57話 母の言葉、狼の誓い
北の大地――オリザーシ王国。
落城の煙は薄れ、城内に残ったのは、瓦礫と、寒さと、声にならない悲鳴だった。
剣や魔法が止んだあとにだけ、世界は“本当の痛み”を置いていく。
禁欲のマリアは、その痛みの中を歩いていた。
胸には赤子を抱きしめている。
温もりを失いかけた小さな命を、呼吸に合わせるように揺らしながら。
もう片方の手には、親を失った子の手。指先が冷たく、握る力だけが必死だった。
背後には、魔道教会の神父と尼たち。
癒しの祈り、包帯、薬草、食料、毛布――
戦争のあとに必要なものは、だいたい“地味”だ。
だが、地味なものが命を救う。
「……ここは、熱いスープを」
「この子は、靴がない。先に足を温めて」
マリアの声は静かで、短い。
命令ではないのに、誰も迷わない。
その場が自然と整い、救済が流れ出す。
彼女が歩くところに、秩序が生まれる。
――異変は、魔物たちが先に察していた。
魔狼は、マリアの気配を感じた瞬間、尻尾を巻いて逃げた。
唸り声も威嚇もない。
ただ、命の価値を知っている者の逃げ方だった。
ワーウルフたちは震えていた。
恐怖ではない。
“本能が理解してしまった震え”だ。
銀狼たちも、声すらかけられない。
目を合わせたら、何かが終わる。
そんな気配に、群れが息を潜める。
その張りつめた空気を割るように、
一頭の銀狼が、前へ出た。
銀狼リア。
群れの中でも、最も実戦で鍛えられた女狼。
金狼ゴールドマンの側近であり、戦場を走ってきた“銀の旗”――
だが今、彼女は震えを隠したまま、マリアの前に立ち、片膝をついた。
「……マリア様。お久しぶりでございます」
「その節は……助けていただき、ありがとうございました」
周囲の狼たちが息を止める。
ワーウルフが目を見開く。
魔狼が遠巻きに身を低くする。
マリアは歩みを止め、赤子をそっと抱き直す。
目は閉じたまま。
それでも彼女が“見ている”ことは、誰も疑わない。
「堅苦しいわね、リア」
その声は、戦場の支配者に向ける声じゃない。
もっと日常の、もっと母親の声。
「私は……貴女のお母さんでしょ?」
リアの耳が、ぴくりと跳ねた。
次の瞬間――
リアの尻尾が高速で振れ始めた。
止められない。隠せない。誤魔化せない。
「……っ、母上様……!」
「申し訳ありません。不肖の娘で……!」
その言葉に、尼たちが思わず口元を押さえる。
神父は咳払いで笑いを誤魔化し、
ワーウルフたちは「今のは聞いていいやつか……?」という顔で固まった。
マリアは、ほんの少し口元を緩めた。
「不肖でもいいわよ」
「生きて、誰かを守ろうとしているなら。それで十分」
リアは頭を下げたまま、尻尾だけが正直だった。
左右に、ぶんぶんぶんぶん。
まるで褒められた子犬だ。
マリアは一拍置いて、さらっと続けた。
「……それで」
リアの背筋が、ぴん、と伸びる。
銀狼の群れがさらに緊張する。
ワーウルフは「来るぞ……」と身構えた。
マリアは、平然と言った。
「貴女の旦那に会わせなさい」
「…………はい?」
リアの声が、情けないほど裏返った。
「旦那。いるでしょう?」
「結婚してないなら“旦那候補”でもいいわ」
「娘の人生は、母が把握しておくものよ」
「母上様それは、その……っ!」
リアの尻尾が、今度は“溺れた魚”みたいに暴れた。
照れと動揺が、隠しようもなく全身から漏れる。
周囲の銀狼たちは、目をそらした。
ワーウルフたちは、肩を震わせた。
魔狼は遠くで「助かった、俺じゃない」とでも言いたげな顔をした。
リアは、ようやく絞り出す。
「……ゴールドマン様、でございます……」
その瞬間。
空気が――一段冷えた。
マリアは、変わらない。
声も、歩みも、抱く赤子のリズムも。
ただ、ほんの少しだけ、首を傾けた。
「……あの子ね」
“あの子”。
魔将に向ける呼び方じゃない。
母親が、手のかかる子を思い出すような言い方だ。
リアは、恐る恐る顔を上げる。
マリアは目を閉じたまま、赤子の頭を撫でている。
「いいわ」
「会いに行く」
リアの耳が、ぴん、と立った。
銀狼の群れが、ざわめく。
ワーウルフは「終わった……」という顔で天を仰いだ。
マリアは、静かに続ける。
「でも先に、民衆を落ち着かせる」
「戦場の勝者は、次の一手を“奪う”ために使う」
「母は、次の一手を“守る”ために使う」
そう言って、マリアはまた歩き出す。
赤子を抱き、孤児の手を引き、神父と尼を連れて。
その背に向かって、リアは深く頭を下げた。
「……はい、母上様」
尻尾は、まだ高速で揺れていた。
誇らしさと、怖さと、安心が混ざった、狼の正直。
――禁欲のマリアは、今日も目を開かない。
だが、誰よりも世界を“見て”いる。
そしてその視線の先には、
金狼ゴールドマンという、問題児が待っていた。




