繋人
第一章 忘れ去られた約束
夏の日差しが、アスファルトをじりじりと焼いていた。
蝉の声が耳をつんざくような八月の午後。ランドセルを背負った十二歳のケイトは、いつもの通学路を外れ、雑木林の奥にある苔むした石段を見上げていた。
その先にあるのは、地元の人ですら寄り付かない廃神社だ。
けれど、ケイトにはどうしてもそこに行かなければならない理由があった。
記憶は、数ヶ月前の初夏に遡る。
あの日も今日のように暑い日だった。肝試しのつもりで足を踏み入れた境内は、不思議とひんやりとした静寂に包まれていた。外界の喧騒が遮断されたような、ここだけ時間が止まっているような感覚。
朽ちかけた拝殿の縁側に、ぽつりと白い影があった。
黒髪のロングヘアに、白衣と緋袴――巫女服のような着物を纏った少女が、膝を抱えてうずくまっていたのだ。
「……だれ? 迷子?」
ケイトが恐る恐る声をかけると、少女は弾かれたように顔を上げた。
大きなタレ目が、信じられないものを見るように見開かれる。
透き通るように白い肌。どこかこの世の者とは思えない儚さを纏っていたが、その瞳には深い孤独の色が宿っていた。
「……あなた、私のことが見えるの?」
鈴を転がしたような、涼やかな声だった。
「え? うん。そこにいるじゃん」
ケイトが答えると、少女は震える手で自身の頬に触れ、それから泣きそうな顔で笑った。
「そう……見えるのね。久しぶりだわ、人と目が合ったのは」
彼女の名前はメイといった。
彼女は人間ではなかった。この古い社にずっと昔から住まう、土地の神様だった。
ケイトはその言葉をすんなりと信じることができた。なぜなら、彼女の体は時折、陽炎のように揺らぎ、向こう側の景色が透けて見えたからだ。
「どうして一人なの? 神様なら、もっと偉いんじゃないの?」
ケイトの無邪気な問いに、メイは寂しげに首を振った。
「神様はね、人の心から生まれるの。敬われ、祈られ、記憶されることで形を保っていられる。……でも、見ての通りよ」
メイは荒れ果てた境内を見渡した。
「もう誰もここには来ない。私の名前を呼ぶ人も、私にお願い事をする人もいない。みんな、新しい神様や、楽しいことの方へ行ってしまったわ」
彼女はそっと自分の手を空にかざした。夏の日差しが、彼女の手のひらを透過して、縁側の床板を照らしている。
「忘れ去られることは、神様にとっての『死』なの。記憶が薄れるたびに、私の体も心も薄くなっていく。……怖いよ。自分が自分でなくなっていくのが、たまらなく怖いの」
その震える声を聞いたとき、ケイトの胸に熱いものが込み上げた。
目の前にいるのは、神様というより、ただ寂しくて震えている一人の女の子だった。
ケイトは一歩踏み出し、彼女の透けた手をぎゅっと握りしめた。冷たくて、頼りない感触。でも、確かにそこに存在していた。
「僕がいるよ」
ケイトは真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
「僕が見てる。僕が覚えてる。だから、メイは消えないよ」
「……ケイト」
「明日も来るよ。明後日も。学校の話とか、面白い話、いっぱい持ってくるから」
その日、メイは数十年ぶりに、あるいは数百年ぶりに、心からの笑顔を見せたのだった。
――そして、現在。
ケイトは石段を登りきり、息を弾ませて境内に足を踏み入れた。
「おーい、メイ! 来たよ!」
拝殿の定位置に座っていたメイが、パッと顔を輝かせて立ち上がる。
出会った頃よりも、その輪郭は少しだけはっきりしているように見えた。ケイトというたった一人の信仰者が、彼女をこの世に繋ぎ止めているのだ。
「ケイト! おかえりなさい」
「ただいま。今日は暑いね」
ランドセルを放り出し、いつものように隣に座る。
給食の揚げパンが美味しかったこと、掃除の時間にホウキでチャンバラごっこをして先生に怒られたこと。他愛のない日常の話を、メイはいつも目を輝かせて聞いてくれる。彼女にとって、ケイトが語る外の世界は、キラキラと輝く宝石箱のようなものなのだろう。
ひとしきり話した後、ふと沈黙が降りた。
西日が差し込み、境内を茜色に染め上げていく。
メイが袖の中から、二輪の花を取り出した。鮮やかな紫色をした、星のような形の花。
「これ……桔梗の花」
メイが恥ずかしそうに差し出す。
「神社の裏に咲いてたの。ケイトにあげる」
「わあ、すげえ綺麗! ありがとう、メイ」
ケイトは花を受け取ると、少し考えてから言った。
「そうだ。これ、押し花にしようよ」
「おしばな?」
「うん。本に挟んで乾かすと、ずっと綺麗なまま残るんだ。栞にすれば、いつでも持ち歩けるし」
ケイトはランドセルから教科書を取り出し、二輪の花を丁寧に挟んだ。
「家ですぐに作ってくるから。一つは僕が持って、もう一つはメイにあげる」
「……うん。楽しみ」
メイが嬉しそうに頷く。その体が一瞬、また薄く透けた気がして、ケイトは胸が締め付けられた。あの出会った日の恐怖がよぎる。
「ねえ、メイ」
「なに?」
「あの時の約束、覚えてる? 僕はずっと忘れないって言ったこと」
「うん、覚えてるよ」
「大人になっても、おじいちゃんになっても、僕はずっとメイのこと覚えてるから。絶対に忘れないから」
それは、幼いなりの精一杯の誓いであり、祈りだった。
僕が生きている限り、メイは消えない。僕が、彼女の存在証明になるんだ。
「ありがとう、ケイト……大好きよ」
メイの瞳が潤む。
空には一番星が光り始めていた。
「じゃあ、また明日ね! 栞、持ってくるから!」
「うん、また明日」
ケイトは手を振り、石段を駆け下りていった。
背中でメイが見送ってくれている気配を感じながら。
家に帰ったケイトは、早速作業に取り掛かった。
普通なら分厚い本に挟んで数日待たなければならないが、そんなに待っていられない。明日、一番にあの笑顔が見たいのだ。
ケイトは以前テレビで見た裏技を試すことにした。段ボールとキッチンペーパーで桔梗を挟み、電子レンジで加熱して水分を飛ばすのだ。これなら今日中に完成させられる。
