53話 釣り餌に喰らいつく金狼
北の大地――冬が長い、白と灰の世界。
吹雪が止んだ一瞬、雲の切れ目から月光が差し、雪面が青白く光った。
最後の人類の城、ウュチフ。
分厚い城壁と氷の堀。
中には十万の人間が、息を潜めるように籠城していた。
国の名は、オリザーシ王国。
王――ルドルフ=ブライアンは、冷えた指で玉座の肘掛けを掴む。
「……使者を出せ」
声は震えていない。
震えているのは、玉座の下で立ち並ぶ貴族たちの方だった。
戦況は、もう説明するまでもない。
城の外は、狼の海。
十万のワーウルフ。
五万の魔狼。
そして――彼らを束ねる、金色の一点。
魔将第四席、剛欲の金狼ゴールドマン。
城外。
雪原に設けられた狼陣営は、恐ろしく静かだった。
吠え声も、怒号もない。
あるのはただ、統率された呼吸と、獣の視線。
使者が近づく。
白旗を掲げ、震える膝を叱咤して、一歩ずつ進む。
ゴールドマンは、動かない。
ただ、鼻先をわずかに上げた。
――臭い。
嘘の臭い。
恐怖の臭い。
自己保身の臭い。
そして、ほんのわずかに混じった“餌”の臭い。
ルドルフは降伏と言いながら、腹の底では違う算段を抱いている。
騙す気だ。
狼を欺いて、金狼だけを城内へ誘い込み、落とす。
ゴールドマンは、口角を上げた。
獣の笑みではない。
王の笑みだった。
「……なるほど」
隣に控える銀狼が六人。
その中で、最も静かな銀狼――リアが一歩前に出る。
「殿。如何なさいますか」
ゴールドマンは、リアを見ずに、視線だけで答えた。
目配せ。ほんの一瞬。
――俺が、釣り餌に喰らいつく役になる。
リアの銀の瞳が、わずかに細くなる。
理解した。
使者が震える声で告げる。
「オリザーシ王国は、降伏を望む。
……王ルドルフ=ブライアンは、貴殿を城内へ招き、直接、和平の誓いを――」
「いいだろう」
ゴールドマンは、あっさりと言った。
使者は安堵した。
――釣れた。と。
だが、釣られたのは、誰だ?
城門前。
巨大な鉄扉がゆっくりと開く。
雪を踏む音が、異様に響く。
ゴールドマンは、たった一匹で歩く。
背後に狼の軍勢は続かない。
続くのは、ただ、銀狼リアと、数十の精鋭だけ。
門の内側。
薄暗い通路の両側に、兵が並ぶ。
弓が構えられ、魔道士が詠唱を始める。
ここまでくれば、もう隠さない。
――重力魔法。
空間が沈み、足が凍る。
空気が鉛に変わる。
普通なら、膝が砕ける。
ゴールドマンは――
「……ああ、効くな」
効いた“ふり”をした。
大の字に倒れ込む。
呻き声も、苦悶の表情も、完璧に演じる。
兵がどよめく。
「かかったぞ!」
「金狼が潰れた!」
魔道士が叫ぶ。
「次!爆炎を降らせろ!扉を閉じろ!門を――」
門を閉じる。
閉じるはずだった。
だが、ゴールドマンの巨体が、門の軌道に――
わざと滑り込んでいた。
鉄扉がギギギ……と悲鳴を上げる。
閉まらない。
ほんの数十センチ。
その隙間が、死を呼ぶ。
「……門が……閉まらない!?」
爆炎が落ちる。
火球が降り注ぐ。
通路が火の川になる。
ゴールドマンは燃えながら、さらに“苦しむふり”をした。
それでいい。
狼たちが突入できれば、それでいい。
外で、リアが低く吠えた。
それは号令だった。
雪原が爆ぜる。
銀狼たちが駆ける。
ワーウルフが駆ける。
魔狼が駆ける。
誰が最初に門をくぐったのか、もう分からない。
ただ、銀と灰と黒の奔流が、閉まりきらない門を裂いて城内へ流れ込む。
「う、うわぁぁぁ!」
「止めろ!止めろォ!」
人間の叫びが、狼の足音に掻き消される。
狼たちは、無差別に狩らない。
――臭いを嗅ぐ。
差別の臭い。
搾取の臭い。
嘲笑の臭い。
奴隷を飼った臭い。
侮蔑を吐いた臭い。
それらを纏う者は、兵であろうが、貴族であろうが、王であろうが、関係ない。
首が、落ちた。
血が、雪に混じった。
通路の奥で、倒れたままのゴールドマンが、ゆっくりと顔を上げる。
火は、もう消えかけていた。
魔法が効かない。
爆炎も、ただ熱いだけだ。
ゴールドマンは立ち上がり、門の内側へ歩いた。
重力魔法の中心にいたはずなのに、足取りは軽い。
「……さて」
低い声が、城内に響いた。
「降伏、だったな」
その瞬間。
人類は悟る。
倒したのではない。
倒したと思わされたのだ、と。
そして、金狼は笑った。
憎悪でも、残虐でもない。
――“当然”の顔で。
「差別を噛み殺す。
それが、俺のやり方だ」
城ウュチフの中で、雪のように静かな虐殺が始まった。
叫びは短く、抵抗は潰れ、命令は届かない。
この夜、城は落ちる。
そして北の大地は――
もう少しで、一つの群れになる。




