12話 「女王の手紙と、玉座の引っ越し」
夜。
シーフードカレー鍋は空になり、皿も片づけられ、台所に残ったのはスパイスの余韻と、潮の匂いと、妙に重たい沈黙だった。
レイは窓際の椅子。
いつもの場所で、いつものコーヒー。――いつもより少しだけ、苦い顔。
マイは鍋を磨き終え、鍛冶工房から持ってきた新作の布でテーブルを拭いている。
アーモンドは水を張った桶に手を入れ、黙々と食器を洗っていた。騎士の所作は、家事にも無駄がない。
そして、ニベア。
彼女は椅子に座ったまま、背筋を伸ばし、指を組み、瞳の奥に“女王の顔”を戻していた。
さっきまでの、ぷんぷん、ポカポカ、感情の嵐。
それが嘘みたいに静まっている。
――静まった分だけ、今度は“重い話”が来るのが、誰の目にもわかった。
「……レイ」
呼ばれた瞬間、レイは少しだけ肩を固くした。
「ん」
「ここから先は、恋人の話じゃない。女王として話す」
「……ああ」
マイが小声で言う。
「来ました。切り替え、かっこいい……」
アーモンドが桶をガチャッと置いた。
「いや、さっきまで切り替えどころか、殴ってたやろ」
「殴ってない。叩いた。愛で」
「言い方が怖い!」
ニベアは視線だけで二人を黙らせた。
“美の双璧”の目力は、政治も家庭も制圧する。
「手紙の内容。……読まなかったあなたの代わりに、私が読む」
言い方が、少しだけ寂しそうだった。
それでも声は揺れない。揺れさせない。女王だから。
「北の大陸――フランツ平原大陸の北部。
複数の人間の国、魔族の領、エルフの村、交易都市……それらが、短期間で“ひとつ”にされた」
アーモンドの手が止まる。
「統一……?」
「そう。統一。しかも、王が偉かったとか、革命が成功したとか、そういう話じゃない」
ニベアは言葉を選び、そして切り捨てるように言った。
「一人……正確には、一匹のワーウルフによって」
マイが目を丸くする。
「……え、ワーウルフ一匹で? 国家を?」
「普通は無理よ」
ニベアは、当たり前みたいに答えた。
「普通は。
でも、“普通じゃない個体”が現れた」
彼女の指が、テーブルの木目をなぞる。
爪先が、ほんの僅か震えている。怒りでも恐怖でもない。――悔しさだ。
「名は、ゴールドマン。金狼」
「……」
レイの視線がほんの少し鋭くなる。
それでも口数は増えない。
「ワーウルフは差別された。毛皮を剥がれ、首輪をつけられ、犬にされた。
その怨嗟が“涙”になって、偶然か必然か……魔法の効かない金狼が生まれた」
ニベアが、息を吸う。
「魔法が効かない相手に、魔法国家ができることは少ない。
剣が必要。盾が必要。血と肉が必要」
その言い方は、王のものだった。
でも、次の言葉は、女のものだった。
「……そして、そのゴールドマンの統一過程で、王配アトリック=カーターが戦死した」
台所の空気が、一段冷える。
アーモンドが思わず、声を落とした。
「……え……」
マイが、いつもの明るさを失って、口元を押さえる。
「王配……亡くなった、んですか……」
ニベアは“はい”とも“そう”とも言わない。
ただ、まっすぐ頷いた。
「戦死。
人間の国とも共同でゴールドマン討伐に出た。……戻ってこなかった」
言葉が、少しだけ詰まった。
ニベアは、涙を見せない。
エルフの恥の文化もある。女王の矜持もある。
それでも、瞳の奥にだけ、どうしようもない痛みが残る。
「……理由は、まだ調査中よ。
戦場の状況、盾の出どころ、誰が補給を回したのか。
“魔法が効かない”という一点が、どれほど戦術を変えるか――私は知ってる」
レイが短く言った。
「……相性が悪い」
「ええ」
ニベアは目を伏せた。
「私は、古代魔法を持っている。でもそれは血統契約。
私の血が入っていない者は使えない。
今この時代、古代魔法を“実戦で確定運用”できるのは――私だけ」
その言葉の裏に、誇りと孤独が一緒に詰まっている。
マイが小声で言った。
