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マイアーモンドクリーム----コーヒー好きな剣聖は今日も弟子を鍛えます---  作者: イサクララツカ


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19話 独身最後の夜 (ブルームーンと、剣聖のため息)


 普通――

 結婚前夜に悩み、落ち込み、眠れなくなるのは女性だという。

 世ではそれを「マリッジブルー」と呼ぶらしい。

 未来への不安、環境の変化、責任の重さ。

 幸せのはずなのに、なぜか胸がざわつく、あの現象。

 だが、この夜。

 サルコジ島サルトリ村で、月を見上げながら深いため息をついているのは――

 剣聖レイだった。

「……はあ……」

 吐いた息が、夜気に溶ける。

 コーヒーの香りが、いつもより深く、苦く、そしてやさしい。

 今夜はブルームーン。

 巨大な満月が、火山島の上にゆっくりと昇り、海と森と村を淡く照らしている。

 年に一度あるかないかの特別な満月――と、どこかの吟遊詩人が言っていた。

 レイは縁側に腰掛け、マグカップを両手で包みながら、月を見ていた。

 静かだ。

 あまりにも、静かだ。

 家の中では、マイとアーモンドが既に眠っている。

 明日はいつも通りの修行……ではない。

 明日は、祝福の日だ。

 禁欲のマリアが、法王庁へ戻る前に、

 尼として、法王として、そして母として――

 ニベアとレイに、正式な祝福を与える。

 それが、明日の朝。

 つまり今日は。

「……独身、最後の夜か」

 自分で言って、またため息が出た。

 剣聖として、魔王を討ち、魔神と戦い、魔将を睨み、

 死線を越え続けてきた男が、

 今いちばん怖いのは――

 結婚である。

「……いや、違うな」

 レイは月に向かって、小さく言い直した。

「結婚が怖いんじゃない。

 ニベアが……怖い」

 即答だった。

 頭に浮かぶのは、あの青銀の髪。

 凛とした横顔。

 国を背負う女王の眼差し。

 そして、あの――

『逃げるな、レイ』

 あの声。

 あの掴む力。

 あの、重い愛。

「……愛が、重いんだよな……」

 剣聖は、静かにカップを口に運ぶ。

 ――うまい。

 同じ豆。

 同じ焙煎。

 同じ淹れ方。

 なのに、今日はやけに違う。

 違いがわかる剣聖であった。

「……泣くほどじゃないけど」

 喉が、少し詰まる。

 思い返せば、すべて事故だった。

 本当に。

 出会いも、抱きしめたのも、手を引いたのも、

 夜に声をかけたのも、戦場で背中を預けたのも――

「全部、事故だって……」

 そう呟いて、苦笑する。

 だが。

 事故が、十八回も重なれば。

 それはもう、事件である。

 レイは、膝の上で拳を握った。

「……俺は、剣しか振ってこなかった」

 剣を振れば、答えは出る。

 勝つか、負けるか。

 斬るか、斬られるか。

 だが、結婚は違う。

 正解がない。

 終わりがない。

 しかも相手は、エルフ女王だ。

 国家。

 政治。

 寿命。

 血統。

 古代魔法。

 責任。

 考えれば考えるほど、胃が痛い。

「……マリア先生は、なんであんなに軽いんだ……」

 思い出すのは、今日の夕方。

『決断は早い方がいいわよ?

 レイ君、あなた、優柔不断なところあるから』

 優柔不断。

 剣聖が言われたくない単語、第一位である。

 そのときだった。

 ――足音。

 気配は、隠されていない。

 むしろ、わざとだ。

 レイは、振り返らずに言った。

「……眠れないか、ニベア」

「ええ」

 返事は、静かだった。

 縁側の端に、ニベアが立っている。

 月光を受けたその姿は、まるで物語の挿絵だ。

 ドレスではない。

 王衣でもない。

 ただの、夜着。

 それなのに、世界一の美貌は隠せない。

 ニベアは、ゆっくりと隣に座った。

 距離は、近い。

 だが触れない。

 エルフの習慣だ。

 夜は、静かに、距離を保つ。

「ブルームーンね」

「ああ」

「エルフでは……“決断の月”とも呼ぶわ」

「……縁起いいな」

 皮肉のつもりだったが、

 ニベアは、ふっと微笑んだ。

「怖い?」

 直球だった。

 レイは、一瞬黙り、

 そして正直に答えた。

「……怖い」

 剣聖の答えとしては、異例だ。

 ニベアは怒らなかった。

 笑いもしなかった。

 ただ、月を見上げたまま言う。

「私もよ」

 レイが、驚いて横を見る。

「女王だって、怖い」

「……そうなのか」

「ええ。

 国を選ぶより、

 戦争を決断するより、

 あなたを選ぶ方が、ずっと怖い」

 静かな声。

 だが、そこに迷いはない。

 ニベアは、レイを見る。

「でもね、レイ」

 指先が、ほんの少しだけ、レイの袖に触れた。

 エルフとしては、最大限の接触だ。

「私は、事故でもいいの」

「……え?」

「事故の積み重ねでも、いい。

 あなたが、逃げながらでもいい」

 その瞳は、真っ直ぐだった。

「一緒に生きてくれれば、それでいい」

 剣聖の喉が、鳴った。

 コーヒーが、急に熱く感じる。

「……ずるいな」

「何が?」

「そんなこと言われたら……

 逃げられない」

 ニベアは、少しだけ、勝ち誇ったように微笑んだ。

「逃げないって、約束したでしょう?」

「……ああ」

 レイは、満月を見上げた。

 ブルームーンは、優しく、静かに、

 二人を照らしている。

「……明日、よろしくな」

「こちらこそ。

 剣聖殿」

 そう言って、ニベアは立ち上がった。

「おやすみなさい、レイ。

 独身最後の夜」

「……ああ。

 おやすみ」

 ニベアが去り、再び静寂が戻る。

 レイは、最後の一口を飲み干した。

「……コーヒー、うまいな」

 泣きはしなかった。

 だが、胸の奥が、少しだけ温かかった。

 独身最後の夜は、

 こうして、静かに、優しく、

 終わっていった。

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