77話 砂漠の夜と剣聖の致命的ミス
その夜。
宿《子豚亭》は静まり返っていた。
港町イベルもまた、昼間の喧騒が嘘のように静かだ。遠くで波が砕ける音と、時折揺れる看板の軋みだけが夜を刻む。
レイはソファーに寝転び、酒瓶を抱えたまま深い眠りに落ちていた。
「……ぐおおお……」
盛大なイビキ。
違いがわかる剣聖、戦闘時は静寂、睡眠時は災害。
一方、ベッド。
アクアは静かに目を開けた。
深い青の瞳は、夜よりも冷たい。
ゆっくりと上体を起こす。
腹に手を当てる。
そこには、先ほどまで深く裂けていた傷の痕が一切ない。
「……」
指でなぞる。
完璧だ。
回復の質が異常だ。命を繋ぐだけでなく、組織再構築、神経修復、皮膚再生。ここまでの治癒は王族級、いやそれ以上。
アクアは小さく息を吐いた。
脳裏に蘇るのは、砂漠の炎。
虫人からの襲撃。
騙欲、暴欲の裏ギルド。
一族壊滅。
キャラバン崩壊。
逃走。
追撃。
腹を裂かれ、魔力も尽き――
そして、この男に拾われた。
裸を見られた。
触れられた。
ダークエルフは恥の文化だ。
砂漠ゆえ肌の露出は多い。だが、触れさせるのは――夫のみ。
アクアはソファーで寝るレイを見下ろす。
「……殺すか?」
呟き。
両手を前にかざす。
低い詠唱。
掌の間に、暗い混沌の渦が巻き始める。
闇魔法――アトミックブレイク。
都市ひとつ消せる級。
この距離なら、跡形もなく消せる。
夫にならぬなら、消す。
それが砂漠の掟。
――その瞬間。
レイの身体から、淡く光るマナが溢れた。
そして、見えた。
長い耳。
銀の気配。
圧倒的な原初のマナ。
「……エンシェントハイエルフ?」
アクアの詠唱が止まる。
闇の渦は維持されたまま。
目を細める。
「こやつ……繋がっておる……マナごと……」
通常の契約ではない。
深層融合。
魂単位の接続。
原初回帰の兆し。
アクアの呼吸がわずかに乱れた。
「原初に戻る鍵……」
砂漠の古文書。
滅びゆくダークエルフの血。
再生には、原初エルフのマナが必要。
そして――それを媒介できる存在。
闇魔法の渦が、ゆっくり消える。
アクアは無言で立ち上がり、レイのそばへ歩く。
服を脱がす。
軽い。
「……呑気に寝ておる」
抱え上げ、ベッドへ。
自分も横になる。
肌が触れる。
マナを流す。
同調。
探る。
確かめる。
「……やはり……」
確信。
そして、静かに目を閉じた。
夜が更ける。
朝。
窓辺で小鳥がさえずる。
「……んぁ?」
レイ、起床。
大あくび。
「……ソファーじゃない?」
裸。
「……まあいいか」
違いがわかる剣聖、現実受容が早い。
「今朝はカレーだな……」
手を横へ。
ムニュ。
柔らかい。
弾力。
温かい。
「……ん?」
ゆっくり視線を動かす。
隣。
裸のアクア。
手は胸。
しっかり掴んでいる。
「…………」
「…………」
アクア、目を開ける。
青い瞳。
「夫になるのだな。よいぞ」
「ならん!」
即答。
その瞬間。
バンッ!!
扉が吹き飛ぶ勢いで開く。
「先生ー! 朝カレー――」
マイ。
「……え」
アーモンド。
「……は?」
クリーム。
ベッド。
裸の男女。
手の位置。
三秒沈黙。
「「「ああああああああああああああ!!!」」」
絶叫。
「最低です先生!!」
「ニベア様がいるのに!!」
「浮気!?」
「違う!!」
レイ飛び起きる。
シーツが絡まり転ぶ。
「誤解だ!」
「何がですか!!」
「朝から裸で触ってるのに!!」
「触ってない! いや触ってるが!」
「自白!?」
アクアは上半身を起こし、淡々と。
「この男は、私の夫になる」
「ならん!」
「なる」
「ならん!」
「砂漠の掟だ」
「イベルだここは!」
「先生、論点そこじゃないです」
マイが額を押さえる。
アーモンドが真顔で。
「ニベア様に報告ですね」
レイの顔が青くなる。
「やめろ」
「GPSで捕捉されますよ?」
「やめろ!」
クリームが腕を組む。
「先生、詰みましたね」
レイは震えた。
脳裏に浮かぶ。
エンシェントハイエルフ。
ジト目。
重い愛。
「……ヤベー……」
アクアは横で微笑む。
「よいぞ、夫」
「違うと言っている!」
イベル港の朝は、今日も平和だ。
だが剣聖レイの人生は、確実に戦場である。




