68話 ポークカレーと、森の奥の静かな狩り
朝のイベルは、空気が甘い。
小麦畑の香りじゃない。森が持っている匂いだ。
イベル地方の森は豊かだった。
ドングリ、胡桃、栗、ナッツ――木の実が自然に実り、落ち、積もり、また芽を出す。
だから豚が太る。豚が太るから人も満たされる。
イベルの豚が名産なのは、偶然じゃない。森が、ちゃんと“育てている”。
「……森が、うまい」 マイが真顔で言った。
「その表現、なんか怖いよ」 アーモンドが即ツッコむ。
「いや実際、木の実の質で脂が変わるんだって。ドワーフの舌は誤魔化せない」 マイは胸を張る。
「ドワーフの舌、便利だな」 レイはコーヒーを飲みながら頷いた。
その横で、クリームが口元を押さえて笑う。
「先生、朝からコーヒーと“森のうまさ”談義って、平和すぎません?」
「平和を作るのが、仕事だ」 レイは淡々と返す。
「かっこよく言っても、今日の頭の中、ポークカレーですよね?」 クリームが刺す。
レイの視線が一瞬泳いだ。
その瞬間を逃さない。
「図星!」 アーモンドが指をさして笑う。
「先生、顔に出るんです。剣聖なのに」 マイが畳みかける。
「出てない」 レイは言い切った。
鍋がぐつぐつ鳴った。
否応なく、香りが出る。スパイスの熱い輪郭に、イベル豚の脂が溶けて混じり、甘さが立つ。
剣聖特製キャンプ飯。
キャンプと言えばカレー。
いつもカレー。今日もカレー。
「……今日のは、反則だな」 アーモンドが匙を握りしめる。
「肉が、うまい。森が、うまい」 マイがまた言う。
「もう森に謝って?」 クリームが笑いながら皿を受け取った。
四人は腹いっぱい食べた。
満腹は油断だと言う者もいるが、剣聖は違う。
「満腹は、戦闘の準備だ」 レイがコーヒーで締める。
「先生、それ毎日言ってません?」 クリームが呆れる。
「毎日準備してるからな」 レイは真顔だ。
食器を片づけ、装備を確認する。
音を立てない皮装備に、必要最低限の道具。
それでも弟子三人は、しっかり武装している。万一に備えるためだ。
レイはいつもの――あの長い木の棒を手に取った。
慎重189センチの剣聖より長い、三メートル。
先端に葉っぱが一枚だけついている、妙に存在感のある棒。
「先生、それ本当に杖扱いなんですか?」 アーモンドがジト目で聞く。
「杖だ」 レイは淡々。
「墓地で死霊を薙いだ杖があるか!」 アーモンドが叫ぶ。
「あるんだよ、ここに」 レイは棒を肩に担いだ。
「“世界樹の棒”って、普通言うとき震えるやつなのに……」 クリームが小声で言う。
「先生、世界樹を“裏庭の硬い木”って言ってましたからね」 マイが補足する。
「硬かった」 レイは譲らない。
四人は森に入った。
足元は落ち葉。湿り気があるから、踏んでも音が出にくい。
木の幹に苔が張り、空気が冷えて、鼻の奥がすっとする。
そして――ゴブリン集落が見える位置まで来た。
昨日の夜の金属音が、脳裏をよぎる。
鍋兜のゴブリンが、泣きながら剣を振っていた姿。
レイは、何も言わず、視線だけ向けた。
弟子たちも同じだった。
横目で見る。それだけにする。
助けるなら、まず“鎖”を切る。順番がある。
森の奥へ、さらに進む。
匂いが変わった。
獣臭に、脂と汗と、怒りが混じったような匂い。
縄張りの匂いだ。
「……来た」 クリームが囁く。
木々が少し開け、そこに集落があった。
粗い柵。泥と木で作られた小屋。
火の跡。骨。
数――ざっと見て、五十。
「中規模。ぎり大規模手前」 アーモンドが口の形だけで言う。
「うん」 レイが短く頷いた。
広場の中央に、オークがいた。
何体も。昨日見た五体だけじゃない。
“上”がいる。
そして、そこに――来た。
赤いマント。鍋。小さな剣。
ブン太だ。
その後ろに、三体。
リコ、ゴン、ブリ夫。
四匹は、両腕に小麦袋。肉の塊。野菜の束。
抱えた“供物”が、あまりに重そうで、歩き方が歪んでいた。
広場のオークたちが、笑った。
言葉にならない低い嘲り。
牙を見せて、唾を飛ばして、足元の泥を蹴る。
ブン太が袋を差し出す。
リコが唇を噛む。
ゴンが震える拳を抑え込む。
ブリ夫は、笑っているようで、目が笑っていない。
そして――オークの一体が、袋を蹴った。
小麦が散った。
広場の土に、黄金色が広がった。
ゴブリンたちが、泣いた。
泣くしかなかった。
怒っても、掴んでも、今は勝てない。
勝てないから、泣いた。
その瞬間、アーモンドの肩が小さく揺れた。
怒りだ。
クリームの指先に、魔力がわずかに集まる。
マイの視線が、金槌を探すみたいに鋭くなる。
レイは、息を吐いた。
コーヒーの香りが、ここにはない。
だからこそ、頭は澄む。
(……鎖を切る)
レイが指を二本、軽く上げる。
合図。
三人が頷く。
潜入戦闘――開始。
レイは影になった。
音を殺し、木の棒を杖のように突き、身体を滑らせる。
いちばん外側、警戒の薄い個体から。
――一体。
喉を、棒で押さえる。
力は最小。音はゼロ。
倒れる前に、地面へ寝かせる。
アーモンドが反対側で、同じように一体消した。
剣の柄で顎を砕き、落下の音すら殺す。
騎士団の訓練は、こういう時だけ妙に役立つ。
「……怖いよ、お前」 マイが小声で言った。
「先生に比べたら、まだ人間だ」 アーモンドが小声で返す。
「比較対象が終わってる」 クリームが呟き、次の一体へ滑る。
クリームは“光”を使わない。
ホーリーは目立つ。
今日は影で切る日だ。
だから、短い詠唱で眠りに近い封印を落とし、口を塞ぐ。
マイは動きが独特だった。
鍛冶師の身体の使い方。重心が低い。
棒でなく、石でなく、ただ“手”で急所を狙う。
小さくて可愛いのに、やってることが怖い。
「……ドワーフ、怖い」 クリームが小声で言う。
「褒め言葉ですか?」 マイが返す。
「褒めてないです」 クリームが即答した。
少しずつ、外側が削れていく。
焚き火は燃えているのに、誰も気づかない。
笑い声は続く。
ゴブリンたちは泣き続ける。
その泣き声さえ、オークの注意を“そっち”へ固定していた。
レイは、次の個体の背後へ回り込む。
木の棒が、淡く光った気がした。
(棒が、やる気出してるな……)
剣聖の頭の中で、どうでもいい感想が一瞬だけ浮かぶ。
それが、冷静の証拠だった。
広場の中心に近づく。
“上”に届く距離。
ここから先は、静かな狩りでは終わらないかもしれない。
それでも――
まずは一体ずつ。
影のように。
息を殺して。
確実に。
潜入戦闘は、深く、森の奥へ沈んでいった。