慎重に時間を調整し、出来上がった鮮やかな押し花をラミネート加工して、綺麗なリボンを通した。
世界に二つだけの、特製の栞。
「よし、できた!」
学習机の上のスタンドライトが、琥珀色の光を落としていた。その柔らかな明かりの下に、出来上がったばかりの二つの栞が並んでいる。
電子レンジを使って水分を飛ばした桔梗の花は、生花のような鮮やかな紫色を保ったまま、ラミネートの薄い膜の中に永遠に閉じ込められていた。仕上げに通したリボンが、夜風に揺れてかすかに震える。
ケイトは満足げに一つ頷くと、指先でそっとその表面を撫でた。
明日は日曜日だ。朝一番に、この栞を持ってメイに会いに行こう。
これを持っていれば、たとえ会えない時間があったとしても、僕たちはどこかで繋がっていられる。そんな確かな予感がした。
ケイトは片方の栞を手に取ると、机の隅に積み上げてあった分厚い植物図鑑のページを開き、花が傷つかないようにそっと挟み込んだ。これは明日、メイに渡すための大切な一枚だ。
そしてもう片方、自分用の一枚を握りしめ、ズボンのポケットへと滑り込ませる。布越しに感じる硬質な感触が、なんだか誇らしかった。
ふと、ケイトの心に小さな欲が芽生えた。
(せっかく自分用の栞を作ったんだから、それを挟むための新しい本が欲しいな)
駅前の本屋まで行けば、前からずっと読みたかった冒険小説が売っているはずだ。今から買いに行って、今夜は少し夜更かしをして読書をしよう。そして明日の朝、その物語の感想もメイに話してあげるんだ。
ケイトは小銭入れを掴むと、弾むような足取りで家を飛び出した。
外はすっかり夜の帳が下りていたが、等間隔に並ぶ街灯の明かりが頼もしく路面を照らしている。
昼間の熱気がまだアスファルトに残っていたが、時折吹く風は心地よかった。
栞を受け取ったメイは、どんな顔をするだろう。驚いて目を丸くするかな。それとも、あの花のような笑顔で「ありがとう」と言ってくれるかな。
想像するだけで胸の奥が温かくなり、足取りは自然と軽くなった。
駅へと続く大きな交差点。
歩行者用信号が、赤から青へと変わる。その光が、まるで明るい未来への入り口のように見えた。
ケイトは迷うことなく、横断歩道へと一歩を踏み出した。
――キキーッ!
世界を引き裂くような、耳をつんざくブレーキ音。
反射的に顔を向けた視界を、強烈なヘッドライトの白光が塗りつぶした。
何も考える隙間などなかった。
ドン、という鈍い衝撃と共に、重力が消える。
体がふわりと宙を舞う、奇妙な浮遊感。スローモーションのように流れる景色の中で、夜空の星だけが綺麗に見えた。
アスファルトに叩きつけられる痛みすら、熱と共に一瞬で遠のいていく。
(あ……栞……)
薄れゆく意識の淵で、最後に思い浮かんだのは、自分のポケットの中にあるものではなく、机の上の図鑑に挟んで残してきた、あの紫色の栞だった。
渡さなきゃいけないのに。約束、したのに。
思考はノイズに混じり、プツリと途切れた。
そして、深い暗闇がすべてを覆い尽くした。
その夜。
誰の足音もしない廃神社の境内で、ひとつの奇跡が終わりを迎えた。
彼女を観測し、その存在をこの世に繋ぎ止めていた最後の人間が、記憶の扉を閉ざしたその瞬間に。
一人の神様が、夜の闇に溶けるようにして、静かに消滅した。
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深い海の底から、ゆっくりと浮上していくような感覚だった。
まぶたの裏に白い光が滲み、耳鳴りのような電子音が遠くで響いている。
ケイトが目を覚ましたのは、事故から三年後のことだった。
消毒液の匂いと、真っ白な天井。
自分の手を見下ろすと、そこにあるのは見知らぬ骨張った手だった。十二歳だったはずの少年は、ベッドの上で十五歳になっていた。
駆けつけた両親は涙を流して抱きしめてくれた。医者たちは「奇跡だ」と口々に称賛した。
けれど、ケイトの世界はどこか決定的に欠落していた。
「……僕、だれ?」
喉から出た声は、変声期を過ぎた低く掠れたものだった。
記憶喪失。
それが、奇跡の代償だった。
自分が誰なのか、なぜここにいるのか。両親の顔を見ても、懐かしさよりも戸惑いが先に立つ。そして何より、胸の奥に鉛のような重りが沈んでいる感覚があった。
一番大切な「何か」を忘れている。
心臓の一部を切り取られたような、冷たくて乾いた虚無感だけが、彼の中に残されていた。
それから、さらに二年の月日が流れた。
十七歳になったケイトは、退院して自宅療養を続けながら、通信制の高校に通っていた。
かつての快活な少年は、もうどこにもいなかった。
少し伸びた黒髪が顔にかかり、その隙間から覗く瞳は、常に気怠げで、どこか遠くを見ているようだった。クラスメイトと会話をしても、テレビを見ても、心の穴は埋まらない。世界には薄い膜が張っていて、自分だけがその外側にいるような疎外感。
彼は静かで、不健康そうで、まるで幽霊のように日々をやり過ごしていた。
ある曇りの日の午後。
「ケイト、押し入れの中、少し片付けてくれない? もう着ない服とかあるでしょ」
母の声に、ケイトは無言で頷いた。
億劫な体を動かし、部屋の押し入れを開ける。埃っぽい匂いが鼻をくすぐった。
段ボール箱を動かそうとした時、積み上げられていた古い図鑑の山が崩れた。
ドサドサと床に落ちる重たい本たち。
その拍子に、一冊の図鑑の間から、何かがひらりと舞い落ちた。
それは、時が止まったかのように鮮やかな色彩を放っていた。
紫色の花びらが一輪、ラミネートの中に閉じ込められている。
手作りの、少し不格好な栞。
ケイトは無意識に手を伸ばし、それを拾い上げた。
指先が触れた瞬間。
ドクン、と心臓が跳ねた。
電流が走ったように、脳裏に映像がフラッシュバックする。
蝉時雨のうるさい夏の日。
雑木林の匂い。
朱色が剥げた鳥居。
そして――。
『ありがとう、ケイト』
花が咲いたように笑う、巫女服姿の少女。
彼女の黒髪が風になびき、タレ目が優しく細められる。
夕暮れの茜色に染まった境内で交わした、幼い約束。
「……メイ」
