13話 世界の美の双璧
サルコジ島の夜は、静かだ。
潮の匂いと火山島の乾いた風が混ざり、家の窓を軽く叩く。ランタンの灯りが揺れ、鍋の残り香――シーフードカレーのスパイスが、まだ台所に居座っている。
そして、そのカレーの余韻を、全部ぶち壊すように。
食卓の上、空中に――“光ではないのに眩しい”魔法陣が現れた。
円が重なり、幾何学が折り畳まれ、文字が踊る。
魔力で空間を縫う、古式の転移儀式。しかも、ただの転移じゃない。“威圧”まで一緒に連れてくるやつ。
「……これ」
ニベアの声が、すっと女王の声に変わる。
感情の波が収まり切っていないのに、王権の硬さだけは一瞬で戻る。エルフの女王は、感情と理性を同時に抱える生き物だ。
「魔道教会……法王庁の陣」
マイが、洗い終わった鍋を落としかけた。
「え、あの“説教が郵便より早い”教会の……?」
「やめろ、変な二つ名を増やすな」
レイがコーヒーを持ち上げる。平然。いつも通り。
でも、口角が一ミリだけ固い。剣聖の“嫌な予感メーター”は、静かに天井をぶち抜いている。
空間が歪む。
裂け目が開く。
そこから出てきたのは――黒い尼衣に身を包んだ“影”だった。
足音はない。
なのに、家の空気が正座を始める。
彼女は目を閉じている。
閉じているのに、そこにいる全員が「見られている」と感じた。
ありえないほど整った輪郭。
息をのむほどの肌の白さ。
言葉にした途端、負ける気がする美貌。
――禁欲のマリア。
魔道教会の法王。尼。
魔将第2席。けれど第1席が無欲で国を持たないため、実質“魔族側のトップ”。
孤児院の先生で、教育熱心で、優しくて、そして――説教が基本、物理。
サキュバスゆえ、その美貌は種族も性別も問わず魅了する。
だから、普段は目を閉じている。目を閉じてなお、あきれるほど美しい。
「こんばんは。サルトリ村」
声まで優しい。
優しいのに、逃げ道がない。
マイが小声で震える。
「……先生の“お母さん”って、こういうタイプなんですか……?」
アーモンドが同じく小声で返す。
「騎士団の教官より……強い気がする」
「気がするじゃない」
レイがコーヒーを一口飲んで言った。
「強い」
ニベアは立ち上がり、女王として礼を――しかけて、止めた。
目の前の存在は“礼”でどうにかなる相手じゃない。礼は必要。でも、それだけでは足りない。
「禁欲のマリア……あなたが、レイの」
「母よ」
マリアがにこりと微笑む。目は閉じたままだ。
「そして、レイの師匠」
ニベアの背筋に、冷たいものが走る。
“母”と“師匠”が同じ存在――それはつまり、愛も教育も、全部この人の手のひらの上にある。
ニベアは、女王の理性を保ちつつ、感情が波打つのを止められなかった。
美の双璧? そういう称号は、政治には便利だ。外交の場では武器になる。
でも今、この狭い家の中で――それは、ただの“比べられる”材料にしかならない。
「……噂には聞いていたわ。あなたが、世界の美の双璧の片翼だと」
マリアが、何でもないように言う。
ニベアの頬が、ほんのわずかに熱を帯びた。
誇りではない。警戒だ。
エルフの“恥の文化”が、ぷすぷすと燃えはじめる。
「好みの問題でしょう。エルフの美は、繊細で――」
「そうね。あなたは繊細。だから、怒ると可愛い」
ニベアの口が止まった。
「……可愛い?」
「ええ。怒りが香るの。花の香りみたいに」
ニベアが、ぷるっと震えた。
褒められている。たぶん。
でも、褒められているのに、なぜか敗北感がある。なぜだ。
マイが横で、ニヤニヤを堪えきれず、アーモンドに肘で叩かれる。
「笑うな。死ぬぞ」
「え、死ぬの!?」
レイが淡々と訂正する。
「死なない。回復されて続く」
「地獄じゃん!」
マリアは、ゆっくりと魔道カバンを床に置いた。
その動作だけで、部屋の湿度が下がった気がする。誰もが本能で分かる。
――ここからが本番だ、と。
「レイ君」
マリアの声が、さらに優しくなる。
優しさが増えるほど、危険度が上がるタイプの声。
「久しぶりね。稽古、つけるわ」
「……母さん。今、夜だ」
「夜の稽古がいちばん身につくの。暗闇はね、言い訳を許さないから」
ニベアが口を挟む。
「法王。ここは私の――」
「女王様」
マリアが柔らかく遮った。
「あなた、レイ君のこと好きね?」
ニベアが固まった。
政治家としての言語化能力が一瞬で死んだ。
