80話 港町男性達と怒りの女性連合
イベル港町、宿屋《子豚亭》。
豚肉料理がうまい。良い宿だ。
朝食を食べ終え、皿は空。胃も満足。――弟子三人の心は、まったく満足していなかった。
違いのわかる剣聖レイは、答えをフリーズドライした。
(考えるな。今は考えるな。朝の件は保存。乾燥。密閉。棚の上)
目の前には、イベル産の酸味の強いコーヒー。剣聖特性ブレンド。
鼻に抜ける爽やかさが、脳を冷やす。精神安定。そう、精神安定のはず――
その隣で。
アクアが、何故か、当然のように、レイの隣に座っていた。
そして。
手が、そっと伸びる。
レイの指先に、アクアの指が絡む。
恋人握り。丁寧なやつ。逃げ道の少ないやつ。
「――っ」
レイは硬直した。剣聖の反射神経が、平常時なら雷鳴斬を放っていたはずなのに、今は指一本動かない。
視線だけで助けを求めると――
クリームのジト目が、そこにあった。
温度が、二十度くらい下がった。
「師匠」
声が優しい。優しいからこそ、怖い。
「……説明を」
「修行だ」
即答。
レイはアクアの手から、そっと、そっと、そっと指を抜いた。
抜きながら、内心で叫んだ。
(やばい! やばい! 俺、今、人生の分岐点に立ってる!)
マイが、口角だけ上げる。
「修行って、握力鍛えるやつですか?」
「違う。禁欲の修行だ」
アーモンドが真面目に追い打ちする。
「師匠。禁欲は、手から始めるんですね」
「始めてない!」
アクアは表情を変えず、レイの横顔を見たまま言った。
「逃げた」
「逃げてない。調整した」
「……弱い」
レイはコーヒーを飲んだ。酸味が喉を通って、胃に落ちる。
精神安定。今こそ精神安定。
「今日は次の修行兼依頼の話をする」
レイは、机に依頼書を並べた。
紙の束が、運命の束に見える。
「まず――イベル港町」
レイは、いちばん上の紙を指でトントンと叩く。
「ここだな。色町サキュバスのお姉さん討伐」
空気が凍った。
凍った空気を、女性四人が同時に粉砕した。
「却下!!」
四重奏の却下が、宿の壁を揺らした。
クリームが机を指先で、コン、と叩く。
「師匠。言葉の選び方が不潔です」
「討伐だぞ!? 魔物だぞ!? 治安案件だぞ!?」
マイが冷静に言う。
「“色町”って言わなくても治安案件は成立します」
「“お姉さん”も要りません」
アーモンドが頷く。
「敵性個体は“淫魔族”で十分です」
アクアが、短く。
「不潔」
「不潔はやめろ! 刺さる!」
レイは咳払いして、二枚目の紙を出した。
「……港町緊急クエストだ。ほら、依頼主が――」
指で、署名欄をなぞる。
「港町男性達と、怒りの女性連合」
弟子三人の表情が、ほんの少しだけ変わった。
アクアも、瞳の奥が僅かに鋭くなる。
クリームが確認する。
「女性連合も依頼してるんですね?」
「そう! 女の人も困ってる!」
レイは一気に畳みかける。
「男どもは“戻ってこない”とか“財布がない”とか“記憶が甘い匂いで溶けた”とか言ってる」
「終わってますね」
「終わってるな」
「終わってます」
三連の断罪が決まった。
レイは素早く軌道修正する。
「女性連合の方は“夜に家に帰らない”“港の仕事が回らない”“子供が泣く”“女将が怒髪天”だ」
マイが頷いた。
「生活被害、ガチ」
アーモンドも頷く。
「港が止まる。放置不可です」
クリームが結論を置く。
「だから、調査は必要。でも、師匠の“潜入”は不要です」
レイは、ここで勝負に出た。
口元だけ、きりっとする。
「……ここは師匠が潜入捜査をだな――」
「却下」
即死。
レイはなお粘る。
「いや待て! 潜入と言っても、俺は剣聖だ。やることは簡単だ。客として入って、魅了の正体を掴んで――」
クリームの笑顔が、怖い方に切り替わった。
「師匠。“客として入る”がアウトです」
マイが追撃する。
「しかも師匠、昨日色町の道をふらふらしてませんでした?」
「歩いただけだ!」
「その“だけ”が積み重なって、家庭が溶けるんですよ」
アーモンドが真面目に刺す。
「ニベア様に届きます」
レイの背筋が凍った。
コーヒーの酸味が、急に刃物みたいに鋭くなる。
(やめろ。その名前はやめろ。俺の精神安定が崩壊する)
アクアが淡々と提案する。
「昼に動け。まず情報を集めろ。港の女将、教会、被害者。証言を取れ」
――正論だった。
しかも、四人が納得するタイプの正論。
クリームが手を挙げる。
「提案。ギルドで被害の詳細を確認。出現時間、場所、魅了の種類、被害者の共通点。次に女性連合から証言を取る。師匠は単独行動禁止」
マイが笑う。
「師匠は“看板”です。看板が色町に入ったら、噂が世界を走ります」
アーモンドがまとめる。
「名目は治安維持、巡回、調査。軽装。全員同行。必要なら、夜は見張りを組む」
レイは、渋い顔で頷いた。
「……わかった。結論」
レイは依頼書を伏せ、指を一本立てる。
「色町案件は、“潜入捜査”じゃない。“情報収集”からだ。昼に動く。単独行動しない」
女性四人が同時に頷いた。
命が繋がった。
レイは、肩の力を抜いた。
そして、つい余計な一言を言ってしまう。
「だがな。港町男性の緊急依頼でもあるんだぞ?」
四人の目が細くなる。
クリームが、にこり。
「師匠。“男性の”って言いましたね」
「……言った」
「言い直してください」
マイが笑顔で追い込む。
「『港町の人々の緊急依頼』って」
アーモンドも真面目に頷く。
「言葉選びは命です、師匠」
アクアが静かに締めた。
「禁欲は、まず口からだ」
レイはコーヒーを飲んで黙った。
酸味が、今日いちばんよく効いていた。