その名前を口にした瞬間、止まっていた心臓が再び鼓動を始めた気がした。
灰色だった世界に、急激に色が戻ってくる。
そうだ、僕は忘れてはいけなかったんだ。一番大切な、彼女のことを。
ケイトは栞を握りしめ、サンダル履きのまま家を飛び出した。
「はっ、はっ、はっ……」
肺が焼けるように熱い。三年の昏睡と二年の療養で衰えた足がもつれる。それでも、衝動のままに走った。
記憶の地図を頼りに、住宅街を抜け、坂道を駆け上がる。
あそこに行けば会える。また笑ってくれる。
雑木林の入り口だったはずの場所へたどり着いたケイトは、足を止めた。
そして、絶句した。
「……うそだろ」
そこには、鬱蒼とした森も、長い石段も、古びた鳥居もなかった。
あるのは、整地された無機質な更地と、冷たい鉄のフェンス。
『分譲住宅建設予定地』という白い看板だけが、乾いた風に揺れていた。
「そんな……」
フェンス越しに手を伸ばすが、指先は空を切るだけだ。
彼女はいない。彼女がいた場所さえ、もうこの世にはない。
膝から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえ、ケイトは唇を噛み締めた。
まだ終われない。思い出したんだ。やっと、思い出したのに。
そこから、ケイトの孤独で執念深い捜索が始まった。
近隣の古くから住む家を一軒一軒訪ね歩いた。「あそこに女の子がいなかったか」「不思議なことを見たことはないか」。返ってくるのは怪訝な顔と、「ただの廃墟だったよ」という冷たい言葉だけ。
神社の解体を請け負った工務店にも問い合わせたが、「誰もいなかった」と事務的に返された。
図書館にこもり、地域の郷土史や伝承を調べたが、彼女の手がかりは何一つ見つからない。
季節は巡り、蝉の声は鈴虫の音色に変わり、やがて冷たい木枯らしが吹き始めた。
手掛かりはゼロ。
焦りと徒労感に押しつぶされそうになりながら、それでもケイトは街を彷徨い続けた。ポケットの中の栞だけが、彼女が実在した唯一の証拠だった。
冬の気配が濃くなってきたある日。
数ヶ月ぶりに立ち寄った古い商店街の路地裏で、ふと足を止めた。
錆びついた掲示板。風に煽られ、画鋲が外れかけてパタパタと音を立てている一枚のチラシ。
黄ばんだ紙に、手書きのような文字が躍っていた。
『神の力で捜し人見つけます ――古都興信所』
普段なら鼻で笑って通り過ぎるような、胡散臭い文言。
けれど、今のケイトにとって、その「神」という文字は、暗闇に差した一筋の蜘蛛の糸のように見えた。
彼は震える手でそのチラシを剥がし取り、強く握りしめた。
第二章 カササギと繋人
雑居ビルの三階へと続く階段は、踏みしめるたびに頼りない音を立てた。
壁の塗装は剥がれ落ち、蛍光灯は寿命が近いのかチカチカと不規則に明滅している。ここだけ昭和の時代から取り残されたような、澱んだ空気が漂っていた。
ケイトは踊り場で足を止め、握りしめていたチラシをもう一度確認した。
『神の力で捜し人見つけます ――古都興信所』
どう考えても怪しい。普段のケイトなら鼻で笑って通り過ぎる類のものだ。だが、今の彼には、この蜘蛛の糸ほど細い頼りしか残されていなかった。
重い鉄扉の前に立つ。錆びついたドアノブに手をかけ、意を決して押し開けた。
カウベルが乾いた音を立てる。
室内は薄暗く、古紙とインク、そして微かな線香の匂いが混じり合った独特の香りが鼻をついた。窓から差し込む西日が、宙を舞う埃をキラキラと照らし出している。
そこは、興信所というよりは古書店の倉庫のようだった。床から天井まで積み上げられた書類の山が壁を作り、その隙間に埋もれるようにして、一人の老人が座っていた。
七十代半ばだろうか。白髪のオールバックに、深く刻まれた皺。丸眼鏡の奥にある瞳は、猛禽類のように鋭い光を宿している。
だが、ケイトの視線は老人そのものではなく、その「頭上」に釘付けになった。
老人の頭の上に、一羽の鳥が止まっていたのだ。
カラスより一回り小さく、黒と白のコントラストが美しい羽毛。長い尾羽が優雅に垂れ下がっている。カササギだ。
剥製かと思った。しかし、その鳥のつぶらな瞳は、瞬きもせずにじっとケイトを見据えていた。
「いらっしゃい。若いお客さんとは珍しい」
老人が書類から顔を上げ、しわがれた声で言った。
「あ、ええと……その……」
ケイトは言葉に詰まった。用件を話すべきなのに、どうしても視線が頭上の鳥に吸い寄せられてしまう。
鳥が首をかしげた。その仕草には、明らかに人間のような知性が宿っていた。
老人が口元を歪め、ニヤリと笑う。
「おやおや。もしかして坊主、この鳥が『見える』のかい?」
「……え?」
見えないはずがない。そこにいるのだから。
ケイトが戸惑っていると、信じられないことが起きた。カササギがくちばしを開き、流暢な言葉を紡いだのだ。
「久しぶりだねえ、僕の姿がはっきりと見える人間に会うのは」
ケイトは息を呑み、反射的に後ずさった。
「……しゃ、喋った!?」
驚愕するケイトを見て、カササギは翼を大きく広げ、ふんぞり返るように胸を張った。
「失礼な。ただの鳥じゃないよ。私はユイ。しがないただの鳥の神様だよ」
「神様……?」
呆然とするケイトに、老人がゆっくりと立ち上がった。腰は曲がっているが、その佇まいには不思議な威厳があった。
「わしの名はシゲ。こいつの『繋人』をやっている者じゃ」
「繋人……?」
聞き慣れない単語に、ケイトは首を傾げた。シゲはパイプ椅子を勧め、重々しい口調で語り始めた。
「古来より、神と人との間には深い溝がある。神は様々な力を持ち、理も人とは違う。常に人間に友好的であるとは限らんし、そもそも普通の人間には知覚すらできん」
シゲはユイを見上げ、目を細めた。
「だからこそ、我々のような『神が見える人間』が間を取り持ち、彼らの声を聴き、時には鎮め、時には人の願いを伝えてきた。それが繋人じゃ」
ユイがケイトの肩に飛び移った。羽の重みと温かさが、これが幻覚ではないことを教えてくれる。
「君にも僕が見えるということは、君もまた繋人の素質があるということさ。……さて、そんな君がわざわざこんな場所まで来たんだ。探しているのも、ただの人間じゃないね?」
