19話 決断と責任と未来へ (妖精王の花束と、白紙の聖典)
朝だった。
サルコジ島サルトリ村の朝は、海からの風が澄んでいて、火山の斜面に残る夜の冷えを、ゆっくり溶かしていく。
鶏が鳴き、牛が「もー」と鳴き、愛馬が「ヒヒン」と鳴く。
村民が家畜しかいない村の、いつものBGMである。
――なのに、今日は空気が違う。
家の前の庭。
普段なら訓練で穴が空き、木が折れ、地面がひび割れているはずの場所が、今朝だけは妙に整っていた。
理由は一つ。
「……式場、ここで合ってるよな」
剣聖レイが、コーヒーを片手に呟いた。
目の下に、うっすらクマがある。
剣聖のクマはだいたい「徹夜の修行」か「精神的な案件」だ。
後者だった。
レイは家にある“最大級のおしゃれ着”――つまり、普段の冒険服よりちょっとマシな服――を身にまとっていた。
だが剣聖が着飾っても、剣聖は剣聖である。
本人が気にしているのは服ではない。
これから起こることだ。
「お師匠……ほんとに“祝福”だけだよな……」
誰に言うでもなく、レイが小さく言った。
「祝福だけ、ですよね……?」
その声に、背後から即座に返ってきた。
「大丈夫です! 祝福です! 祝福しかありません!」
マイだった。
ドワーフ娘。小柄で、元気で、鍛冶工房の煙の匂いが似合う、かわいいやつ。
ただし鍛冶屋特有の“圧”もある。笑顔で言うことが重い。
「レイ先生。昨日の夜、ニベア様と何を話したんですか? もしかして逃走経路の相談とか――」
「してない。してないから。俺は逃げないって言った」
「言うだけなら、魚でも言えますよ」
「魚!?」
横からアーモンドが口を挟んだ。
重騎士。真面目で、常識人枠。ツッコミ担当。
騎士団で鍛えた「場の空気を読む能力」が、逆にこの家では苦労している。
「マイ、例えが雑。あと先生に魚は失礼」
「失礼じゃないです。昨日、先生、凍った魚みたいな顔してました」
「それは別世界線だな」
レイは、コーヒーを飲んで現実逃避をした。
庭の中央には、小さな白い布が敷かれている。
式台……ではない。
ただの「それっぽい場所」を作っただけだ。
そして、その白い布の前に。
エルフ女王ニベア・カーターが立っていた。
「……」
マイとアーモンドが、同時に息を呑む。
これでもかというほど美しい。
朝日が当たった銀髪は、光を抱いているみたいで、肌は透けるほど白い。
瞳は青く澄み、表情は凛として――
凛としているのに、どこか情が濃い。
愛が重い、あの女王の顔である。
服装は、王衣ではない。
だが儀礼のためのドレス――エルフの伝統の白を基調に、葉脈のような刺繍が入った衣――をまとっていた。
胸元には、細い鎖のペンダント。
それは王権を示すものではなく、ただ「女王としての責任」を刻むための飾りだ。
そして、ニベアの手には――
ブーケ。
花束なのに、花束じゃない。
空気が澄む。
香りが、心の奥を撫でる。
「妖精王の花束」。
真名を交換し、永遠の契りを結ぶときに持つ、エルフ最高位の誓約の象徴。
エルフの婚姻は、契約結婚が日常だ。
政略も、和平も、統治も、すべて「契約」で回る。
だから真名は交換しない。魂を触れ合わせない。
だが今日は違う。
ニベアが選んだのは、契約ではなく――
真の夫婦。
その意味を、マイとアーモンドは肌で理解して、背筋が伸びた。
「……目が眩む……」
アーモンドが小声で漏らす。
「眩むよね。これ、“美”っていうより“武器”だよね」
「マイ、それ言ったら怒られるよ」
「怒られてもいい。むしろ怒られてみたい。いや、違う、私は弟子です」
マイが自分で自分にブレーキをかけている。
そのときだった。
庭の端に、黒い影が落ちた。
空気が、変わる。
温度が、少し下がる。
世界が「説教モード」に切り替わる。
「――おはよう、みんな」
優しい声。
なのに、背筋が凍る。
現れたのは、黒づくめの尼服に身を包んだ女性――
禁欲のマリア。
シスターである。
なのに法王である。
しかも魔将第2席(実質トップ)である。
さらに言えばレイの母であり、師匠であり、孤児院の先生であり――
情報量が多すぎて、世界が追いつかない存在である。
そして何より。
