39話 馬車の中の王子
ジャンヌ帝国首都――アルスター。
高い城壁が幾重にも連なり、白い石で組まれた防衛線が都市を包み込んでいる。
魔王討伐後の混迷の時代にあっても、この都だけは別格だった。
防壁魔法陣は稼働中。
常備軍は即応体制。
空には警戒用の使い魔が巡回し、城門ごとに検問所が設けられている。
――ジャンヌ帝国は、まだ崩れていない。
むしろ、「崩させない」ために、全力で踏ん張っている最中だった。
その城門へと続く大通りを、一台の馬車が静かに進んでいた。
ハイネ王国外交使節団。
正面には、王家の紋章。
護衛も十分。
形式は完璧だった。
だが――
「……」
馬車の中で、ひとりだけ明らかに落ち着きのない人物がいた。
ビア=ハイネ。
ハイネ王国王配ウォーレンと、女王マルガリータの息子。
名目上の使節団長。
実態は――
(無理無理無理無理無理……)
心の中で、全力の否定。
背筋は伸ばしている。
服装も完璧。
表情も「それなり」に取り繕っている。
だが、手は膝の上でぎゅっと握りしめられ、指先はわずかに震えていた。
「……緊張しているな、殿下」
対面に座る男が、穏やかに声をかける。
ギネス内務大臣。
白髪交じりの髭。
柔和な顔立ち。
しかしその眼は、鋭く状況を見通す官僚のそれだった。
「い、いえ……その……」
ビアは口を開きかけ、閉じる。
「正直に言っていい」
ギネスは笑った。
「この馬車の中に、君を評価する者はいない。
いるのは、君を“守る”役目の老人だけだ」
「……はい」
ビアは小さく息を吐いた。
「緊張、してます。
めちゃくちゃ」
「だろうな」
即答だった。
「ジャンヌ帝国だ。
しかも今は、国境情勢がきな臭い。
北では北狼帝国、内側では――」
「……暴欲、騙欲、貪欲」
ビアが続ける。
「侵入は確認されているが、表には出ていない。
帝国は防衛を維持しながら、内部浄化も進めている」
「よく勉強しているな」
ギネスは満足そうに頷いた。
「だがな、殿下。
今日、君に求められている役割は――」
少し間を置き。
「“完璧な王子”ではない」
ビアは、きょとんとした。
「……え?」
「君は“象徴”だ」
ギネスは、指を一本立てる。
「ハイネ王国は、
・北狼帝国に対抗するため
・ジャンヌ帝国との連携を強化するため
・この世界が、まだ協調を選べると示すため
君を団長に据えた」
ビアは、ごくりと喉を鳴らした。
「だから――」
ギネスは、やや声を落とす。
「失敗してもいい」
「!?」
「交渉をまとめるのは私の仕事だ。
君の仕事は、そこに“いる”ことだ」
馬車がゆっくりと止まり始める。
城門が見えてきた。
「殿下が若く、誠実で、少し緊張していること。
それ自体が、ジャンヌ帝国にとっては“安心材料”になる」
ギネスは、にこりと笑った。
「政治はな、怖い顔だけでは回らん。
守りたいものがある顔が、必要な場面もある」
ビアは、胸に手を当てた。
(……姉さん)
剣を振るうアーモンド。
前に立つ人間。
自分は――後ろに立つ人間だ。
「……分かりました」
ビアは、背筋を正した。
「僕は、僕のままで、行きます」
「それでいい」
城門が開く。
ジャンヌ帝国首都アルスターへ、使節団が入城する。
この会談が、未来を左右するかは分からない。
だが少なくとも――
ハイネ王国は、対話を選んだ。
その先頭に立つのが、
緊張で心臓がうるさい、ひとりの若い王子だった。
馬車の中で、ビアは小さく深呼吸した。
(……帰ったら、姉さんに、愚痴ろう)
そう思った瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
外交の一日が、静かに始まろうとしていた。