図星だった。
ケイトは意を決して、ぽつりぽつりと語り始めた。
十二歳の夏に出会ったメイのこと。彼女が廃神社に住む神様だったこと。交通事故で記憶を失い、思い出した時には神社ごと消えてしまっていたこと。
話しているうちに、胸の奥に押し込めていた悔恨が溢れ出しそうになる。
すべてを聞き終えたユイは、しばらく沈黙した後、静かに、しかし残酷な事実を告げた。
「残念だけど、その神様はもうこの世にはいないね」
「……え」
「神は、人々の信仰心や記憶を糧にして生きている。廃神社に一人でいた彼女にとって、君は唯一の『信仰者』だったはずだ。その君が事故で記憶を失い、彼女を忘れてしまった時点で……彼女は存在を維持できなくなったんだろう」
ケイトの顔から血の気が引いた。
薄々わかっていたことだった。けれど、言葉にして突きつけられると、心臓を鷲掴みにされたような痛みが走った。
僕が殺したんだ。僕が忘れたせいで、メイは孤独の中で消えていったんだ。
絶望に打ちひしがれ、俯くケイト。その耳元で、ユイが囁いた。
「だが、絶望するのはまだ早い」
ケイトが弾かれたように顔を上げる。
「神は死ぬが、完全に消滅するわけではない。輪廻転生するんだ」
「輪廻転生……?」
「そう。人々から忘れ去られて死んだ神は、また新たな信仰の対象として生まれ変わる。姿形や性格は変わるかもしれない。記憶もリセットされる。けれど、魂の根源は同じだ」
「じゃあ、メイにまた会えるんですか!?」
「可能性はゼロじゃない。それに、転生した神は前世の記憶を持っていないことが多いが、前世で深い関わりのあったものを見れば、記憶の蓋が開くこともある」
深い関わりのあったもの。
ケイトの手が、無意識にポケットの中を探った。そこには、あの紫色の栞が入っている。
ユイの鋭い視線が、そのポケットの膨らみを射抜いた。
「ただ、闇雲に探しても見つからないよ。現代で神が新しく生まれる場所なんて限られているからね。科学の発展したこの時代に、人が理屈抜きで熱狂的に崇めるもの……なんだと思う?」
ケイトが答えあぐねていると、シゲが低い声で助け舟を出した。
「新興宗教じゃよ」
「新興宗教……」
「最近、急激に勢力を伸ばしている教団を探るといい。もし彼女がそこに転生していたとしても、安心はできんぞ。教団の思想がカルト的であればあるほど、集まる信仰心は歪なものになる。そうなれば、彼女もまた危険な『何か』に変質している可能性がある」
希望と不安が同時に押し寄せる。
それでも、手がかりは得られた。メイはどこかで生きているかもしれない。
ユイはケイトの肩からシゲの頭上へと戻り、片目を閉じて意味深に言った。
「さて、情報料だが……君がポケットに隠し持っているその『栞』をもらおうか」
ケイトは息を呑んだ。
まだ見せてもいないのに、なぜわかったのか。
冷や汗が背中を伝う。これはただの栞じゃない。メイとの約束の証であり、彼女の記憶を呼び覚ますための唯一の鍵だ。これを渡してしまったら、もう二度と彼女を取り戻せないかもしれない。
けれど、情報をくれた対価が必要なら……。
ケイトは震える手でポケットから栞を取り出した。紫色の桔梗が、薄暗い部屋の中で儚く光る。
断腸の思いでそれを差し出そうとしたその時、ユイが翼を上げて制した。
「冗談だよ。その覚悟が見たかっただけさ」
ユイは楽しそうに喉を鳴らした。
「対価はもう『いただいた』。……その意味は、そのうちわかるさ」
ケイトは力が抜け、その場にへたり込みそうになった。
狐につままれたような気分だったが、シゲとユイに深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……必ず、見つけ出します」
興信所を後にするケイトの背中は、入室した時よりも少しだけ、力強さを帯びていた。
雑居ビルの階段を降り、再び喧騒の中に戻ったケイトは、深く息を吐き出した。
手には真新しい大学ノートとペンが握られている。
ユイの言葉が、耳の奥で反響していた。
『現代で神が新しく生まれる場所……新興宗教だ』
その日から、ケイトの孤独で地道な調査が始まった。
まずは「敵」を知ることだ。ケイトは図書館に籠もり、宗教法人名簿やオカルト雑誌のバックナンバーを片っ端から読み漁った。
この五年間に設立、あるいは急激に信者を増やした団体。
その数は、予想を遥かに超えていた。東京という街は、救いを求める人々の隙間に入り込む「神様」で溢れかえっていたのだ。
ケイトはノートに条件を書き出した。
一、設立時期が、自分が事故に遭ってから今までの五年以内のもの。
二、崇拝対象が「女神」あるいは「少女」の姿をしているもの。
三、単なる詐欺集団ではなく、実際に「奇跡」や「超常現象」の噂があるもの。
ネットの掲示板、SNSの裏アカウント、街角の噂話。あらゆる情報をノートに書き込み、一つずつ足を運んで検証していく。
ある日は、怪しげなセミナーに潜入した。そこではスーツを着た男が「宇宙のパワー」を説いていたが、ただのマルチ商法だった。
ある日は、病気が治ると評判の集会所へ行った。そこには確かに熱狂があったが、祭壇に祀られていたのはただの石ころで、神の気配など微塵もなかった。
空振りの連続。徒労感が足を重くする。
それでも、夜ごと枕元に置いた栞を見るたびに、ケイトは自分を奮い立たせた。
諦めるわけにはいかない。メイは、どこかで待っている。
季節が冬から春へと移ろうとしていた頃。
膨大な情報の海から、二つの教団が砂金のように浮かび上がってきた。
一つ目は、都心の一等地に巨大なビルを構える『来福教』。
ここ数年で爆発的に信者を増やしている教団だ。
教義は極めて現世利益的。「祈りと多額のお布施を捧げれば、社会的成功と莫大な富が約束される」というものだ。
ネット上には、「入信してすぐに宝くじが当たった」「倒産寸前の会社がV字回復した」といった信憑性の怪しい体験談が溢れている。一方で、「脱会しようとした者が行方不明になった」「ビルの近くを通ると寒気がする」といった不穏な噂も絶えなかった。
