17話 ライスカレー
稽古が終わった――と断言できるのは、世界でたぶん一人しかいない。
その一人が「禁欲のマリア」本人である以上、反論する権利など誰にもない。
サルトリ村の庭先は、もはや「庭」ではなかった。
地面は割れ、石は砕け、木は途中から消し飛び、火山島の黒土が露出している。
空気には、鉄が焼けた匂いと、草が焦げた匂いと、――あと、なぜか「清々しい敗北の香り」が混ざっていた。
庭の真ん中。
剣聖レイは、完全武装のまま地面に片膝をつき、肩で呼吸していた。汗が鎧の隙間から滴る。
息は荒いのに、表情だけは妙に落ち着いている。いつもの「悟った顔」だ。
その数歩先に、禁欲のマリア。
黒ずくめの尼服のまま、モーニングスターと刃を潰したロングソードを軽く回し、カチ、と金属音を鳴らして納める。
「うん。よく動けたわ、レイ君」
マリアは微笑む。
優しい。極めて優しい。
なのに、空間がさっきまで「割れてた」のである。説得力が暴力で裏打ちされすぎている。
見学席(という名の安全地帯)にいたマイとアーモンドは、遅れて息をした。
「……終わった、の? あれ、終わったの……?」 「終わったっていうか……“終わらせてもらえた”っていうか……」
マイは鍛冶屋の娘らしく、粉塵が舞う庭を見て評価を下す。
「工房の壁、あとで補強いるね。地盤がね、うん。地盤が死んでる」 「地盤の心配してる場合!? 私の心も死んでる!」
アーモンドは叫んだ。重騎士のはずなのに、精神の方が薄い装甲だった。
そして、縁側に立つもう一人――エルフ女王ニベア。
青銀の髪が風に揺れて、光を含んで流れる。
その姿だけで世界が「芸術作品」になるのに、彼女は真顔で腕を組み、稽古の余韻で荒れた庭を見下ろしていた。
瞳が、ちょっと潤んでいる。
怒っているのではない。
――「胸の奥が、きゅっとなるやつ」だ。
「……レイ」
名前を呼ぶだけで、空気が変わる。
エルフの声は澄んでいるのに、感情が濃い。薄めたら飲めないタイプだ。
レイは、何も言わずにコーヒーのカップを探した。
ない。武装してるし、稽古中だったし、当然ない。
「ニベア、コーヒー……」 「今は、コーヒーじゃありません」
即座に否定された。
マリアが、くす、と笑う。
「ふふ。ほらね、レイ君。固いのよ、あなた。すぐコーヒーに逃げる」 「逃げてない。戦術だ」 「戦術は、心の話でも使えるの?」 「……使える」
言い切った。
剣聖、会話の受け身が硬い。
その瞬間。
マリアは、ゆるりと手を広げた。
「はい。お疲れさまの時間よ。みんな、こっち」
次に起きたことは、魔法というより「家庭の奇跡」だった。
空から、やわらかな雨が降る。
熱を奪う冷たい雨じゃない。ぬるくて、肌に優しくて、汗と砂と焦げを洗い流す雨。
しかも、ふわっと甘い香りがする。南国の果物みたいな、幸せの匂い。
「なにこれ……」 「……いい匂い……」
アーモンドとマイが同時に呟く。
マリアが胸を張る。
「トロピカルシャワー。汗と疲労と、ついでに“嫌な思い出”も洗い流すの。尼の嗜みよ」
「尼の嗜みの範囲が広すぎる!」 「うちの鍛冶場、これ欲しい……煤も落ちるよね……?」
マイの目が職人のそれになった。
ニベアは、雨に濡れた髪をそっと指で払う。
香りの雨に包まれているのに、表情はまだ少し硬い。
――エルフは恥の文化。
感情を露骨に見せるのは「品がない」。
だからこそ、抑えて抑えて、溢れそうになって、最後に「言葉」が尖る。
「……レイ。無茶をしすぎです」 「してない。いつも通りだ」 「その“いつも通り”が、問題です」
言い切った瞬間、ニベアは自分で自分の語気に気づいて、視線を落とす。
女王のくせに、恋の場面では不器用だ。
マリアは、そんなニベアを見て、すごく優しい顔をした。