暴力的な美貌だった。
ベールを頭にかけ、目を閉じたまま歩いてくる。
サキュバスの美貌は性別問わず魅了するため、普段から目を閉じている。
閉じているのに、あきれるぐらい美しい。
目を閉じた美が、怖い。
「……あの、法王様」
アーモンドが思わず正しい呼称を使った。
「呼び方は“お母さん”でもいいのよ?」
「いや、距離感!」
マイがツッコミを入れた。
マリアは微笑み、レイの前に立った。
そして、レイの顔の前に手を伸ばす。
レイが反射で半歩引く。
「逃げないで」
「逃げない。逃げないけど……手が怖い」
「失礼ね。優しい手よ?」
「その優しさが物理なんだよ」
レイが小声で言った瞬間、マリアはにっこりした。
「レイ君。今日は“祝福”だから安心して」
「……ほんとに?」
「ええ。今日は“祝福”」
その言葉に、レイがほっとした――
次の瞬間。
マリアが魔道バッグから、分厚い本を取り出した。
白い表紙。
白い背表紙。
白いページ。
999ページの白紙のホーリーバイブル。
何も書かれていない。
だが恐ろしい。
“マリアの言葉が聖書”だからである。
「――では、始めます」
マリアが宣言した瞬間、空気が揺れた。
祈りでも、詠唱でもない。
ただ「現場」の圧である。
マイとアーモンドは、歴史的な目撃者として背筋を伸ばした。
いや、伸ばさざるを得なかった。
ニベアは花束を胸に抱き、ゆっくり目を閉じる。
エルフとしては珍しい、明確な覚悟の仕草だ。
レイは――
コーヒーを飲んだ。
「レイ君、コーヒーは置きなさい」
「無理だ。これは精神安定剤だ」
「飲みながらでもいいわ。あなたらしい」
マリアは、白紙の聖典を開いた。
ページをめくる音だけが、やけに大きく響く。
そして、マリアは言った。
「ニベア・カーター。あなたは女王であり、責任を背負う者。
それでも、今日ここで――“真名の交換”を望むの?」
ニベアは、まっすぐ答えた。
「望みます」
声が震えていない。
凛としている。
だが、花束を抱く指先だけが、少し強く握られている。
愛が重い女王が、いまだけは軽く見えた。
それほどに真剣だった。
「レイ・バァフェット」
マリアが名前を呼ぶ。
「……はい」
レイが返事をした瞬間、マイが小声でアーモンドに囁いた。
「先生、“はい”って言えるんだね」
「言えるよ。普段は“コーヒー”しか言わないけど」
「今言った。私たち、結構ひどい」
レイは続けて言った。
「……俺は、ニベアのことが大事だ。
国も、民も、未来も、背負ってるのも知ってる。
それでも――一緒にいる」
剣聖の言葉は飾らない。
だが、嘘がない。
ニベアの頬が、ほんのり赤くなる。
「……それ、昨日の夜に聞きたかった」
「昨日は言っただろ」
「言ったけど、もっと言って」
「今、言った」
「もっと」
女王が甘えると、だいたい国が揺れる。
マリアが咳払いをした。
「はいはい。二人のイチャコラは後で。祝福を進めます」
「イチャコラって言うんだ、法王様……」
アーモンドが呻いた。
「言うのよ。お母さんだもの」
マリアは平然としている。
そしてマリアは、花束を見た。
「妖精王の花束……本物ね。
真名の交換は“魂の契約”。軽く扱うと死ぬわよ?」
「死ぬのは嫌です」
マイが反射で答えた。
「あなたは今日関係ない」
「すみません!」
マイが土下座しかけた。
ニベアは花束を高く掲げ、静かに言う。
「私は、契約のために生きてきた。
和平のために、政のために、血統のために。
でも――今日は違う」
女王の声が、柔らかくなる。
「私は、私として。
ニベアとして。
あなたと、未来を作りたい」
レイは、黙って頷いた。
そしてコーヒーを置いた。
――剣聖がコーヒーを置いた。
事件である。
マイがアーモンドの袖を引いた。
「見た? 先生、コーヒー置いたよ」
「見た。世界の終わりかもしれない」
「魔王が倒れた世界より、今のが怖い」
二人の小声が止まらない。
マリアは、白紙の聖典を閉じた。
「では、真名の交換に入ります」
ニベアが息を吸う。
花束の香りが強くなる。
エルフの真名は、魂の核だ。
それを渡すということは――
逃げ道を捨てるということ。
ニベアの唇が、ゆっくり動く。