ご神体は「福を呼ぶ女神」とされているが、その姿を見た者は幹部以外にいないという。秘密主義と、欲望を肯定する強烈なエネルギー。
もしメイが転生し、人々の欲望に歪められてしまったとしたら……最も可能性が高いのはここだ。
そして二つ目は、下町の古い公民館を拠点に活動を始めた『四弘誓教』。
来福教とは対照的に、派手な宣伝は一切行っていない。
教義は「自分のためではなく、大切な誰かの幸せを祈ること」。
家族の病気平癒や、友人の幸福を願う人々が静かに集まっているという。
興味深いのは、ここの信者たちが口を揃えて言う「奇跡」の内容だ。「祈りが光となって届いた気がした」「温かい手に背中を押された」――その描写は、かつて廃神社で感じたメイの優しさにどこか似ていた。
そして何より、ここのご神体は「パーカーを着た若い女の子」が気まぐれに現れる、という奇妙な噂があった。
欲望の『来福教』。
祈りの『四弘誓教』。
正反対の性質を持つ二つの教団。どちらかが、あるいはどちらとも、メイに関係しているかもしれない。
ケイトはノートを閉じた。
まずは、危険な匂いの少ない方から接触してみよう。
ケイトは電車に乗り、四弘誓教の本部がある下町へと向かった。
第三章 また別の縁
四弘誓教の本部は、都心から少し離れた閑静な住宅街の中にあった。
新興宗教と聞いて身構えていたケイトだったが、目の前に現れたのは、モダンで開放的なガラス張りの建築物だった。威圧感はなく、むしろ地域の公民館のような親しみやすさがある。
だが、建物から漏れ出る空気は明らかに異質だった。清浄で、どこか温かい。ユイや、かつてのメイが放っていたものと同じ「神気」だ。
ケイトは意を決して、正面玄関をくぐった。
平日の昼下がりだからか、ロビーには職員らしき人の姿もまばらだ。ケイトは誰にも呼び止められることなく、導かれるように奥へと進んだ。
廊下の突き当たりに、重厚な両開きの扉がある。「礼拝堂」というプレートが掲げられていた。
心臓が早鐘を打つ。この中に、神がいるかもしれない。もし彼女がメイの生まれ変わりなら――。
ケイトは震える手を添えて、静かに扉を開けた。
そこは、柔らかな光に満ちた空間だった。
天井が高く、ステンドグラスから差し込む陽光が、磨き上げられた床に虹色のモザイクを描いている。正面の祭壇には、鏡のような御神体が祀られ、その周囲には信者たちが手向けたであろう色とりどりの花が飾られていた。
静寂。埃一つ舞っていないような、張り詰めた空気。
その祭壇の最上段、御神体のすぐ横に、一人の少女が座っていた。
パーカーにデニムのショートパンツ、足元は赤いハイカットのスニーカー。
神聖な祭壇の上で、彼女は行儀悪くあぐらをかき、ポテトチップスの袋を抱えていた。
あまりにも場違いな光景。けれど、彼女の黒髪のボブカットが光を受けて揺れるたび、そこから散る粒子のような輝きが、彼女がただの人間ではないことを雄弁に物語っていた。
彼女は一心不乱にポテトチップスを頬張っていたが、ふと、扉の前に立つケイトの視線に気づいたようだった。
パリッ、と乾いた音が響く。
彼女の手が止まった。
「……あの」
ケイトが声を絞り出すと、少女はゆっくりと顔を上げた。
大きな瞳が、ケイトを射抜くように見つめる。その瞳の奥には、子供のような無邪気さと、悠久の時を知る老成した光が同居していた。
彼女は指についた塩を舐めとりながら、不思議そうに首を傾げた。
「ん? あんた、私が見えてんの?」
その声は鈴を転がしたように澄んでいたが、口調はひどく砕けていた。
ケイトは一瞬言葉に詰まったが、しっかりと頷いた。
「……はい。見えます」
「へぇ……マジか」
少女は興味深そうに目を細めると、ひらりと祭壇から飛び降りた。重さを感じさせない、羽毛のような着地。
彼女はスニーカーの底をキュッといわせながら、ケイトの目の前まで歩み寄ってきた。身長はケイトより少し低い165センチほど。甘いお菓子の匂いと、線香のような香りが混ざり合って鼻をくすぐる。
「珍しいね。信者たちだって、私の気配を感じるのがやっとなのに。あんた、名前は?」
「……ケイトです」
「ケイト、か」
彼女はケイトの顔をじっと覗き込んだ。至近距離で見つめられ、ケイトは息を呑む。
次の瞬間、彼女の表情がパァッと明るく輝いた。
「うっわ、超タイプ! イケメンじゃん!」
「……は?」
予想外の反応に、ケイトは間の抜けた声を上げた。
少女はケイトの周りをぐるぐると回りながら、値踏みするように、しかし嬉しそうに声を弾ませる。
「やばー、久しぶりに目の保養だわー。ここに来るのって悩み抱えた辛気臭い顔の人間ばっかだからさ。こんな爽やかイケメンが来るなんて、今日は吉日だね!」
彼女はニカっと笑うと、自分の胸に親指を当ててみせた。
「私はリタ。見ての通り、ここの神様やってる者だよ。よろしくね、ケイト君」
それが、四弘誓教の神、リタとの出会いだった。
神秘的で、俗っぽくて、どこか憎めないその笑顔に、ケイトの張り詰めていた緊張の糸が少しだけ緩んだ気がした。
リタと名乗ったその神様は、屈託のない笑顔でケイトに手を差し出した。
「ほら、握手! 繋人なんでしょ? 仲良くしようよ」
ケイトはおずおずとその手を握り返した。温かい。人間と変わらない体温があった。
「……よろしく、リタ」
リタは満足げに頷くと、礼拝堂の隅にある長椅子に腰掛け、自分の隣をポンポンと叩いた。
「まあ座りなよ。せっかく見える人間が来たんだし、お茶の一杯も出したいとこだけど、あいにく私はポテチしか持ってなくてさ」
彼女は袋を差し出してきた。「食べる? コンソメ味」
「いや、遠慮しておく」
ケイトは苦笑しながら隣に座った。神様がポテトチップスを勧めてくるなんて、想像もしていなかった。
「で? ケイト君は何しに来たの? ただの参拝じゃなさそうだよね」
リタがスニーカーのかかとを鳴らしながら尋ねる。その瞳は、さっきまでの軽い調子とは裏腹に、鋭い知性を宿していた。
ケイトは深呼吸をして、ここに来た理由を語り始めた。
かつて廃神社で出会った少女、メイのこと。
