31話 「変態魔陣と、突撃命の突撃牛」
サルコジ島の夜は、ぬるい。
火山島の地熱が昼の熱を抱えたまま、潮風がそれをやさしく撫でていく。空には星が散って、村サルトリの明かりは少ない。――静かだ。静かすぎる。
だからこそ。
「よし。今日は夜間修行だ」
剣聖レイの一言で、庭の空気だけが戦場に変わった。
「夜間修行って、普通、瞑想とか、呼吸法とか……」
アーモンドが剣帯を締め直しながら、遠い目をする。
騎士団で鍛えた体力も精神力も、レイの“修行”の前では、だいたいサンドバッグ扱いだ。
「先生の夜間は、“命の保険を先に払う”って意味だよね」
マイが魔神の戦槌を肩に担いだまま言う。
その持ち方が、台所のすりこぎ棒みたいに自然で、逆に怖い。
「……私、来てまだ数日なんですが?」
クリームが魔道書を抱え、緊張で指先が白い。
汗をかいている。暑さじゃない。心の汗だ。
レイは、落ち着いていた。落ち着きすぎていた。
コーヒーを片手に、夜空を見上げている。
「対魔法、対人、対魔物、対魔将。まとめてやる。
今夜は“魔陣訓練”だ。勇者パーティーが組み上げた魔陣を伝授する」
「でた、勇者パーティーの遺産……」
アーモンドが嫌な予感で肩をすくめる。
「ただし、前提がある」
レイが地面に指先で円を描いた。
土の上に淡い光の線が定着していく。魔法陣じゃない。魔陣だ。線が“動いて”見える。呼吸しているみたいに。
「エンシェントハイエルフがパーティーに入っていること。
バフ、回復、対魔法防御、対物理――極限まで積んだ魔陣だ。
魔力が続く限り、永遠に回る」
「永遠って言いました? 今、永遠って」
マイが真顔で聞き返す。真顔だから重い。
「正確には“周囲の魔素がある限り”。
魔道士が自分自身を媒体にして、空気中の魔素を魔力に変換し、魔力を維持して、バフをかけ続ける。――つまり」
レイは淡々と言う。
「変態魔陣だ」
「自分で言った!」
アーモンドが即ツッコミを入れ、クリームが喉を鳴らした。
「そ、そんな……人体を発電所扱い……」
クリームが口に出しかけて、飲み込む。王族の教育で、言葉選びが先に働いたのが逆に不憫だ。
レイが続ける。
「歴史上、これを実戦レベルで使えたのは――ニベアだけ」
その名前が出た瞬間、空気がふわりと変わった。
花の香りが濃くなる。夜が一段、艶やかになる。
畑の向こう、暗がりから足音。
野良着姿のニベアが現れた。エルフ女王が、野良着だ。似合うのが腹立つ。しかも紅茶を持ってる。
「呼んだ?」
にこ、と笑う。
その笑顔は可憐なのに、圧がある。慈愛と支配が同居している。世界の美の双璧のうち、片方の“実務担当”だ。
レイは反射でコーヒーを飲んだ。
精神安定の儀式である。
「会議、終わったのか」
「終わったわ。転位で戻ったの。……あなたたち、夜に騒ぎすぎ」
ニベアが弟子三人を見て、やさしく目を細める。
やさしいのに“逃げ道がない”目だ。
クリームが背筋をピンと伸ばした。
「女王様……!」
「クリーム。今日は“女王様”じゃなくて、先生よ」
ニベアはそう言って、魔陣の線を覗き込む。
指先でなぞると、線が嬉しそうに光った。魔陣がニベアに懐いている感じすらある。
「……懐かしい。これ、勇者パーティーの最終形ね。
私が維持して、レイが切って、ゴヘイが補給して、ウォーレンが耐えて……」
言葉に、ほんの一瞬だけ影が差す。
ニベアの情感は、軽くない。長い時間を生きる者の“失ったもの”の重さが、会話の隙間に落ちる。
けれど、ニベアはすぐに笑った。
笑って、影を“しまい込む”のが上手い。王の顔だ。
「で、レイ。あなた、今夜これを見切り発射する気?」
「する」
「相変わらず脳筋ね」
「お前に言われたくない」
ニベアは紅茶を一口。香りだけで、弟子三人の腹が鳴る。
