65話 帝国の胃袋と、静かな刈り取り
イベル地方――ジャンヌ帝国の西の西。
帝国の“穀倉地帯”、別名「帝国の胃袋」。
小麦。大麦。ライ麦。葡萄。葡萄酒。豚肉。
聞いただけで腹が鳴るラインナップだが、違いのわかる剣聖レイの頭の中は、もっと単純だった。
(……ポークカレーだな)
潮の匂いが薄くなり、代わりに土と草と、遠くで焚かれる薪の匂いが濃くなる。
定期船が港に滑り込んだ瞬間、風が変わった。
乾いた風。
穀物の香りを含んだ、胃袋の風。
「先生、目がカレーになってます」 クリームが冷静に指摘する。
「剣聖の目って、カレーになるんだ……」 アーモンドが感心して、感心してる場合じゃない顔になる。
「カレーは正義です!」 マイが拳を握った。なぜか鍛冶師らしい気合が入っている。
レイは降りた瞬間から迷わない。
港町の通りを、鼻で追っていく。
香り――スパイス。
あ、ここだ。
「ここ、寄る」 「先生、依頼は?」 「腹が減ったら判断を誤る。まず補給」 「兵站理論! なんか納得できるのが腹立つ!」
四人は、港の小さな食堂に吸い込まれた。
木のテーブル。
壁には葡萄酒の樽の飾り。
客の大半は農夫か、荷運びの男たちで、皆、汗と土の匂いがする。
「いらっしゃい! 今日のおすすめはポークカレー!」 店主が叫ぶ。
レイの目が、さらにカレーになる。
「……四つ」 「先生、即決しすぎです」 「今の、人生で一番早い判断でしたよ」 「戦闘より早い!」
運ばれてきた皿は、見た目からして反則だった。
照りのあるルー。
脂が甘い香りを立てる豚肉。
香ばしく焼かれたスパイスの層が、湯気に混じって鼻を殴ってくる。
一口。
レイが、黙って親指を立てた。
「……うまい」 それだけで、十分すぎる評価だった。
マイは頬を押さえて震え、アーモンドは「やばい、やばい」と語彙を失い、クリームは口数が減った。
クリームが静かになるのは、集中している証拠だ。
「師匠、これ、敵です」 「敵だな」 「胃袋が落ちます」 「落とされていい」
四人はニコニコというより、完全に“陥落”して店を出た。
港町の丘の上に、村長の家があった。
石造りの頑丈な家。風見鶏。葡萄棚。
そして――裏手。
見渡す限り、小麦畑。
黄金の海。
風が吹くたび波打って、地平線の彼方まで続く。
「……すご」 アーモンドが呟いた。
「これ全部、パンになるんですよね」 マイが真顔で言う。
「まず葡萄酒になる畑じゃないから」 クリームが淡々とツッコミを入れる。
村長は初老の男で、日焼けした顔に疲れが貼りついていた。
だが目は、まだしっかりしている。
「剣聖殿……来てくれたか。助かる」
「話を聞こう」 レイはいつもの“穏やかな圧”で椅子に座り、コーヒーを取り出した。
どこから出したのかは誰も聞かない。剣聖あるあるだ。
「……イベルのゴブリンは、元々おとなしい」 村長が言った。
「おとなしいゴブリンって、存在するんですか?」 アーモンドが眉をひそめる。
「いる」 村長は即答した。
「この辺りの森の群れは賢い。……八歳の子供くらいの知恵がある」
クリームが小さく頷く。
「教育が成立するレベルですね」
「二年前に、畑仕事を“人から習った”んだ」 村長は言葉を慎重に選ぶ。
「……わしらが教えた。道具の使い方、種の撒き方、刈り取りのやり方。互いに境界を守るなら共存できる、と」
「へえ」 レイがコーヒーを口に含み、目を細めた。 「珍しいな。ゴブリンが自給自足を?」
「森の中で畑を作り、暮らし始めた。
最初は小麦じゃなく、根菜と雑穀だった。だが少しずつ上達してな」
マイが身を乗り出す。
「ゴブリン、畑やるんですか……! 鍬とか作ってるんですか……?」 「いや、そこまでは知らんが……とにかく、うまくいっていた」
村長の声が落ちる。
「……だが今年に入ってから、様子がおかしい」
レイの視線が鋭くなる。
アーモンドとクリームも、空気が変わったのを感じた。
「人の小麦畑を襲い出した。収奪だ。
ただ――殺しはしない。火もつけない。
刈り取りだけして、運んでいく」
「刈り取り……?」 クリームが繰り返す。
「農業ムーブすぎません?」 アーモンドが困惑する。
村長は頷いた。
「だから怖い。
賢いゴブリンが、理性を保ったまま“何かに追い立てられている”」
「森の奥に、強い魔物がいる可能性」 クリームが即座に整理する。
「あるいは……飢饉」 レイが静かに言った。
「森の畑が潰れたのかもしれん。
だが、原因が分からん。
だから調査と、必要なら駆除。……頼む」
レイはコーヒーを置いた。
「殺すのは最後だ。まず見る。話せるなら話す」
村長の顔に、わずかに安堵が浮かんだ。
「……それでいい。わしも、できれば殺したくない」
夕方。
村長の家の前に、四人はテントを張った。
広い庭。
葡萄棚の影。
風の音。小麦の波。
「今日はゆっくり――って言ってたのに、見張りの当番表がもう出来てるんですが」 アーモンドが紙を見て、ため息をつく。
「“ゆっくり”とは、準備を丁寧にすることだ」 レイは平然と言う。
「先生のゆっくり、信用できない」 クリームが断言する。
マイは杭を打ちながら、鼻をひくひくさせた。
「……小麦、いい匂いですね」 「それ今言う?」 「言います!」
夜が降りる。
空は墨色。
月明かりが小麦の穂先に銀を落とし、畑は静かに揺れていた。
虫の声。
遠くの犬の吠え。
そして――微かな足音。
ざっ、ざっ。
刃が穂を撫でる音。
レイが、コーヒーカップを持ったまま目を細めた。
「……来たな」
小麦畑の中に、影が揺れる。
小さな影が、いくつも。
ゴブリン。
だが彼らは走らない。叫ばない。暴れない。
まるで――“夜間の作業”みたいに黙々と、小麦を刈り取っていた。
「ほんとに刈ってる……」 アーモンドが呟く。
「手際が良すぎます」 クリームが息を殺す。
マイが目を輝かせる。
「鎌……鎌の角度……あの子、器用……!」
「感心してる場合じゃない」 レイが小声で言った。
だが声は落ち着いている。
剣聖の心臓は、コーヒーで整っている。
「――行くぞ。
殺さない。まず話す。
“何が起きてるか”を聞き出す」
三人が頷き、武器を静かに握る。
月明かりの下。
黄金の畑で、静かな刈り取りが続く。
それが、これから始まる面倒の“前触れ”だと、誰もが感じていた。