一緒に過ごした日々、交わした約束。
そして、事故によって彼女を忘れ、彼女が消えてしまったこと。
ユイから聞いた輪廻転生の話と、彼女が新興宗教の神として生まれ変わっている可能性があること。
リタは時折「ふーん」と相槌を打ちながら、ポテトチップスを食べる手を止めて静かに聞いていた。
全てを話し終えると、ケイトはポケットからあの栞を取り出した。
ラミネート加工された、紫色の桔梗の栞。
電子レンジで作ったあの日から、もう五年が経っているのに、その色は鮮やかなままだった。
「これを見てほしいんだ」
ケイトは祈るような気持ちで、リタの目の前に栞を差し出した。
「もし君がメイの生まれ変わりなら……これを見て、何か思い出さないか?」
リタは栞を受け取ると、光にかざしてまじまじと見つめた。
礼拝堂の静寂が、ケイトの耳を痛くする。心臓の音がうるさい。
彼女の口から「思い出した」という言葉が出るのを待った。
「……綺麗だね」
リタが呟いた。
「すごく丁寧に作られてる。あんたの気持ちがこもってるのがわかるよ」
彼女は優しい目でケイトを見た。しかし、そこにあるのは同情と慈愛の色だけで、懐かしむような光はなかった。
「でも、ごめん。これを見ても、私の心はちっとも揺れないんだ」
ケイトの肩から力が抜けた。
「そう……か」
「うん。私には前世の記憶なんてないし、この栞に見覚えもない。残念だけど、私はあんたの探してるメイって子じゃないみたいだね」
リタは申し訳なさそうに栞を返してきた。
期待していた答えではなかった。けれど、不思議と絶望感はなかった。
リタの言葉には嘘がないとわかったからだ。
「いや、いいんだ。確認してくれてありがとう」
ケイトが栞をしまうと、リタは少し身を乗り出して言った。
「でもさ、こんなイケメンが一途に探してくれてるなんて、そのメイって子は幸せ者だね。私だったら、絶対にあんたのこと忘れないけどなぁ」
彼女は茶化すように言ったが、その声は温かかった。
「それに、私が違うってことは、もう一つの可能性が高いってことでしょ? なんだっけ、もう一個の教団」
「……来福教」
「そうそう、それ。そっちにいるんじゃない?」
来福教。
ユイが警告していた、現世利益を追求する教団。
もしメイがそこにいるなら、そしてもし彼女が教義の影響を受けて変わってしまっていたら……。
ケイトの表情が曇るのを察したのか、リタが明るい声を出した。
「ま、クヨクヨしてても始まんないっしょ! とりあえず、その来福教に行ってみるしかないじゃん」
「ああ、そうだな……」
ケイトは頷きかけたが、ふとあることを思い出した。
ユイの言葉だ。
『前世で深い関わりのあったものを見れば、記憶を取り戻すこともある』
そして、リタ自身のことも気になった。彼女は自分が何者かを知らないと言った。
もし彼女の前世を知ることができれば、神という存在について、もっと深く理解できるかもしれない。それに、彼女がメイではないという確証を得るためにも、もっとはっきりした証拠が欲しかった。
「リタ、一つ提案があるんだけど」
「ん? なに?」
「ユイって神様から聞いたんだけど、『前世が見える神様』がいるらしいんだ。そこに行ってみないか?」
「前世が見える神?」
リタが目を丸くする。
「ああ。もしかしたら、君の前世がわかるかもしれない。そうすれば、君が本当にメイじゃないってはっきりするし、君自身にとっても何か発見があるかもしれない」
ケイトの言葉に、リタは少し考え込むように顎に指を当てた。
「私の前世、かぁ……。考えたこともなかったけど、ちょっと面白そうかも」
彼女はニヤリと笑った。
「それに、イケメンとデートできるなら断る理由ないしね!」
「デ、デートじゃないけど……」
「はいはい、わかってるって。照れない照れない」
リタは軽やかに立ち上がると、パーカーのフードを被り直した。
「よし、行こう! 善は急げってね。その神様のところまで案内してよ、ケイト君」
こうしてケイトは、四弘誓教の神・リタと共に、ユイから教わった「前世が見える神」――アイのもとへ向かうことになった。
それは、物語が大きく動き出す、次なる出会いへのプロローグだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
タクシーに揺られること三十分。
ケイトとリタが降り立ったのは、煌びやかなネオンが瞬き始めた繁華街の一角だった。
華やかな大通りから一本入ると、そこは湿った空気の漂う路地裏だった。雑多な飲食店の排気ダクトが唸りを上げ、野良猫がゴミ箱を漁っている。
そんな猥雑な通りの奥に、ひっそりと佇む古びた雑居ビルがあった。
「うわ、なんかディープな場所だね」
リタが物珍しそうにキョロキョロと辺りを見回す。
「ここなの? その神様がいるとこ」
「地図だとここなんだけど……」
ケイトはスマホの画面と目の前のビルを見比べた。一階のテナントには、『占い館・真理の部屋』という紫色の怪しげな看板が出ている。
「『真理の部屋』……ここかな」
恐る恐るドアを開けると、カウベルがカランコロンと乾いた音を立てた。
店内は薄暗く、お香のスパイシーな香りが充満していた。壁には星座のタペストリーや曼荼羅のような絵が飾られ、いかにも「占い館」といった雰囲気だ。
奥のテーブルには水晶玉が置かれ、その向こうに二つの人影があった。
「いらっしゃーい。予約のお客さん?」
声をかけてきたのは、派手な金髪をかき上げた若い女性だった。
濃いメイクに、長く伸びた爪にはギラギラとしたラインストーンのネイルアート。胸元の開いた派手な服装は、一見すると夜の街の住人のようだが、その瞳にはどこか落ち着いた理知的な光があった。
彼女の隣には、対照的なほど上品な老紳士が座っていた。
仕立ての良いグレーの三つ揃えスーツを着こなし、白髪交じりの髪を綺麗に撫でつけている。背筋はピンと伸び、その佇まいからは気品が溢れ出ていた。身長はケイトより少し高いだろうか。
「あ、予約はしてないんですけど……ユイさんの紹介で来ました」
ケイトが告げると、老紳士がゆっくりと顔を上げた。
