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56話 白紙の聖書と閉じた瞳

 北の大地――オリザーシ王国。

 王都はすでに落ちていた。

 城壁は崩れ、玉座は倒れ、王と貴族の時代は終わった。

 だが、ひとつだけ――

 終わっていない場所があった。

 魔道教会。

 石造りの礼拝堂は半壊しながらも立っており、冷たい風が割れたステンドグラスの隙間を通り抜けていく。

 祭壇の上には、像も、金も、宝石もない。

 あるのは――

 一冊の聖書。

 九百九十九ページ。

 すべて、白紙。

 その前に、ひとりの尼が跪いていた。

 禁欲のマリア。

 背筋を伸ばし、両手を重ね、静かに祈りを捧げている。

 その瞳は、閉じられたままだ。

 魔道教会は、魔族の教会だ。

 世俗的だと笑う者もいる。

 欲望に正直な種族が、宗教など持つはずがないと。

 ――違う。

 魔族は、欲望を知っている。

 だからこそ、欲望を制御できる。

 人類よりも、ずっと早く。

 ずっと深く。

 まして、禁欲のマリアである。

 この教会は、孤児と身寄りのない者たちの拠り所だった。

 国が滅び、家を失い、名も身分も意味を失った人々が、最後に辿り着く場所。

 礼拝堂の隅では、子どもたちが毛布に包まれて眠り、

 老人たちが壁にもたれて息を整え、

 傷を負った者たちが、静かにうめいている。

 扉が開き、尼と神父たちが戻ってきた。

「マリア様……北門側の避難が完了しました」

「負傷者が多数います」

「食糧は……三日が限界です」

 マリアは目を閉じたまま、静かに頷いた。

「子どもと衰弱者を優先して」

「身分は問わないわ」

「ここに来た時点で、皆同じ“生きる人”よ」

 その声は柔らかい。

 だが、揺るぎがない。

 誰も異を唱えない。

 唱えられるはずがない。

 ――北の大地は陥落した。

 ――金狼のゴールドマンが、最後の人類国家を滅ぼした。

 若い尼が、恐る恐る口を開く。

「……マリア様。

 ゴールドマンが、こちらへ来る可能性は……」

「来ないわ」

 即答だった。

「……闘われるのですか?

 マリア様は、魔将……」

 マリアは、白紙の聖書にそっと手を置く。

「闘わない」

 少しの間。

 静寂。

「私にとって、あの子は――

 さっきまで飼っていた犬と同じよ」

 言葉は冷たい。

 だが、そこに嘲りはない。

 力の差が、決定的だった。

 ゴールドマンがどれほど軍を率いようと、

 魔法が効かなかろうと、

 世界を敵に回そうと。

 マリアと闘えば――

 負ける。

 それを、マリア自身が一番よく理解している。

 だから、闘わない。

「私は魔族よ。

 彼の怒りも、悲しみも、行いも……痛いほどわかる」

 差別の臭い。

 絶望の臭い。

 踏みにじられた者の、血と涙の臭い。

 ゴールドマンは正義ではない。

 だが、偽善でもない。

「今、必要なのは戦争じゃないわ」

 マリアは立ち上がる。

 それだけで、空気が変わる。

「救済よ」

「保護よ」

「生き延びさせること」

 神父と尼たちが、深く頭を下げる。

「場内に尼を派遣して」

「民衆を慰問しなさい」

「恐怖の中で、孤独にしないで」

 命令ではない。

 使命だった。

 そして――

 マリアは、目を開かない。

 それは、祈りのためではない。

 恥じらいでもない。

 サキュバスだからだ。

 その瞳は、性別も、種族も、理性も関係なく魅了する。

 だが、マリアの魅了はそれだけでは終わらない。

 存在そのものを魅了する。

 物質を魅了する。

 空間を歪め、引き寄せる。

 結果――

 空間は、爆縮する。

 だから、閉じる。

 力を持つ者が、力を使わない。

 それが、禁欲。

 マリアは自分がどれほど強いかを理解している。

 理解しているからこそ、慎重で、静かで、優しい。

 魔将第2席。

 実質、魔王。

 欲望すべてを知り、

 欲望すべてを断った存在。

 白紙の聖書の前で、

 禁欲のマリアは、今日も目を閉じて祈る。

 この白紙が、

 いつか――

 生き残った者たちの物語で埋まる日を、待ちながら。

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