エルフの恥の文化が、最大出力で警報を鳴らす。
「……っ、そ、それは……!」
「いいのよ。素敵なことよ。愛は生命を育てる」
“生命”って単語が出た瞬間、ニベアの胸が少し痛む。
魔神の夜。レイが一撃で死んだ、あの瞬間。
自分の寿命を削って蘇生したこと。誇りが砕けても、愛だけは砕けなかったこと。
ニベアは深く息を吸い、女王としての顔を取り戻す。
「……ええ。私は、レイを愛している。重いくらいに」
「素晴らしい」
マリアが、目を閉じたまま笑った。
「なら、見届けるわ。あなたの愛が“現実”になるか」
「現実……?」
「ええ。現実」
マリアの指が、魔道カバンの留め具を外す。
次の瞬間。
――金属の音。
まず、モーニングスター。
鎖の先に、棘だらけの鉄球。慈善事業の象徴みたいな顔をして、人を粉砕する道具。
次に、バスターソード。
刃を潰した訓練用……のはずなのに、幅と厚みが「これで叩かれたら人生観変わる」レベル。
マリアは、それを両手に持った。
二刀流である。
アーモンドが呆然とする。
「……尼って、二刀流なんですか?」
「尼はね、両手が空いてるから」
マリアが優しく言った。意味が分からない。怖い。
レイは無言で立ち上がり、棚から自分の装備一式を引っ張り出した。
鎧。手甲。脚甲。
剣。盾。――そして、コーヒーは置かない。最後に飲み干してから、立った。
「完全武装……」
マイがぽつりと呟く。
「先生、完全武装しても勝てないんですか?」
「勝てない」
レイが即答した。
「勝てないんだ……」
「勝てない。だが、耐える」
ニベアが、ぎゅっと拳を握る。
胸の奥がざわつく。怖いのではない。懐かしいのでもない。
――悔しいのだ。
自分は女王で、大魔道士で、古代魔法を扱う唯一無二の存在なのに。
この場で“強さ”の軸を握っているのは、目を閉じた法王だ。
マリアが、玄関へ向かう。
「庭でやりましょう。家、壊したら悪いもの」
「いや、庭も壊れるだろ」
「壊れるわね」
認めるの、早い。
レイが扉を開ける。
夜風が入ってきて、火山島の冷えた空気が頬を撫でた。庭先には、月がかかっている。静かな月だ。これから始まる地獄を知らない月。
ニベアは、玄関で一歩止まった。
女王として冷静に観察すべきだ。だが、心が――揺れる。
「……マリア」
ニベアが、思い切って呼んだ。
敬称も肩書も外した。今、この瞬間だけは、女王ではなく女として。
「何かしら、女王様」
「あなたは……どうして目を閉じているの?
サキュバスだから、魅了するから。……それだけ?」
マリアは少しだけ首を傾げた。
目を閉じたまま、夜の風の匂いを嗅ぐ。
「それもあるわ。
でもね、もう一つ」
「……」
「人はね、“見たいもの”だけ見ようとする。
だから私は、目を閉じて、言葉と行動で世界を見るの」
ニベアの胸が、すこし温かくなる。
この人は、恐ろしい。優しい。暴力的で、慈悲深い。
そして、レイを育てた――母だ。
「……あなたの優しさは、怖いわ」
「ありがとう」
マリアが微笑んだ。
「怖い優しさは、守るための優しさよ」
その瞬間、ニベアは悟った。
自分は、比べられているのではない。
試されているのだ。レイの隣に立つ覚悟を。
マリアが庭へ出て、モーニングスターを軽く回す。
空気が唸る。
「さあ、レイ君。久しぶりにやりましょう」
レイは剣を構え、盾を前に出す。
「……はい」
その背中を見ながら、ニベアは小さく息を吐いた。
胸の奥が痛い。愛が重い。だからこそ、逃げない。
マイとアーモンドは、玄関の柱の陰に避難した。
「ねえアーモンド……これ、見学でいいの?」
「見学しかできない。下手に近づいたら、死ぬ」
「死ぬの!?」
「死ぬ。でも回復されて続く」
「地獄じゃん!」
庭の中央で、マリアが言った。
「準備はいい?」
レイが答える。
「……コーヒーは飲んだ」
「よし」
よし、じゃない。
ニベアは、月明かりの下で、そっと両手を胸の前で重ねた。
祈りではない。誓いだ。
(私は――逃げない。
あなたの隣に立つなら、あなたの“母”の前でも、恥を捨てる)
その瞬間。
マリアのモーニングスターが、夜を割った。
――世界の美の双璧が揃った夜は、静かに、しかし確実に、剣聖の生活を壊し始める。
そして壊れた分だけ、何かが強くなる。
ニベアは、唇を噛んで見守った。
愛が重い女王の目には、月よりも眩しい“現実”が映っていた。




