18話 北狼帝国(「美の双璧、会議(※胃が死ぬ)」)
食事が終わった。
鍋の底まで綺麗にさらわれたライスカレーの余韻が、まだ台所に残っている。
香辛料の甘い残り香。湯気の名残。満腹の幸福。――そして、それを上回る緊張感。
居間の卓を挟んで、**二つの“世界”**が向き合って座っていた。
右に、禁欲のマリア。
黒い尼服。目は閉じたまま。なのに、空気の支配権を完全に握っている。
微笑みだけで人を救い、同時に逃げ道を塞ぐタイプの母性。
左に、エルフ女王ニベア。
青銀の髪、透けるような肌、凛とした気品。
視線ひとつで国が動く女王が――今は、妙に姿勢が良くて、妙に真面目だ。
そしてその二人の間に、剣聖レイが座っていた。
……座っていた、というより、縮こまっていた。
端から見れば、会議。
実態は、家庭訪問の第二ラウンドである。
マイとアーモンドは、少し離れた位置に並んで座り、口元を押さえて必死に耐えていた。
(やばい。笑う。今、笑ったら死ぬ)
(でも現実なんだよねこれ。剣聖が真ん中で小さくなってるの)
マリアの家庭訪問は、孤児院育ちにとっては“母に会える日”だ。
嬉しい。尊い。泣ける。
だが、剣聖レイにとっては――
(毎回これか……)
前回は、内臓が出て、足が向いてはいけない方向を向き、地面が割れて、村が泣いた。
それでもマリアの回復魔法で“治る”。
いや、治るというか――
強化されて戻る。
もはやそれは回復ではなく、教育である。
尼の愛は重い。しかも物理。
マリアが、湯飲みを置く音がした。
それだけで、空気が「本題」に切り替わる。
「ニベアちゃん」
呼ばれた瞬間、ニベアの背筋がさらに伸びた。
女王の礼儀正しさが、こういう場面で一番発揮されるのが不思議だった。
「はい、マリア様」
“様”が付く。
女王が、尼に“様”を付ける。
マイが、アーモンドの肩をつつきたくなって、やめた。
命が惜しい。
マリアは、優しい声で言った。
「可愛いわねえ。あなた」
ニベアは、ほんのり頬を赤くする。
エルフは恥の文化。褒められると弱い。特に、母性に褒められると弱い。
次に来るのは、わかっている。
わかっているのに、避けられない。
マリアは、さらりと続けた。
「で。レイ君とは――結婚しないの?」
――空気が、止まった。
レイが、反射でコーヒーを探して手を伸ばす。
そこにコーヒーがあるわけがない。
だが、癖は怖い。
ニベアは、真顔で聞いていた。
女王の会議顔だ。政治の顔だ。
恋の話をされても、受ける姿勢が“外交”になる。
マイとアーモンドは、互いの顔を見ないようにしていた。
見たら負ける。笑う。死ぬ。
「それにしてもね」
マリアは、懐かしそうに首を傾げる。
「レイ君が若いころ、あなたと組んでたカップルパーティー。
毎回、名前が変わるのよねえ。中二病みたいな」
レイが、ついに耐え切れず、コーヒーを吹いた。
「ぶっ……!」
ないはずのコーヒーを吹いた。
正確には、さっき飲んだ水分を、悲鳴と一緒に噴いた。
「マリア先生、それ言わなくていいやつ……!」
「え? だって可愛かったじゃない。
“漆黒の——”とか、“蒼炎の——”とか。覚えてるわよ?」
「覚えなくていい!!」
ニベアは、目をぱちぱちさせた。
その顔が、女王の顔から一瞬で“少女”になる。
「……え、レイ。なにそれ。私は……名前、そんなの付けた覚え……」
「ニベア、付けた。お前が言い出した」 「言い出してないです。私は女王です」 「当時は女王じゃなかっただろ」
そこへ、マリアが追撃を入れる。
優しさ100%、破壊力100%。
「ニベアちゃん、私にね、こう言ったのよ。
『お母さん、レイをください』って」
ニベアの顔が、真っ赤になった。
「い、言ってません……!」 「言ったわ」 「言ってません! エルフは……恥の文化です……!」 「恥の文化のわりに、言うことは大胆だったわよ?」
マイが、耐えきれず小声で呟いた。
「……中二病ってなに?」 「知らん……けど、今それ聞くの命がけ」
アーモンドは腹を押さえた。
騎士団仕込みの耐久が、ここで試されている。
マリアは、笑顔のまま、急に真剣な声になった。
「ねえ、ニベアちゃん。エルフの時間で待ってたら……
あなた、レイ君の骨と結婚しなきゃいけなくなるわよ?」
「待って待って待って待って」
レイが慌てて両手を上げる。
「俺、骨になる前提なの!?」 「なるわよ」 「断定!?」 「危機管理よ」
ニベアは――笑わなかった。
冗談に聞こえないからだ。
剣聖は強い。だが、世界は混迷している。魔将が暴れている。
そして何より、彼女は知っている。
“強い”が“死なない”の保証にならないことを。
ニベアは、唇をきゅっと結び、真面目に頷いた。
「……結婚したいです。します。ね? レイ」
レイは、逃げるように言った。
「……コーヒー飲む」
ニベアの手が、レイの腕を掴んだ。
細い指なのに、女王の拘束力がある。
