45話 境界の海、グラス港
サルマータ港を出港した定期船オーサル号は、ゆっくりと北へ進んでいた。
波は穏やかだが、この海域は“位置関係”がややこしい。
北へ行けば――ジャンヌ帝国南部、港町グラス。
東へ海を渡れば――交易都市ピサロ。
西へ向かえば――ジャンヌ帝国イザベル地方。
南へ進めば――騙欲が蠢くビートル砂漠。
つまり、サルコジ島はだいたい全部の厄介ごとの中間地点にある。
「……改めて考えると、住む場所じゃないよな、ここ」 レイは甲板の手すりにもたれ、コーヒーを一口すすった。
剣聖特性ブレンド。
潮風の中でも香りが負けない。精神が安定する。
世界がどうであれ、コーヒーは裏切らない。
その背後では、完全武装の三人が甲板に並んでいた。
マイは魔神の戦槌を背負い、金属音を立てないよう無意識に重心を調整している。
アーモンドは騎士団式の装備をきっちり整え、すでに戦場の顔だ。
クリームはエルフ製の軽装魔導鎧。暑そうだが、表情は引き締まっている。
対照的に、レイの装備は――
長い木の棒。
皮鎧。
以上。
「……先生」 アーモンドが、とうとう口にした。
「その装備で、アンデッドの群れに突っ込む気ですか?」
「うん」 レイは即答した。
「いや、うんじゃなくてですね」 「大丈夫だよ。木は折れにくいし、皮は軽い」 「論点そこじゃないです!」
マイが首をかしげる。
「先生、なんで剣も盾も持たないんですか?」 「今日は“教える日”だから」 「……それ一番危ないやつじゃないですか?」
クリームが冷静に補足する。
「お母さんがいない時の先生は、だいたい“素”になります」 「それ悪口かな?」 「事実です」
レイは肩をすくめた。
「安心しろ。
お前たちが前に出る。
俺は後ろで、コーヒー飲みながら、危ないところだけ折る」
「骨を?」 「心を」
三人が同時に沈黙した。
オーサル号は、ゆっくりとグラス港へ近づいていく。
見えてきた港町は、どこか静かだった。
帆は下ろされ、船の出入りも少ない。
港の空気が、少し重い。
「……静かすぎません?」 マイが小声で言う。
「静かですね」 アーモンドも周囲を警戒する。
クリームは目を細め、空気の流れを読む。
「魔素が……淀んでます。
海側より、陸側が重い」
「教会墓地だな」 レイは即座に結論を出した。
「死者が“動く準備”をすると、空気が重くなる」
船が接岸する。
ロープが投げられ、木材が軋む音が響く。
港には、迎えの兵士が数名。
疲れた顔だ。鎧も手入れが行き届いていない。
「剣聖殿……ですよね?」 兵士の一人が、半信半疑で声をかける。
「そう。あと弟子三人」 「……思ったより、若いですね」 「思ったより、骨は硬いぞ」
兵士は苦笑いを浮かべた。
「教会の墓地から、毎晩出ます。
数が……とにかく数が多い」 「どれくらい?」 「……数えられません」
レイはコーヒーを飲み干し、木の棒を肩に担いだ。
「よし。じゃあ、夜まで休憩だ」 「え?」 「アンデッドは夜が本番。
昼は、準備と観察」
三人がうなずく。
港を歩きながら、レイはふと振り返った。
南の空――サルコジ島の方角。
ニベアの姿は、もちろん見えない。
だが、あの見送りの目だけは、はっきり思い出せる。
「……帰ったら、パンケーキだな」
「先生?」 「いや、独り言」
グラス港の奥、教会の鐘が――
カランと、風もないのに鳴った。
夜が近い。
骨が、動き出す時間が。