「――私の真名は」
その瞬間。
「ちょっと待って!」
マイが手を挙げた。
全員が固まる。
空気が凍る。
海が静まる。
鶏が黙る。
マリアが、微笑んだまま首を傾げる。
「どうしたの、マイちゃん」
「えっと……真名って、交換したら、もう戻れないんですよね?」
「ええ」
「じゃあ……先生、逃げられないですよね?」
「逃げない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ、アーモンドさん。証人として記録してください。先生が逃げないって言いました」
「記録するの!?」
アーモンドが混乱しながらも、騎士団仕込みの真面目さでメモ帳を出す。
「“剣聖レイ、逃げないと宣言”……っと」
ニベアが、ぷっと吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
「……あなたたち、本当に可愛いわね」
そして、女王の顔に、情が宿る。
弟子たちへの愛情と、安心と、少しの照れ。
ニベアは、改めてレイを見る。
「レイ。私は、あなたの“責任”になる」
「……責任、重いな」
「私の愛は重いわよ?」
「知ってる」
「でも、責任だけじゃない」
ニベアの声が、柔らかくなる。
「未来になる」
レイが、ゆっくり息を吐いた。
「……わかった」
マリアが満足げに頷く。
「いいわ。では、続けましょう」
ニベアが、今度こそ真名を口にする。
音が、空気に刻まれ、花束の光が淡く揺れる。
レイも、真名を返す。
その瞬間――
妖精王の花束が、ふわりと光った。
花びらが舞い、朝の光と混ざり合い、二人の周囲に淡い輪を作る。
魔法陣ではない。
古代魔法でもない。
血統契約もいらない。
ただ“魂の契約”が、世界に刻まれる。
ニベアの瞳が潤む。
だが涙は落ちない。
女王としてではなく、ひとりの女性として、胸が震えている。
「……これで、逃げられないわね」
ニベアが小さく言う。
「逃げないって言った」
「逃げたら?」
「……マリア先生が追う」
レイが真顔で言った。
マリアがにっこりした。
「追うわよ?」
「ですよね」
マイとアーモンドが同時に頷いた。
マリアは白紙の聖典を掲げ、厳かに――しかしどこか日常のテンポで言った。
「我、禁欲のマリア。
魔道教会法王として、尼として、母として。
二人を祝福します」
そして、マリアは続けた。
「――健やかに。
強く。
優しく。
そして、間違ったら……」
マリアが微笑む。
「その時は、お母さんが正してあげる」
レイが青ざめた。
「正すって、物理で?」
「もちろん」
マイが即座に手を挙げた。
「私、今のうちに謝っておきます! 将来の分も!」
「あなたはいい子ね」
マリアが嬉しそうに頷く。
アーモンドは、額に手を当てた。
「……これ、結婚式っていうより、儀式と災害の中間……」
ニベアは、ふっと笑った。
そして、レイの腕にそっと触れる。
エルフの習慣では控えめな触れ方。
だが意味は強い。
「レイ」
「ん?」
「あなたは、私の未来」
レイは、少しだけ目を逸らした。
照れたのだ。剣聖が。
「……コーヒー飲みたい」
「飲んでいいわ」
「……うまいな」
「うん」
マリアが満足そうに頷き、白紙の聖典を閉じた。
「よし。祝福は終わり。次は朝ごはんね」
「朝ごはん!?」
マイが目を輝かせる。
「お母さんの料理、久しぶり!」
「私も楽しみです」
ニベアがさらっと言う。
女王なのに、生活力が強い。愛が重い。
レイは小さく呟いた。
「……決断と責任と未来へ、ってこういうことか」
その言葉に、ニベアが笑う。
「そう。
逃げないで。
今日から、全部一緒よ」
マイとアーモンドが顔を見合わせ、同時にニヤリとした。
「先生、これから毎日いじれるね」
「うん、いじれる。ていうか、いじらないと耐えられない」
そして二人は、揃って言った。
「――おめでとうございます、先生!」
剣聖レイは、コーヒーを掲げた。
「……ありがとう」
ブルームーンの夜が明けて、
祝福の朝が始まった。
決断は、もう終わった。
ここから先は――
責任と、未来と、
そしてたぶん、毎日のカレーと、
愛が重い同棲生活である。




