32話 赤月の夜と、雑な母と、最高のステーキ
月が、真っ赤だった。
血のように、熟れすぎた果実のように、夜空に張りついている。
「……最悪の夜じゃないですか」
クリームがヘルメットの下で、心底うんざりした声を漏らした。
満月、それも赤月。
魔物の魔力が活性化し、知能も攻撃性も一段階跳ね上がる――教科書的に言えば「新人を連れて行ってはいけない夜」だ。
「なんで、よりによって今日なんですか」
ぼやきは、正論だった。
「肉が一番うまい日だからだ」
即答だった。
前を歩くレイは、野良着姿で、肩に水筒、手にはコーヒーカップ。
剣は背負っているが、気分は完全に散歩だ。
「赤月のデビルバッファローは脂が乗る。
筋繊維が柔らかくなって、噛んだ瞬間に――」
「説明いらないです! 理屈が雑すぎます!」
クリームが叫ぶ。
その横で、マイとアーモンドは完全武装。鎧、武器、補助装備、対魔法符。
夜間・赤月・群生地――三重苦だ。
「弟子、つらすぎ問題」
「でも勝てばステーキ」
「……頑張るしかない」
三人は顔を見合わせ、無言でうなずいた。
欲望は、時に恐怖を上書きする。
少し後ろを、ニベアが歩いている。
こちらも野良着だ。エルフ女王が、完全に農家の嫁スタイルである。
だが足取りは軽く、赤月を見上げる表情には、どこか懐かしさすらあった。
「赤い月……久しぶりね。
こういう夜は、魔力の流れが単純になるの」
「単純……?」
クリームが聞き返す。
「ええ。強くなる代わりに、嘘をつかなくなる。
魔物も、人も、感情が前に出るわ」
「それ、余計に危なくないですか?」
「だから修行になるのよ」
ニベアはさらりと言った。
母親としてはアウト、師匠としては満点の回答だ。
森を抜けると、視界が一気に開けた。
草原。なだらかな丘。その向こうに――
「……多くない?」
アーモンドの声が引きつる。
いた。
デビルバッファロー。
一頭や二頭ではない。十、二十……いや、群れだ。
「群生地……」
「聞いてない!」
「完全に聞いてない!」
三人の悲鳴が重なる。
「まあ、そういうこともある」
レイは気にしない。
コーヒーを一口飲み、満足そうに息をつく。
「群れの方が肉の選別ができる」
「発想が猟師なんですよ!」
クリームが叫ぶと同時に、ニベアが一歩前に出た。
「落ち着きなさい。
ここからは、私が“横で”教えるわ」
「……横で?」
嫌な予感しかしない。
ニベアは地面に指先を伸ばし、軽く円を描いた。
淡い光が走る。昨夜教わった魔陣の簡略型だ。
「クリーム。維持、あなた。
魔力は流さなくていい。流れ“だけ”を感じて」
「え、今!?」
「今よ。実戦が一番覚えるもの」
「お母さん、雑じゃないですか!?」
「細かいことは後で褒める」
「褒められる前提!?」
だが、クリームの体は正直だった。
教わった通り、呼吸を整え、意識を地面に落とす。
魔陣が、わずかに応えた。
「……つながった?」
「上出来」
ニベアは本当に嬉しそうに笑った。
その瞬間。
――ドンッ。
地響き。
デビルバッファローの一頭が、こちらに気づいた。
「来る!」
アーモンドが前に出る。
「マイ、右! クリーム、維持!」
「了解!」
「……了解です!」
突撃。
赤月の下、黒い巨体が地面を削りながら迫る。
魔法は効かない。マジックキャンセラーが、空気を歪める。
だが。
魔陣が、踏ん張った。
「止まった……!」
完全ではない。だが速度が落ちる。
その一瞬で、マイが戦槌を振り抜いた。
「いっけえええ!」
鈍い衝撃音。
アーモンドが斬り込み、クリームが歯を食いしばって魔陣を維持する。
「……できてる」
ニベアが、静かに言った。
レイは一歩も動かない。
少し離れた場所で、コーヒーを飲みながら頷いている。
「いい焼き色になりそうだ」
「そこじゃない!」
弟子三人のツッコミが夜に響く。
数分後。
群れは散り、地面には倒れたデビルバッファロー。
息を切らす三人。
クリームは膝に手をつき、顔を上げた。
「……できました」
「ええ」
ニベアはそっと、娘の頭に手を置いた。
「ちゃんと、できたわ。
雑だったけど」
「雑なの認めるんですね!?」
だが、クリームは笑っていた。
怖かった。きつかった。けれど――楽しかった。
「帰ろう」
レイが言う。
「ステーキだ」
その一言で、全員の疲労が少しだけ消えた。
赤い月の夜。
雑な理由で始まった狩りは、確かな一歩を残して終わる。
ニベアは歩きながら、ふと思う。
――この子は、ちゃんと前に進んでいる。
レイはコーヒーを飲み、満足そうに息をついた。
精神安定。今日も効いている。
そして弟子たちは知る。
この師匠夫婦の修行は、いつだって命がけで、
だいたい最後は――とても美味しい。