「おや、あのカササギの紹介ですか。それは珍しい」
その声は低く、チェロの音色のように深く響いた。
「私はアイ。しがない占い師の真似事をしておりますが……ふむ、貴方もまた『見える』方のようですね」
アイと名乗った老紳士は、穏やかな微笑みを湛えてケイトを見た。そして、その視線は隣に立つリタへと移る。
「そしてそちらのお嬢さんは……神格をお持ちのようだ」
「はじめましてー! リタでーす!」
リタが元気よく手を挙げると、アイは立ち上がり、優雅な所作で一礼した。
「お初にお目にかかります、リタ様。ようこそお越しくださいました」
その動作一つ一つが洗練されており、まるで王宮の執事のようだ。
金髪の女性――真理が、ふうっと煙草の煙を吐き出しながら口を開いた。
「アタシは真理。こっちはアイじい。よろしくね」
「真理、お客様の前で煙草はいけませんよ」
「へいへい。堅いこと言いなさんな」
真理は灰皿に煙草を押し付けると、興味深そうにケイトたちを見た。
「で? ユイちゃんの紹介ってことは、なんか厄介ごとかい?」
ケイトは再び事情を説明した。
メイを探していること、リタがその生まれ変わりかもしれないこと、そしてリタの前世を確認したいこと。
「なるほどねぇ」
真理は頬杖をついて話を聞いていた。
「前世か。ま、アイじいの専門分野だもんね」
彼女はふと、遠くを見るような目をした。
「アタシもさ、昔見てもらったんだよね。自分の前世じゃなくて、これから先の未来を」
「え?」ケイトが聞き返すと、真理は自嘲気味に笑った。
「アタシ、これでも元OLなんだよ。丸の内のオフィス街でヒール鳴らして歩いてたわけ。でもさ、仕事キツくて、上司はパワハラ野郎で、彼氏には浮気されて……もう全部嫌になっちゃって」
彼女は長い爪でテーブルをコツコツと叩いた。
「ある日、駅のホームでふと思ったの。『あ、今飛び込んだら楽になれるかな』って。そしたら、背中を誰かにトントンって叩かれたんだ」
真理が視線をアイに向ける。アイは静かにお茶を淹れている。
「それがアイじいだった。『お嬢さん、貴女の運命線はまだここで途切れていませんよ』なんてキザなこと言ってさ。そのまま強引にここに連れてこられて、一晩中説教……じゃなくて、占いされたわけ」
「説教ではありませんよ。人生の指針をお示ししただけです」アイが紅茶のカップを差し出しながら訂正する。
「はいはい。でもまあ、おかげで目が覚めたよ。会社なんて辞めてやった。で、今はこうしてアイじいの繋人やってるってわけ」
真理はニカっと笑った。その笑顔は、派手なメイクの下にある素朴な強さを感じさせた。
「神様ってのはさ、忘れられたら消えちまうんだろ? アイじいみたいなイケオジが消えちまうのは、世界の損失じゃん? だからアタシがこの店を繁盛させて、客にアイじいの象徴であるこの店のことを覚えてもらうのさ。それがアタシの新しい生きがいってやつ」
彼女の言葉には、アイへの深い信頼と、共に生きる覚悟が滲んでいた。
ケイトは胸が熱くなった。繋人とは、単に見えるだけの存在ではない。神と共に生き、その存在を世界に繋ぎ止めるアンカーなのだ。
「さて」
アイが紅茶を飲み干し、静かに水晶玉に手をかざした。
「昔話はこれくらいにしましょう。リタ様、貴女の前世を紐解く準備はよろしいですか?」
「お、おう。なんか緊張するな」
リタがゴクリと唾を飲み込む。
「では、失礼して」
アイがリタの手を取り、水晶玉の上に導く。
その手つきはあくまで紳士的で、女性をエスコートするナイトのように恭しかった。
「力を抜いて。深呼吸をしてください。……そう、そのままで」
アイの瞳が、水晶玉のように青く澄んだ光を帯びる。
彼はリタの魂の奥底、記憶の層を一枚一枚めくるように視線を巡らせた。
数秒の沈黙の後、アイの表情が微かに、しかし劇的に変化した。
いつもの冷静沈着な仮面が崩れ、驚きと、そして深い深い慈愛の色が浮かび上がる。
「……まさか」
アイの声が震えた。
「そんな……貴女だったのですか」
「え? なになに? 私、なんかヤバい奴だった?」リタが不安そうに身を乗り出す。
アイはゆっくりと顔を上げ、リタの顔をまじまじと見つめた。その目には涙が光っていた。
「リタ様……いいえ、かつての名で呼ばせていただきましょう。『朱音』」
「あかね……?」
その名前を聞いた瞬間、リタの体がビクリと跳ねた。
まるで雷に打たれたように、彼女の瞳孔が開く。
脳裏に奔流のように流れ込んでくる映像。
燃え盛る炎。戦場。背中合わせで戦う男の背中。そして、最期に交わした口づけ。
「……嘘」
リタが口元を手で覆う。
「嘘でしょ……アイ? あんた、アイなの?」
「はい。長い時を経て、ようやく巡り合えましたね」
アイが微笑むと、目尻から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「お前……!」
リタがアイの胸倉を掴み、激しく揺さぶった。
「キャラ違いすぎんだよ!! なにその紳士キャラ! お前、昔はもっとガサツで、喧嘩っ早くて、私のこと『あかねぇ!』って呼び捨てにしてたじゃん!!」
「おや、そうでしたか? 歳をとると随分と丸くなりましてね」
「丸くなりすぎだろ! 詐欺かよ!」
リタの目からもボロボロと涙が溢れ出していた。
彼女はアイの胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
「会いたかった……ずっと、会いたかったよぉ……!」
「私もです。朱音……いや、今はリタですね。よくぞ、無事で」
アイは優しくリタの背中を撫でた。
ケイトと真理は、言葉もなくその光景を見守っていた。
数百年、あるいは数千年の時を超えて再会した、かつての恋人たち。
神の輪廻転生。それは悲しい別れだけではない。こうした奇跡のような再会もまた、運命の中に織り込まれているのだ。
ひとしきり泣いて落ち着いた後、リタは鼻をすすりながらケイトに向き直った。
「ケイト……ありがとう」
彼女の目は真っ赤だったが、晴れ晴れとしていた。
