34話 使節団、出航前夜
ハイネ王宮。
石造りの回廊を抜けた先――「地図の間」と呼ばれる小さな執務室は、壁一面が大陸図で埋まっている。
夜更け。窓の外はしんと静かで、王都の灯りが遠く揺れていた。
机に向かうのは二人。
王配ウォーレンと、女王マルガリータ。
地図の上には、赤いピンがいくつも刺さっている。
北狼帝国の進路、ジャンヌ帝国の防衛線、交易路、港、そして――「噂」の広がり。
ウォーレンが、黒い羽根ペンを回しながら言った。
「……ジャンヌは、まだ崩れてない。むしろ、いまが一番“硬い”。」
マルガリータは頷く。
その横顔は冷静で、女王の顔だ。
「崩壊してない。バリバリ防衛してる。
重装騎士団の再配置、徴税の立て直し、穀物の備蓄、沿岸警備……全部、生きてるわ。」
「そう。だからこそ厄介だ」
ウォーレンは地図の「ジャンヌ帝国」を指でなぞる。
「外壁が堅い城って、落ちない。
……落ちるなら、内側からだ。」
マルガリータの視線が、刺した赤ピンの一つに止まる。
そこに書いたメモは短い。
――暴欲。騙欲。貪欲。
「侵入は、もう始まってる」
マルガリータの声が低くなる。
「暴欲は、港と裏路地を押さえる。
騙欲は、契約書と結婚で領地を食う。
貪欲は、金と飢えを利用して“人を買う”。」
ウォーレンは、肩をすくめて笑った。
「うちも気を抜いたら、同じことになるな」
「だから、送るの」
マルガリータは、迷いなく言った。
「ジャンヌ帝国に外交使節団を送る。
崩れてからじゃ遅い。崩れる前に連携する。」
ウォーレンは息を吐いた。
そして、わざと軽い口調にする。
「団長は、ビア」
マルガリータが即答する。
「ビア=ハイネ。
あなたと私の息子。ハイネの未来そのもの。」
ウォーレンのペンが止まった。
「……危ない役目だぞ」
「わかってる」
マルガリータは、珍しく少しだけ母の顔になる。
「でも、ビアは“表”に立てる。
王家の名、品格、正統性。——それだけで、相手は姿勢を正す。」
ウォーレンは「表」という単語を拾って、苦笑した。
「で、“裏”は?」
「ギネス内務大臣」
それを言うマルガリータの目は、完全に女王だった。
「ビアは名目上のお飾り。
実務の交渉、諜報の線引き、帝国の空気の計測……ギネスがやる。」
ウォーレンは頷き、机の端に置いた封筒の束を見た。
封蝋は王家の印。
「ジャンヌ皇帝――ノン=ジット・ジャンヌ。
返事はどう来ると思う?」
マルガリータは少し考え、淡々と言った。
「“良い返事”は、たぶん半分。
でも、拒絶はしない。彼は防衛の人だから。」
「壁を作るのが上手い男、か」
「ええ。だからこそ、壁の内側に入ってる“欲”が厄介なのよ」
沈黙が落ちた。
その沈黙を、ウォーレンがコツンと壊す。
地図の端に、ちいさく「家」と書いた。
「……アーモンドには、言ったのか?」
マルガリータは一瞬だけ目を伏せてから、答えた。
「言った。怒ってたわ。
“弟を政治に巻き込むな”って。姉だもの。」
「正しい反応だな」
「正しい。……でも必要よ」
ウォーレンは、机の下でマルガリータの手を探し、そっと握った。
女王の手は冷えていた。
「君が求婚した日から、ずっとこうだな」
マルガリータが、ちらっとウォーレンを見る。
「なにが?」
「君は“必要”を先に言う。
俺は、その後ろにある“怖さ”を見てしまう。」
マルガリータの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「……怖いに決まってるわよ」
「だよな」
ウォーレンは、手を握ったまま、少しだけ笑った。
「ラブラブで良かった。
こういう夜に、ひとりだったら胃が溶ける」
「あなたの胃は凡人仕様だものね」
「勇者様を胃薬で倒すな」
「倒せるわよ。私が求婚したんだから」
軽口が、二人の空気を少しだけ温めた。
けれど、次の瞬間。
マルガリータは真顔に戻る。
「ビアには、“王子”として行かせない。
“外交使節団長”として行かせる。守られるために行くんじゃない。交渉するために行くの。」
「わかった」
ウォーレンも真顔になる。
「ギネスには、念押しする。
ジャンヌは崩れてない。だからこそ油断がある。
暴欲・騙欲・貪欲が入り込む隙は、そこだ。」
「うん」
マルガリータは、封筒の一つを持ち上げた。
宛名は、ジャンヌ帝国皇帝。
ノン=ジット・ジャンヌ。
「この一通で、未来が変わる」
ウォーレンは静かに言う。
「変えよう。
俺たち、夫婦なんだから」
マルガリータが、少し笑って、封筒を封蝋で閉じた。
「ええ。あなたは私が選んだ王配だもの」
その夜、王宮の窓の灯りは、最後まで消えなかった。
息子が明日、剣の戦場ではなく――言葉の戦場へ向かうから。




