11話 「シーフードカレーと、女王の帰還」
夜のサルコジ島は、静かだ。
巨大火山が眠る島の上空には、雲ひとつない星が広がり、潮の音だけが村を撫でていく。
村長レイの家――といっても、建物は質素だ。
小さな家に、広い納屋。納屋の横には、いつの間にか増築された鍛冶工房があり、そこだけが夜でも生きているみたいに赤く灯っている。
そして今、家の台所は、久しぶりに“戦場の後の平和”みたいな空気に包まれていた。
「……ふぅ。貝柱、ほんまにでかいな。これ、貝やなくてもう肉やろ……」
アーモンドが包丁を持ったまま、真顔で言った。
騎士らしく清潔な金髪を束ね、腕まくりした手元はやたらと手際がいい。剣の才能は伸び悩み中でも、包丁の才能は今、絶好調だった。
「剣の型より、貝の筋取りのほうが上手いのでは?」
レイがいつもの声で言う。
窓際の椅子に座り、湯気の立つコーヒーを飲みながら、淡々と観戦している。
「先生、それ言うなら! 先生は剣聖なのに! 料理スキルが神すぎますって! ズルいです!」
マイが鍛冶工房から戻ってきて、勢いよく台所に飛び込んだ。
黒髪ロングを束ねた天然アイドルは、腕いっぱいに“新作”を抱えている。
「見てください! 新作です!」
「……鍋か」
「はい! 新作カレー鍋です! 熱の回りが均一で、焦げにくくて、香りが立って、あと見た目が強いです!」
「見た目が強い、とは」
「強そうな鍋って、テンション上がるじゃないですか!」
「ドワーフ的価値観だな……」
マイはニコニコしながら鍋を洗い始めた。
鍋の底には謎の魔導刻印が彫ってある。多分、カレー専用の“気合い”だ。
「アーモンドさん! 貝柱、私も切りたいです!」
「切るな。そこは私の領域や。君は鍋磨いとけ。鍋は君の剣やろ」
「鍋は剣です!」
「そうなん?」
レイがコーヒーを飲む。
この家は、会話の半分が真面目で、半分がどうでもいい。だが、そういうのが一番、平和だ。
昼間の実戦訓練――つまり、海の魔物狩り。
大王イカ、デビルクラブ、パールシェル、アビスシュリンプ。
危険度は高いが、旨味も高い。レイの土地が“魔物の巣”なのは、見なかったことにしてはいけない。現実だ。
「……師匠」
アーモンドが下処理をしながら言った。
「なんだ」
「なんでこの村長の土地、こんなに魔物が濃いんですか。普通、村って、もうちょい平和じゃないんですか」
「……察してくれ」
「察したくないです」
「ここ、拝領地だ。魔王討伐のな」
「さらっと怖い情報出すのやめてください!」
マイが泡だらけの手で叫ぶ。
「ねえ先生、魔王討伐って、もっとこう……伝説の英雄の話じゃないんですか! 村長がカレー作ってる場合ですか!」
「英雄も腹は減る」
「正論やけど!」
そんなこんなで、鍋は火にかかり、香りが立ち始めた。
潮の香りと、スパイスの香りが混ざる。
海の恵みが、台所という小さな世界で“勝利の匂い”に変わっていく。
そして夜。
木のテーブルに、三人分の皿が並ぶ。
中央には、ぐつぐつ煮えるシーフードカレー。鍋は新作、鍋の顔が誇らしい。
「いただきます!」
マイの声が明るく弾けた。
アーモンドが一口食べ、目を見開く。
「……うわ。これ、やば」
「だろ」
レイは短く返す。
「……やばい、っていうか……海の味が、こう……スパイスに殴られて、でも仲良しで……」
「表現が雑や!」
「うまい、でいい」
「先生、冷静すぎません!?」
マイも一口。
「……え。えっ。えええっ」
「どうした」
「泣いていいですか?」
「泣くな」
「おいしいと涙出るタイプなんです! 私!」
「それ、天然の才能の方向性ちゃうやろ……」
笑い声。
スプーンが皿を叩く音。
湯気が窓ガラスを曇らせ、外は星空だ。
“家”の夜が、確かにここにある。
――そのとき。
空間が、きしんだ。
「……?」
最初に気づいたのは、アーモンドだった。
騎士の直感が、ほんの僅かな“異常”を拾う。
「……先生。空気が……」
「ん」
次の瞬間。
テーブルの横、何もない空間に――
光の魔法陣が、唐突に浮かび上がった。
眩い金色。
幾重にも重なる紋様。
空間が歪み、押し広げられるように裂け、向こう側が“見えないのに見える”感じがする。
マイが息を呑む。
「……なにこれ……転移……?」
「普通の転移じゃない」
レイが言った。
声は落ち着いている。だが、視線が一瞬だけ固くなる。
魔法陣の中心が、ぱきり、と割れる。
光がひらいて、そこから“出てきた”。
銀髪が、夜の中で月光みたいに揺れた。
白い肌、整いすぎた顔立ち、立つだけで空気が華やぐ。
そして、香り。近づく前からわかるほど“いい匂い”がする。
――世界の美の双璧。
エルフ女王ニベア。
女王はゆっくりと足を着き、周囲を一瞥した。
その瞳には、光がある。熱がある。――そして、怒りがある。
