76話 砂漠の誓いと青の瞳
イベル港、夜更け。
石畳を踏みしめる音だけが、静かに響く。
違いがわかる剣聖レイは、肩に一人の女性を担ぎながら、宿屋《子豚亭》へと戻ってきた。酔いはほとんど抜けている。血の匂いを嗅いだ瞬間、戦場の感覚が全身に戻ったからだ。
二階、自室。
扉を閉め、ランプに火を灯す。
そっとベッドへ横たえる。
「……酷いな」
思わず漏れた言葉。
裸足。足裏に裂傷。膝には擦過傷。腕や肩は殴打で青黒い。腹部には深く裂けた刺し傷。顔は腫れ、唇は切れ、前歯が一本欠けている。
そして――
「……耳、長いな」
細く、後ろへ流れるような尖り。
森のエルフとは違う。肌は浅黒く、砂が黒髪に絡んでいる。
「砂漠系統か……」
聞いたことはある。森でも海でもなく、乾いた大地に生きるエルフの一族。
レイは一度息を整えた。
「痕は残さん」
回復にも流儀がある。命を繋ぐだけでなく、尊厳も守る。それが剣聖流。
両手をかざす。
「エクストラヒール」
聖光が溢れ出す。
腹部の傷が閉じ、皮膚が再生する。青あざが薄れ、腫れが引く。折れた歯が白く整い、皮膚の荒れまで丁寧に修復されていく。
部屋は、昼のように白く染まった。
――そのとき。
「先生!? この光は何ですか!?」
バンッ、と扉が開く。
クリーム。
「魔力反応、異常値!」
アーモンド。
「爆発!? いや聖属性!」
マイ。
三人が部屋に踏み込み――固まる。
ベッド。
ほぼ裸の女性。
その身体に両手をかざすレイ。
沈黙。
「……説明」
アーモンドが低く言う。
「三秒」
マイが腕を組む。
「いかがわしいなら殴ります」
クリームの目が冷たい。
「刺されてた。路地で。治療中」
即答。
「服」
「効率」
「鼻の下」
「伸びてない」
伸びている。
そのとき、女性の睫毛が震えた。
ゆっくりと、目が開く。
深い青。
砂漠の夜空のような、冷たいのに強い色。
彼女は状況を理解する。
自分の身体。
胸元の破れた布と下着だけ。
ほぼ裸。
頬が一気に赤く染まる。
「……っ!」
身体を起こし、胸元を抱える。
「助けたのは……貴方?」
「そうだ」
レイは淡々と答える。
「私は、まだ服を着ていたはずだが」
「治療のために脱がした」
間。
三人娘、同時にレイを見る。
女性は目を細めた。
「……責任、取ってもらう」
「え?」
三人娘、前へ一歩。
「先生?」
「何の責任ですか?」
「詳しく」
レイは額を押さえる。
「ちょっと待て」
女性はじっとレイを見つめる。
警戒。怒り。羞恥。だが、その奥に――理性。
「砂漠の民はな」
静かに言う。
「肌を許すのは、夫となる者だけだ」
空気が凍る。
「……」
「……」
「……先生?」
レイは瞬きをした。
「いや、治療だ」
「触れた」
「傷口だ」
「触れた」
「医療行為だ」
「触れた」
三人娘が吹き出すのを必死に堪えている。
女性は真顔。
「触れた以上、夫になる覚悟はあるのか?」
「ない」
即答。
「先生!?」
「早っ!」
「即答はどうなんですか!」
レイは真面目だった。
「俺には嫁がいる」
女性の眉が動く。
「既婚者か」
「そうだ」
「ならば尚更、軽々しく触れるな」
「刺し傷は放置できん」
言い切る。
女性は少しだけ目を細めた。
そして、小さく息を吐く。
「……命を救われたことは、感謝する」
「それでいい」
「だが私は、まだ貴方を信じてはいない」
レイは頷く。
「それでいい」
嘘の匂いはしない。
彼女は続ける。
「私の名は――アクア」
青い瞳が揺れる。
「砂漠の民だ」
「レイだ」
「知っている」
「え?」
三人娘が同時に振り向く。
「剣聖レイ。勇者パーティーの一員。世界樹を折った男」
マイがニヤリとする。
「有名人ですね先生」
「折ってない、切っただけだ」
アクアはレイを見つめる。
「だが、それだけだ。私は何も話さない」
「無理に聞かん」
「信用できぬ相手に、砂漠の情報は渡せぬ」
「当然だ」
クリームが小声で。
「先生、普通にまともですね」
「失礼だな」
アクアはレイの目をじっと見る。
打算がない。
下心は……多少あるかもしれないが、命を救う方が先に来る男。
「……ひとつだけ聞く」
「何だ」
「本当に、夫になる気はないのか?」
「ない」
即答。
三人娘、爆笑。
「先生!」
「そこ即答!?」
「もう少し間を!」
アクアは一瞬ぽかんとし、そして――くすりと笑った。
「……正直な男だな」
「面倒が嫌いなだけだ」
「ふむ」
アクアはシーツを身体に巻き、背筋を伸ばした。
「私は、借りを作った」
「借りは気にするな」
「砂漠の民は、借りを返す」
青い瞳が静かに光る。
「いずれ、貴方に返す」
レイは肩をすくめる。
「そのとき考える」
三人娘が顔を見合わせる。
「また面倒事の匂いがしますね」
「砂漠って、騙欲の領域近いですよね」
「先生、フラグ立てすぎです」
「立ててない」
レイは深く息を吐いた。
イベルの夜は静かだ。
だが、砂漠の風は、確実にこの港へ吹き始めている。
そして――
砂漠の民アクアは、まだ何も語らない。
語るのは、信じるに値すると確信したときだけだ。
その夜、青い瞳は眠らなかった。




