5話 「剣聖の夜は、だいたいカレーの匂いがする」
夜になった。
サルトリ村の夜は、静かだ。
波の音、火山の地鳴り、牛の寝息、そして――鍋の中でぐつぐつ煮える音。
「……」
レイは無言で鍋をかき混ぜていた。
立ちのぼる香りは、明らかにこの世界のものではない。
「師匠……それ、なんですか?」
アーモンドが、恐る恐る聞いた。
「カレー」
「……?」
「神の食べ物だ」
「神!?」
マイが目を輝かせた。
「え、え、神!? 供物ですか!? ドワーフ的に、鍛冶の神に供えるやつ!?」
「違う。俺が食う」
「即物的!」
キッチン――という名の、まだ半分工事中の台所では、三人がぎこちなく立っていた。
木のテーブル。椅子は二脚足りない。床は土。天井はまだ梁むき出し。
レイは二人にナイフを渡していた。
「マイ。アーモンド。下ごしらえだ」
「はい!」
「承知しました!」
「馬鈴薯、人参、玉ねぎ。皮むいて、カレー用に切れ。
水にさらす。以上」
レイの指示は短い。
「……」
マイはナイフを握り、馬鈴薯を見つめた。
「……えっと」
「どうした」
「これ……どこから刃、入れれば?」
「……」
アーモンドが一歩前に出た。
「マイ、貸して。
……こうだ。指は丸める。刃は、前に押す」
「おおー! 騎士、料理できるんだ!」
「騎士団では自炊です。戦場に料理人はいません」
「かっこいい!」
「鍋を守れない者に、陣は守れません」
「名言っぽいけど、聞いたことない!」
マイは見よう見まねで切り始めた。
「……あ、皮、分厚くむいちゃった」
「それは削りすぎだ」
「ドワーフ的に、厚みは正義です!」
「食感が死ぬ」
「食感!?」
レイは横目で見ながら、黙ってスパイスを取り出した。
小瓶がずらりと並ぶ。
赤、黄、茶、黒。
見ただけで、辛そうで、香りが強そうで、理解不能。
「師匠……その粉、何種類あるんですか?」
「今日のカレーは、十四種」
「多っ!?」
「少ないほうだ」
「基準が分からない!」
レイはオーク肉を切っていた。
分厚い赤身。筋肉質。噛み応えがある。
「オークは、煮込み向きだ。
下処理を怠ると、ゴムになる」
「ゴム……」
「ゴムですか……」
二人の顔が引きつる。
「安心しろ。俺がやる」
レイは肉にスパイスをすり込み、鍋に放り込んだ。
じゅっ。
音が変わる。
香りが一段、強くなる。
「……!」
マイの鼻が動いた。
「なにこれ……お腹、鳴る……」
「空腹は、正しい反応だ」
「師匠、これ……毎日?」
「ほぼ」
「毎日!?」
「冒険中も?」
「携帯スパイスは必須だ」
「剣より重要そうですね……」
「場合による」
アーモンドは真剣だった。
「師匠。
この料理は……戦闘前に適していますか?」
「適している。
腹が満ちる。士気が上がる。体が温まる」
「理にかなっています」
「あと、幸せになる」
「……それも重要ですね」
野菜は切り終わり、水にさらされた。
「よし。投入」
レイの合図で、二人が鍋に放り込む。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
「……あれ?」
マイが首をかしげた。
「色……まだ、茶色くない?」
「まだだ」
「いつ茶色くなるんですか?」
「信じて待て」
「料理、信仰要素あるんですね……」
鍋は静かに煮え始めた。
外は夜。
窓の外では、星が見え、火山の赤が遠くに揺れている。
「……」
しばらく、三人とも無言だった。
沈黙を破ったのは、マイだった。
「……師匠」
「ん?」
「……弟子になって、よかったです」
レイは鍋を見たまま、答えた。
「まだ、一日目だ」
「でも……家があって、火があって、
みんなで食べる夜がある」
マイは少し笑った。
「……父が、好きだった光景です」
アーモンドも、静かに頷いた。
「私も……この匂い、忘れません」
「忘れるな。
生きてる証拠だ」
レイはそう言って、最後のスパイスを入れた。
鍋の色が、ゆっくりと変わる。
深い、茶。
「完成だ」
「おおー!」
「……!」
皿は簡素だ。
だが、湯気と香りは、豪華だった。
「食え」
二人は一口、口に運んだ。
「……っ!」
「うま……!」
「だろ」
「神です!」
「神だな……」
「だから言った」
剣聖の夜は、今日もカレーの匂いがする。
そして、弟子たちは――少しだけ、強くなった気がしていた。




