35話 美は旅立ち、修行は重くなる
朝の空気が、少しだけ澄んでいた。
火山島サルコジ特有の硫黄の匂いも、この時間だけは穏やかで、潮風に薄く溶けている。
その庭の中央に、ニベアは立っていた。
――フルメイクで。
いや、正確に言うなら、フルメイク“なのに”化粧がいらない美しさだった。
朝日を受けて、銀緑の髪は一本一本が光をはじき、肌は磨かれた大理石のように均一で、瞳は湖面のように静かに揺れている。
エルフ女王としての装束は抑えめだが、アクセサリー一つ一つが古代妖精語で祝福されているのが、レイにはわかる。
ニベアは、指先で最後にリップを整え、満足そうに頷いた。
「……うん。完璧」
その一言が、すでに完成宣言だった。
レイは、少し離れた場所でコーヒーカップを手に、ぽつりと呟く。
「化粧、いらない顔で、さらに盛るとは……
美の物理法則って、こういうことか」
ニベアが振り返る。
「なに?」
「いや。
俺の嫁、世界一だなって」
一瞬、ニベアの眉が上がる。
次の瞬間、ふっと微笑んだ。
「……“俺の嫁”って言い方、まだ慣れてないわね」
「昨日まで独身だったからな」
「ふふ」
その笑みだけで、空気が一段、明るくなる。
ニベアは小さく手を振り、足元に淡い魔方陣を展開した。
「妖精王に、挨拶に行ってくるわ。この時期は形式が大事なの」
「はいはい。気をつけて」
ニベアは一歩、魔方陣に足を乗せ――ふと、振り返る。
「……留守中、弟子たち、甘やかさないでね?」
「無理言うな」
「でしょうね」
くすっと笑って、ニベアは転位した。
光が弾け、風が一瞬、庭をなでて、すべてが元に戻る。
静寂。
レイはコーヒーを一口飲み、深く息を吐いた。
「……嫁が世界一。
母も世界一。
俺の人生、基準がおかしい」
その呟きに、答える者はいない。
――が。
「先生!?」
「え、今の聞こえてました?」
背後から、マイ、アーモンド、クリームの声。
全員、完全武装。
剣、鎧、魔道具、背負い袋。
いつものランニング装備ではない。
レイは、にこやかに言った。
「今日から、負荷上げる」
三人、同時に固まる。
「え?」
「ニベアがいない間は、俺が見る。
だから――」
レイは指を立てる。
「フル装備ランニング」
「鬼ですか!?」
「嫁がいないと厳しくなる仕様だ」
「仕様!?」
クリームが半泣きで抗議する。
「今日は暑いし、火山島だし、重いし……!」
「だからだ」
レイはあっさり言った。
「戦場は、選べない」
三人、絶望。
レイは背を向け、庭の奥へ歩いていく。
そこには――一本の、不思議な木があった。
葉は濃い緑、枝は低く、赤い実をつけている。
コーヒーの木。
しかも、サルコジ島の魔素を吸って育つ、剣聖の庭専用。
レイは慣れた手つきで実を摘みながら、ぼそりと言う。
「今日も平和だな」
マイが息を切らしながら言った。
「先生……平和の基準、ずれてます……」
「そうか?」
レイは、摘み取った実を籠に入れ、振り返る。
「走ってこい。港まで」
「往復?」
「当然」
「……死にません?」
「死ぬ前に止める」
「止める基準が怖い!」
三人が文句を言いながら走り出す背中を、レイはコーヒーの実を手に眺めていた。
ニベアがいない朝。
少しだけ静かで、少しだけ厳しくて。
でも――
コーヒーは、今日も変わらず、いい香りだった。
「……帰ってきたら、甘いもの焼いてやるか」
誰にも聞こえない声で呟き、レイは再び実を摘んだ。