ただし、その優しさの裏には「絶対に逃がさない教育者の目」がある。
「よし。汗流した。次は――ごはん」
マリアは、魔道バッグを肩にかけたまま、さっさと家に入っていく。
尼が家庭訪問に来て、庭を更地にして、台所を掌握する。
日常とは何かを考えさせられる。
レイが、無言で後を追う。
マイとアーモンドも、なぜか反射でついていった。
ニベアだけが一瞬立ち止まり、壊れた庭を見つめる。
(……昔も、こんなふうに。
戦って、壊して、笑って、食べて……
それでも、また明日が来るのが、嬉しかった)
彼女は小さく息を吐いて、家に入った。
台所。
マリアは迷いなく鍋を出し、米を見つけ、火を起こし、香辛料の棚を開け――
「あるじゃない。レイ君、相変わらずカレー好きね」 「村の防衛より優先してる」 「え、カレーって防衛なの?」 「防衛だ」
レイが即答したせいで、マイとアーモンドが笑いそうになり、でもマリアがいるので笑えない。
マリアは、手際が良すぎた。
野菜を切る音が軽快で、鍋の中で玉ねぎが甘くなる香りが立ち上がる。
スパイスが油で弾ける音は、小さな花火みたいだ。
ニベアは、台所の隅で静かに見ていた。
彼女は女王で、料理人ではない。
それでも、マリアが「母」の顔で動くのを見ていると、胸の奥がじんとする。
(この人が、レイを育てた。
そして、今――私の前で、当たり前のように“ごはん”を作っている)
それが、妙に眩しい。
「ニベアちゃん」
マリアが呼ぶ。
ニベアは、はっとして姿勢を正した。
「……はい」 「そこ、座ってなさい。あなたは“見てる係”でいいの」 「私は女王です」 「女王でも、今日は見てる係」
命令形なのに、声が優しい。
ニベアの頬が、ほんのり赤くなる。怒りではない。
そして――出来上がった。
湯気の向こうに、黄金色のカレー。
米はふっくら。香りは深く、甘く、辛く、懐かしい。
「はい。ライスカレー」
マリアが、皿を並べる。
湯気の匂いだけで、腹が鳴る。
最初に口をつけたのは、アーモンドだった。
騎士団仕込みの「我慢」を一瞬で捨てた。
「……うまっ!? え、なにこれ、え、母!?」 「母って言った!? 今、言った!」 「言ってない! 言ってないけど、言ったかもしれない!」
マイは一口食べて、目を丸くする。
「スパイスの配合が……暴力。優しいのに暴力……」 「褒めてるわよね?」 「最高に褒めてる……!」
レイは、黙って食べる。
そして、ひとこと。
「……お袋の味だ」
その言葉が、ニベアの胸に刺さる。
良い意味で。
ちくりと、でも温かい。
ニベアも一口食べた。
舌の上で広がる香りに、思わず目を伏せる。
「……美味しい……」
女王の声が、柔らかくなる。
その瞬間だけ、政治も戦争も遠い。
マリアはニコニコしながら、みんなを見回した。
目は、相変わらず閉じたまま。
なのに、全員の表情を見ているみたいに、ぴたりと空気を読む。
「うん。いい子たちね。レイ君の弟子――マイちゃん、アーモンドちゃん。覚えたわ」 「覚えないでください、怖いんで」 「覚えないでください、逆らえないんで」
二人が同時に言って、ニベアが小さく笑った。
笑った自分に気づいて、照れて咳払いする。
マリアが、カレーを食べながら、ぽつりと言った。
「さて。食べたら、少し大事な話をするわよ」
レイがカップを探す仕草をした。
「コーヒー……」 「逃げない」
マリアが即ツッコミを入れる。
アーモンドとマイが、顔を見合わせてニヤニヤする。
ニベアは、スプーンを握りしめたまま、背筋を正した。
女王の顔になる。
けれど、その瞳の奥には――まだ、レイの隣でカレーを食べられることへの小さな幸福が残っていた。
その「甘さ」と「重さ」が同居しているのが、ニベアという女王だった。