レイの顔が、わずかに引きつる。
「……うっ。コーヒー飲むか」
「逃げるな」
ニベアは即座に言い切った。
声は綺麗で、柔らかいのに、鋼のように重い。
彼女はテーブルの鍋を一瞬見て――
次にレイを見た。
「レイ」
「……ん」
「手紙、読んだ?」
言葉は短い。
だが、情感が洪水みたいに押し寄せる。
「三ヶ月」
ニベアの声が震えた。怒りだけではない。
「三ヶ月、私は――」
唇が一度だけ噛まれる。
女王としての矜持が、ここで崩れないように必死に抑えている。
「……私は、あなたに手紙を送った。
あなたが生きてるって確認したかったから。
あなたが無事でいるって、信じたかったから」
怒っている。
でも、その怒りは“愛が強すぎる”怒りだ。
「なのに」
ニベアが一歩近づく。
「返事がない」
もう一歩。
「……愛は、どこ?」
匂いが近い。
美貌が近い。
女王の感情が、距離ゼロで迫る。
マイが小声で言った。
「……うわぁ……恋愛って、戦争ですね……」
「黙れマイ」
アーモンドが即ツッコミを入れた。
レイは、コーヒーを持ったまま固まっている。
「ニベア、落ち着け」
「落ち着いてるわ」
ニベアは笑った。
笑ったのに、目が笑っていない。
「私は落ち着いてる。女王だから。
でも――レイ。私は女王でもあるけど」
その声が少しだけ、柔らかくなる。
「……あなたを好きな、ただの女でもあるの」
その瞬間、レイが言いかけた。
「いや、だが――」
言い終わる前に。
ポカ。ポカ。ポカ。
「いった」
叩かれている。
叩く手は綺麗で、動きは優雅で、なのに的確に痛い。
「手紙!」
ポカ。
「読め!」
ポカ。
「返せ!」
ポカ。
「……愛は!?」
ポカ。
「痛いって」
「痛くなさい」
ニベアは頬を膨らませた。
世界一の美貌で、世界一“ぷんぷん”している。
「私たち、結婚前提で付き合ってたじゃない」
「……」
「ねえ、レイ」
「……」
レイはコーヒーのカップを置き、短く言った。
「いや。ニベアが結婚したから、別れたのでは」
空気が、止まる。
ニベアの表情が一瞬だけ真っ白になる。
次の瞬間、瞳の奥に熱が灯った。
「……は?」
女王の声が、低い。
「私の結婚は、政治だ」
「……」
「和平のための契約だった。
あなたは、それを知ってるはずなのに」
ニベアの声が揺れる。
怒りが、寂しさが、悔しさが、全部まざる。
「私は、あなたを捨てたつもりなんて、一度もない」
言葉が、胸の奥から出てくる。
「……そして今」
ニベアは、堂々と言い切った。
「私は独身」
「……は?」
「だから」
指を突きつける。
「ダメ。キャンセル。」
「え、契約結婚ってキャンセルできるのか……?」
レイが真顔で言うと、ニベアは胸を張った。
「できる。私が女王だから」
「力技がすぎる」
マイが口元を押さえた。
「女王様、かっこいい……」
「そこ尊敬するとこちゃう!」
アーモンドがすかさず突っ込む。
ニベアは、レイのカップを一瞥し、少しだけ呼吸を整えた。
怒りの中に、ふっと“嬉しさ”が混ざる。
レイがここにいて、温かい家で、弟子たちと食卓を囲んでいる。
それが、たまらなく愛おしい。
でも、素直には言えない。
「……で」
ニベアは鍋を見た。
「それ、なに」
「シーフードカレー」
「……食べていい?」
「……いい」
ニベアは皿を受け取り、上品に一口。
目が、わずかに見開かれる。
「……おいしい」
その一言が、妙に破壊力があった。
「だろ」
レイが言う。
ニベアは、少しだけ口元を緩め――
すぐに咳払いして、怒ってる顔に戻った。
「……でも許したわけじゃないから」
「はいはい」
「返事は書け」
「わかった」
「愛は示せ」
「……努力する」
「よろしい」
そこで、マイがニヤニヤしながら言った。
「先生、これってつまり……夫婦喧嘩予備軍ってことですか?」
「違う」
レイが即答。
「結婚前提でお付き合い中ってことですか?」
「……」
レイが黙る。
アーモンドが腕を組んで、悪い笑顔をした。
「先生、黙った。
これは……いじっていいやつですね?」
「いじるな」
「いじります」
マイが元気に手を挙げた。
「私も! いじりたいです!」
「やめろ」
ニベアはふふ、と笑った。
怒りの中の笑み。
その笑みは、女王ではなく――恋する女のものだった。
シーフードカレーの湯気が上がる。
星が近い夜。
小さな家に、女王が降りた。
そして、弟子二人は確信した。
(この家の修行、剣より先に“恋愛”が地獄になるやつだ)
レイはコーヒーを飲み直し、窓の外を見た。
「……今日も、賑やかだな」
ニベアが、少しだけ声を柔らかくする。
「あなたがいるなら、私は来るわ。何度でも」
「……そうか」
「そうよ」
痴話喧嘩は、始まったばかりだった。