「じゃあ、今日の担当を決めましょう。――クリーム」
突然名を呼ばれて、クリームがびくっとする。
「は、はい!」
ニベアが柔らかく、でも逃げられない声で言う。
「魔陣を伝授するわ。エンシェントハイエルフは、エンシェントハイエルフに教える。
これは“技術”よ。血統契約魔法じゃない。だからこそ、基礎が甘いと崩れる」
クリームの喉が動く。
母に教わる、という事実が嬉しいのか怖いのか、自分でも判別できていない顔だ。
「……わ、私に、できますか」
「できるわ。あなたは次期女王。逃げる選択肢が最初からないもの」
「うっ……エルフ業界用語で“詰み”ってやつですか?」
アーモンドがぼそっと言って、マイが吹き出した。
「詰みって、なに? 美味しいの?」
「ドワーフ的に言えば“完成品を前にして設計図が燃える感じ”」
「それは泣く!」
クリームが思わず笑いかけて、すぐ口を押さえる。
笑っていいのか迷うところが、まだ“娘”だ。
ニベアは優しく、手を取った。
「緊張していい。むしろ、緊張できるのは賢い証拠よ。
でもね、魔陣は感情に引っ張られる。あなたの魔力は、あなたの心の形になる。
――だから、落ち着いて。呼吸。目線は、線の“流れ”を見るの」
ニベアの声は甘いのに、教え方は軍人みたいに的確だ。
そのギャップが、女王の怖さでもある。
レイが小さく咳払いして、コーヒーを掲げた。
「精神安定が必要なら、これだ。飲むか?」
「いらない。私は紅茶。あなたはコーヒー。夫婦の分業よ」
「分業って言葉、万能すぎるだろ」
弟子三人が、ニヤニヤする。
「先生、逃げられませんね」
「先生、胃、まだ大丈夫?」
「先生、顔が“助けて”って言ってます」
レイは無言でコーヒーを飲んだ。
飲めば飲むほど、人生のイベントが増える男である。
ニベアが手を離し、魔陣の中心に立つ。
「さて。今夜の実地訓練の標的――デビルバッファロー」
名前だけで、空気が冷える。
サルコジ島の夜の森に棲む、突撃命の突撃牛。肉が美味い代わりに、性格が最悪。
「アンチ魔法のウイルス魔法、“マジックキャンセラー”を使う。
魔法陣を崩す。詠唱を詰まらせる。――魔道士が嫌いなタイプの敵ね」
クリームが息を呑む。
“教わった魔陣を、すぐ試す”という流れが見えてしまったから。
レイはあっさり言う。
「だから、ちょうどいい。
魔陣で守りながら、対突撃、対解除、対恐怖、対物理圧。全部詰め込む」
「先生、訓練メニューが弁当箱みたいに詰め込み過ぎです」
アーモンドがツッコミ、マイが肩を震わせる。
「でも肉は美味いんだよね」
マイが真顔で言う。
「美味い」
レイが即答する。
ニベアが微笑んだ。
情感豊かな微笑みだ。恋人の顔、妻の顔、女王の顔が混ざった複雑な笑み。
「帰ったら、ステーキ。
頑張った子には、私のパンケーキの“いちばん苺が多い列”をあげる」
弟子三人の目が、同時に光った。
「勝ちました」
「勝てます」
「勝ちたいです!」
クリームが最後に言って、赤くなる。
今のは完全に本音だった。
ニベアは満足そうにうなずき、クリームの額に指を当てた。
「よし。覚悟ができた顔。
あなたに伝授する。魔陣の“維持”は、力じゃない。意志よ。
……あなたは、私の娘。できる」
その一言は、甘いだけじゃない。
長い時間を生き、国を背負い、失い、それでも前に進む者の“祝福”だった。
レイはコーヒーを飲み干し、カップを置いた。
その音が、夜の修行開始の合図になった。
「行くぞ。夜間修行だ。
目的は――生きて帰ること。ついでにステーキ」
「ついでの比重が大きい!」
三人のツッコミが夜に溶ける。
魔陣の光が足元を照らし、ニベアの紅茶の香りと、レイのコーヒーの香りが重なる。
静かなサルコジの夜。
その静けさを、今日も剣聖の村がぶち壊していく。




