30話 「地図の上の現実は、胃にくる」
ハイネ王宮の上階――“地図室”と呼ばれる部屋は、朝の光が柔らかい。
窓の外には、川と草原と、整った城下。平和の見本市みたいな景色。
……なお、部屋の中は地獄である。
大机いっぱいに広げられた大陸図。
赤い針、青い針、黒い針。紙片、書き込み、矢印、二重線。
そして中央に、胃に刺さる文字がどーん。
『北狼帝国(剛欲) 金狼ゴールドマン ※魔法無効』
「……うん、嫌な字面だね」
王配ウォーレン・ハイネは、いつもの“凡人の顔”でコーヒーを啜った。
英雄? 勇者? 大英雄?
肩書きが増えるほど、胃薬の必要量が増えるだけだった。
「嫌な字面で済むなら、まだ優しいわ」
女王マルガリータは、羽根ペンの先で北をトントン叩く。
声は落ち着いているのに、指先がわずかに硬い。
国を背負う人間だけが出せる緊張だ。
「北狼帝国は“侵略を続ける”というより、同化と移住で地図を塗り替える。
土地を奪うだけじゃない。人を動かして、文化と生活ごと上書きする」
「うちの国民の“生き方”を狩る感じだよね。……ひどい言い方だけど、合ってる」
ウォーレンは地図の上に小さなメモを置いた。
防衛線の維持(軍)
補給線の保全(物流)
民の士気(政治)
難民対策(行政)
「ジャンヌ帝国との連携は、ここが要だ」
マルガリータが西側に視線を滑らせる。
ハイネの西――ジャンヌ帝国。大陸の大国。陸軍国家。重装騎士団の突撃が売り。
「ジャンヌは、まだ崩れていない。むしろ“バリバリ防衛してる”。
問題は、内部に“侵入されてる”こと」
マルガリータが、帝国領内に小さく黒い印を打つ。
「暴欲、騙欲、貪欲。三匹……三席が、帝国内で匂いを残し始めてる」
「“戦場で負けて崩壊”じゃない。
“勝ち続けているからこそ、内側から腐る”パターンだね」
ウォーレンは、帝国の制度を思い出す。
貴族議会の一院制。票と金と婚姻で派閥が動く。王が優秀なら回るが、揺れると一気に歪む。
「ジャンヌは強い。軍も、壁も、騎士団の魂も。
でも、国内で“騙し”が通り、“暴”が増え、“死者”が増えると……」
「人は防衛線に立てなくなる」
マルガリータが言い切った。
「……ねえ、ウォーレン。連携するなら、“軍事同盟”だけじゃ足りない。
治安と金融と情報も繋がないと」
「だね。軍を繋ぐだけなら、ジャンヌの突撃癖に巻き込まれて終わる」
ウォーレンはコーヒーを置き、別の紙を引き寄せた。
ハイネ王国騎士団の編成表。重装歩兵と長弓隊の数字が並ぶ。
「ハイネは突撃が苦手。だからこそ、ジャンヌと組めば補完になる。
ジャンヌが前で押す、ハイネがラインを“折れないように支える”。
ただし――」
「ただし?」
「ゴールドマン本人は魔法が効かない。近接でしか落とせない。
つまり“戦場の勝ち”より、“戦場を作らせない”方が合理的なんだ」
マルガリータは眉を上げる。
「戦場を作らせない?」
「補給を切る。冬を使う。船を止める。
狼は強いけど、食う。走る。寝る。季節に縛られる。
“生き物”として追い詰める」
マルガリータの目が、女王の色になる。
冷静で、決断が速い。
「なら、海だわ」
「海?」
「北狼帝国は造船が強い。船が動く限り、補給も移住も成立する。
海軍力のない国が、海を軽視すると死ぬ。
ジャンヌは陸。ハイネは……造船と港がある。ここが鍵になる」
ウォーレンは、ふっと笑った。
「酒の輸出で整えた港が、まさか戦略資産になるとは」
「世界を酔わせてきた国が、今度は世界を醒まさないといけないのよ」
「名言っぽく言っても、胃は痛い」
「飲みなさい、コーヒー」
「はい……」
ウォーレンが啜った瞬間、扉がノックされた。
「女王陛下、王配殿下。外務騎士団より報告です。ジャンヌ帝国、国境守備を強化。
ただし、帝都周辺で詐欺事件の急増。資金洗浄の疑いあり――」
ウォーレンは目を閉じた。
“騙欲”の匂いがする。めちゃくちゃする。
「ありがとう。続けて、治安局の報告も。民政院にも回して」
マルガリータが淡々と指示を飛ばす。
女王はこういう時、強い。ウォーレンは知っている。
そして自分は、こういう時ほど凡人らしく“積み上げる”しかない。
ウォーレンは、地図に小さく三つの枠を作った。
連携の骨子(暫定)
ジャンヌ帝国との軍事協定:前線運用の役割分担(突撃=ジャンヌ/ライン維持=ハイネ)
治安・金融の共同対策:詐欺・略奪資金の流れを止める(騙欲対策)
港湾・海路の防衛:北狼の輸送を阻害(補給断ち)
情報共有網:魔将の浸透状況、犯罪ギルドの支部位置
難民対応の共同方針:人種差別撤廃国としてのハイネの責務(国内分断を防ぐ)
マルガリータは、ウォーレンのメモを覗き込み、頷いた。
「いい。現実的。派手じゃないけど、“折れない”」
「凡人だからね。派手なことすると、だいたい死ぬ」
「あなたが死んだら、私が困る」
「……それ、愛の告白?」
「国家運営の告白よ」
「はい、知ってた」
二人の会話に、地図室の空気がほんの少し緩む。
その緩みがなければ、心が持たない。
ウォーレンは、最後に北の紙片を指で押さえた。
「ゴールドマンを“倒す”じゃない。
“増えさせない”。“運ばせない”。“広げさせない”。
勝ち方は地味でいい。生き残れば、勝ちだ」
マルガリータは扉の方へ顔を向ける。
「全大臣を呼んで。外交、軍事、財務、民政、治安、港湾。
そして――ジャンヌ帝国への使者も準備。今日中に飛ばす」
地図室の外が、慌ただしく動き出す。
国が“戦争の顔”へ切り替わる音だ。
ウォーレンは、コーヒーを一口だけ残して言った。
「……ねえ、マルガリータ。僕が勇者になったの、事故だよね?」
「事故よ。だから責任もセット。諦めなさい」
「はい……」
凡人は、ため息の代わりに、コーヒーを飲む。
そして地図の上で、胃が痛い現実に線を引く。




