容赦なく目に飛び込んでくる。
レイは片膝をつき、地面に手を押し付けた。
吹き飛ばされないよう、必死に踏ん張る。
その瞬間――
地面が、ひび割れた。
そして――
すぐ傍に、それは現れた。
現実を引き裂いたかのような、黒く歪んだ“穴”。
中心は完全な闇。
その縁を、青と赤の光が不気味に揺らめいている。
レイは、恐怖に凍りついたまま、それを見つめた。
「……嘘だろ……」
「こんなの、現実なわけがない……」
「これは……ブラックホール……?」
空気が、ねじれる。
穴が、引き始めた。
優しくなんかない。
圧倒的な力で。
「やめろ――!」
レイは抵抗する。
指を地面に食い込ませ、必死に耐える。
だが――無駄だった。
引力は、さらに強くなる。
強く。
逃げ場はない。
「こんなの……ありえない――!」
その叫びは、風の中にかき消された。
そして――
意志とは関係なく、
レイの身体は、闇の中へと引きずり込まれていった。
この章を読んでくださり、ありがとうございます。
レイの物語を書くことは、とても挑戦的でありながら、心温まる経験でもありました。
彼は悩み、泣き、しかし同時に成長していきます――そして、その旅が皆さんの心にも届くことを願っています。
一つ一つの章が、レイの世界への一歩です。皆さんの応援が、ページの中で彼を生かし続けています。
どうかこれからも彼の歩みを見守ってください。もしかしたら、皆さん自身の小さな勇気も見つかるかもしれません。
次の章まで、
— 著者 バブニ・パトラ