「女王様って……強いけど、ひとりなんですね……」
ニベアは一瞬だけマイを見て、微笑みかけ――すぐに戻した。
「だから、次の話。
娘のクリームを、剣聖の弟子にする」
アーモンドが反射で突っ込む。
「唐突!!」
マイも続く。
「えっ!? ここに来るんですか!? 王女様が!? え、私、礼儀作法とか無理です!」
「大丈夫。あなたはもう無理だから」
「ひどい!?」
ニベアが淡々と言う。
「クリームは次期女王。統一の象徴。
けれど――魔法だけでは、ゴールドマンに届かない可能性がある。
古代魔法は私しか使えない。クリームは修行中。時間が必要」
女王は視線をレイへ向ける。
「だから、あなたが必要。
剣で守る者。剣で勝つ者。剣で、生き残らせる者」
そこだけ、言葉が柔らかい。
女王が“剣聖”に向ける信頼と、女が“レイ”に向ける想いが混ざっている。
レイはコーヒーを一口。
「……了解した」
「よろしい」
そして、ニベアは息を整えた。
ここからが本題だと言わんばかりに。
「最後に――今日、私は少し……イラついた」
「少し、とは」
アーモンドが呟く。
「めっちゃイラついてましたよね」
マイも頷く。
「ぷんぷんの、世界最強版でした」
ニベアは咳払いをした。
「私の手紙を読まない男に、玉座で待つのは向いていないと判断した」
「判断が急だな」
レイが言う。
ニベアは、胸を張った。
「だから、今日から」
一拍置いて、宣言する。
「玉座を、この家に移す」
「は?」
アーモンドが、桶を落としそうになった。
「え、玉座って……あの、国家の中枢……?」
マイも目を見開く。
「玉座って、重くないですか!? 運べるんですか!? 鍛冶で作り直します!?」
「作り直すな」
レイが即座に止めた。
ニベアは、何でもないことのように言った。
「古代魔法で移す」
「古代魔法、便利すぎません!?」
「血統契約だからね。私だけの特権よ」
言い方がさらっとしていて、余計に怖い。
「そして」
ニベアは、レイの真正面に座り直した。
さっきまでの女王の顔に、少しだけ“恋人の顔”が混ざる。
「今日から、私はここで暮らす」
「……同棲か」
「同棲。監視つき」
「監視つき同棲って何だ」
ニベアは真顔で答える。
「エルフは愛が重い」
「開き直った!」
アーモンドが突っ込み、マイが嬉しそうに笑った。
「女王様、最高です!」
「最高ちゃう。地獄の始まりや」
「地獄じゃない。幸福の始まりよ」
ニベアはレイのカップを見て、少しだけ眉を寄せた。
「……コーヒーばっかり飲んで。
あなた、胃が荒れる。私が管理する」
「それは監視ではなく、健康管理だ」
「どっちもよ」
レイは、諦めたようにコーヒーを飲んだ。
「……コーヒー飲むしかないな」
ニベアは、その言葉にだけ少し笑ってしまった。
美貌がほころぶ瞬間は、女王である前に、ただの女になる。
「……ねえ、レイ」
声が少し低く、優しくなる。
「私は、王配を失った。
国は揺れてる。北は燃えてる。
でも……あなたがいる場所だけは、私の帰る場所であってほしい」
重い。
まっすぐで、遠慮がなくて、逃げ場がない。
エルフの愛は、確かに重い。
レイは黙って、カップを置き――短く言った。
「……ここにいろ」
マイが、すぐにニヤニヤ顔になる。
「先生、言いましたね。今の、言いましたよね」
「言質とりましたね、師匠」
アーモンドも腕を組んで頷く。
「監視つき同棲、確定、と」
「確定じゃない」
「確定です」
「確定です!」
二人が声を揃える。
ニベアは、二人の“いじり”を一瞥して、ふっと笑う。
「……あなたたち、いい子ね」
「はい、師匠の弟子ですから!」
「師匠の胃は、女王様が守ってください!」
「守る」
即答。
レイはまたコーヒーを飲んだ。
苦いはずの味が、少しだけ甘く感じたのは――たぶん、気のせいだ。
窓の外、星は変わらず光っている。
サルコジ島の小さな家に、女王の“玉座”が来る。
そして、剣聖の日常は、静かに――終わった。