「逃げるな」
声が低い。
怒っているというより、泣きそうなのを我慢している怒りだ。
ニベアは指を折り始めた。
「私に、恥を何度かかせたと思ってるの。数えるわよ?」
「やめろ、裁判みたいに言うな」 「一回目」
ニベアは淡々と言う。
「泉で、いきなり抱きしめられた」 「事故だ。目の前に落ちそうだったから」 「私は初めてだった。キュンとした」
マイとアーモンドが、同時に顔を伏せた。
(事故じゃないだろこれ)
(騎士団なら“日常の事故”かもしれんが、恋愛では事件)
「二回目」 「待て待て、まだ続くの?」 「続く。三回目、港で手を引いた」 「人混みではぐれるから!」 「四回目、夜、見張りの交代のときに“眠れ”って髪に触れた」 「体温測っただけだ」 「五回目、戦場で“帰るぞ”って――」
レイが、完全に死んだ目になった。
マイが、アーモンドの耳元で囁く。
「レイ先生、剣は強いのに言い訳が弱い」 「わかる。騎士団の“事故”ってだいたいそう」
マリアは、湯飲みを片手に、楽しそうに言った。
「ふふ。いいわね。青春ね」 「青春じゃないです、女王です」 「女王でも青春はするのよ」
ニベアは、途中で言葉が詰まった。
指を折るのをやめて、レイの腕を掴んだまま、少しだけ視線を落とす。
「……私は、怖いの」
声が小さくなる。
エルフの“恥の文化”は、弱さを隠す文化でもある。
だからこそ、言葉にした瞬間の破壊力が大きい。
「あなたが、いなくなるのが」
レイは黙った。
コーヒーの逃げ道がない。
マイとアーモンドも、笑うのをやめた。
空気が静かに重くなる。
マリアは、そこで話題を“母”の手つきで切り替えた。
優しく、しかし強制的に。
「――うん。じゃあ決断は早い方がいいわね」
ニベアが顔を上げる。
目が潤んでいるのに、女王の目をしている。
「……はい」
レイは、観念したように息を吐いた。
「……検討する」 「検討じゃない」 「……前向きに検討する」 「逃げるな」
アーモンドが耐えきれず、ついにツッコんだ。
「先生、政治家みたいな答弁やめてください!」 「剣聖の答弁は弱いんだな……」
マイが頷く。
「鍛冶で言うと、“芯が通ってない”」 「誰が芯なしだ」
レイが反射で返す。
空気が少しだけ軽くなった。
――そこで、マリアが本当に“家庭訪問の目的”を口にした。
声は相変わらず優しい。
だが、内容は重い。
「さて。笑い話はここまで」
マリアは湯飲みを置き、指先を組む。
目を閉じたままなのに、その場の全員が“見られている”気になる。
「北の大地。
狼とワーウルフが統一されて――北狼帝国ができたわ」
ニベアの表情が、女王のそれに戻る。
涙の湿り気が残っているのに、声は揺れない。
「……ゴールドマン」 「そう。剛欲のゴールドマン」
マリアは続ける。
「魔法が効かない。反射する盾。剛力。速さ。
そして――あの子は、戦争を“勝つ”より、支配を“続ける”タイプよ」
マイが息を呑む。
アーモンドは拳を握る。
レイは、ようやくコーヒー以外の顔になった。
「……北狼帝国は、南へ動くのか」 「動くわ。もう動いてる」
ニベアが言葉を継ぐ。
「私の夫――王配アトリック=カーターは、討伐戦で戦死した。
理由は調査中。だが、確定しているのは一つ」
ニベアの指先が微かに震える。
怒りではない。悔しさだ。
そして、決意だ。
「……ゴールドマンには、魔法が効かない」
マリアは、静かに頷いた。
「だからこそ、あなたたちが必要なのよ」
その“あなたたち”に、マイとアーモンドが含まれていると気づいた瞬間。
二人の背筋が同時に伸びた。
ニベアが、少しだけ視線を落とし、そして言った。
「クリームを――剣聖の弟子にします」
レイが短く息を吸う。
マリアは微笑む。
マイとアーモンドは、顔を見合わせた。
(増える……)
(弟子、増える……)
(家、増築……)
レイが、低く呟く。
「……コーヒーが要るな」 「逃げるな」
ニベアが即座にツッコむ。
そのツッコミには、さっきまでの湿った感情が少し混じっていた。
そしてマリアが、やけに明るく言った。
「大丈夫。北狼帝国の話をする前に、まずは――
明日の朝も稽古よ」
「え?」
マイとアーモンドが同時に固まる。
マリアは、にこにこしながら言った。
「北狼帝国は怖いわ。でもね、怖いからこそ、鍛えるの。
ほら、いい子たち。逃げない」
レイが、人生で一番小さい声で言った。
「……母さん、家庭訪問って何だっけ」
ニベアが、レイの腕を掴んだまま、少しだけ笑った。
女王の笑みだ。重い愛の笑みだ。
「逃げないでね、レイ。私も逃がさないから」
マイとアーモンドは、互いに手を握り合った。
「生きよう」 「うん、今日も生きよう」
こうして、サルトリ村の夜は更けていく。
カレーの香りが消えたあとに残ったのは――
美の双璧と、剣聖と、弟子二人と、
そして、北狼帝国という“現実”だった。