「あんたのおかげで、一番大切な人を思い出せた。私、メイじゃなかったけど……あんたには感謝してもしきれないよ」
「よかったね、リタ」
ケイトは心からそう言った。自分の目的とは違ったけれど、目の前で起きた奇跡は素直に嬉しかった。
「さて、と!」
リタがパンと手を叩き、気合を入れ直すように立ち上がった。
「私の前世もわかったことだし、次はケイトの番だね! 恩返しさせてもらうよ!」
彼女はアイの方を向き、ニッと笑った。
「おいアイ! お前も手伝えよな! 私の恩人はお前の恩人でもあるんだからさ!」
「ふふ、仰る通りです。かつての相棒の頼みとあらば、断る道理はありません」
アイもまた、嬉しそうに微笑んだ。
「次は来福教だね」
真理が煙草に火をつけながら言った。
「あそこはヤバい噂しか聞かないけど、アイじいとリタちゃんがいれば百人力っしょ」
「ああ。必ずメイを見つけ出す」
ケイトは力強く頷いた。
仲間が増えた。頼もしい神様たちと、それを支える繋人たち。
一人では心細かった道も、今ならきっと進める。
ケイトたちの視線は、夜の闇の向こう、来福教の本拠地がある方角へと向けられた。
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奇跡の再会に涙し、笑い合った後、場の空気は再び引き締まったものへと変わった。
アイが淹れ直してくれた温かい紅茶の湯気が、卓上で静かに揺らいでいる。
「さて、次は来福教ですね」
アイが表情を引き締め、低い声で切り出した。
「ケイト様、リタ様。あそこは……非常に危険な場所です」
アイは手元の水晶玉をそっと撫でた。水晶の中には、どす黒い渦のような靄が見える気がした。
「四弘誓教と来福教は、その根源となるエネルギーの質が全く異なります」
アイは指を二本立てて説明を始めた。
「四弘誓教のご神体に注がれるのは、『他者を愛する心』。家族の健康を願い、友人の幸福を祈る……そうした清らかな想いは、神を正しく強く育てます。リタ様がこのように明るく、力強い神格をお持ちなのも、信者たちの純粋な祈りのおかげです」
「へへっ、照れるじゃん」
リタが得意げに鼻をこすった。
「対して、来福教は……『自分自身の成功』を祈る場所」
アイの声色が一段低くなる。
「金が欲しい、出世したい、ライバルを蹴落としたい……。そうした人間のどす黒い欲望、エゴイズムが集まる場所です。神は鏡のようなもの。注がれる祈りが汚れていれば、神もまたその影響を受け、歪んでしまう」
「歪む……って、どうなるんですか?」
ケイトが不安げに尋ねると、アイは静かに告げた。
「『邪神』へと堕ちます。自我を失い、ただ欲望を貪り食うだけの怪物に。……もし、貴方の探しているメイ様がそこにいるとしたら、彼女はもう、貴方の知っている彼女ではないかもしれません」
ゴクリ、とケイトは唾を飲み込んだ。
あの優しかったメイが、怪物に? 想像するだけで胸が締め付けられるようだった。
だが、だからこそ行かなければならない。彼女をそんな暗闇の中に一人にしておけない。
「行こう、ケイト」
リタが立ち上がり、ケイトの肩をバシッと叩いた。
「邪神だろうが怪物だろうが関係ないね! 私がぶん殴って目ぇ覚まさせてやるよ! それに、もし本当にメイちゃんが苦しんでるなら、助けてあげなきゃ女が廃るってもんでしょ!」
その言葉と笑顔に、ケイトはどれほど救われただろうか。
「うん、ありがとうリタ」
「よし! じゃあアイ、お前も行くぞ!」
リタが当然のようにアイの手を引こうとした。
「昔みたいに二人で暴れようぜ! 背中は任せたからな!」
しかし、アイはその手を優しく、だがしっかりと制止した。
「……申し訳ありません、リタ様。私はここでお待ちしております」
「はあ? なんでだよ! 水臭いこと言ってんじゃねーよ!」
リタが眉を吊り上げるが、アイは静かに首を横に振った。
「私はもう、戦える体ではないのです」
アイは寂しそうに微笑んだ。
「今の私の神格は『占い』と『記憶』に特化しすぎてしまいました。それに、この老体です。荒事は貴女の足手まといになるだけでしょう」
「なっ……」
リタは言葉に詰まった。確かに、目の前のアイは上品な老紳士だ。かつての暴れん坊の面影は、その瞳の奥にしか残っていない。
「それに、私がここを離れれば、真理一人を残すことになります。彼女を守るのもまた、私の役目ですから」
アイが隣の真理に視線を向けると、真理は「別にアタシは平気だけどさ」と言いつつも、少し嬉しそうに顔を赤らめた。
「……ちぇっ、わーったよ」
リタは渋々引き下がった。「その代わり、帰ってきたらまた説教じみた昔話、たっぷり聞かせろよな!」
「ええ、喜んで」
アイは深く頷くと、今度はケイトの方へ向き直った。
「ケイト様。私が行けない代わりに、貴方に一つ、力を貸しましょう」
「力……?」
「私の加護の一部を、貴方の左目に授けます」
アイがケイトの顔に手を伸ばす。その指先が、ケイトの左目の下のほくろに触れた。
ひんやりとした感触と共に、不思議な熱が左目の奥に染み込んでいく。
「これは『予見の瞳』。貴方の身に致命的な危険が迫った時、ほんの数秒先……未来の光景を見せる力です」
「未来が見える……?」
「ええ。ただし、常時発動するわけではありません。貴方の命が脅かされる瞬間、無意識に発動するはずです。どうか、これを役立てて生き延びてください」
アイが手を離すと、ケイトの左目は一瞬だけ青白く発光し、すぐに元の色に戻った。
瞬きをしてみる。視界に変化はないが、左目の奥に確かな重みと、守られているような安心感があった。
「ありがとうございます、アイさん」
「いいえ。どうかご無事で」
「じゃあな、アイじい、真理!」
「気をつけてねー! お土産期待してるよー!」
真理に見送られ、ケイトとリタは店を後にした。
外に出ると、夜はさらに深まっていた。
二人は大通りでタクシーを拾い、来福教の本拠地がある湾岸エリアへと向かった。
車窓を流れる街の灯りが、次第に少なくなっていく。
埋立地にそびえ立つタワーマンション群や巨大な倉庫街。その一角に、異様な存在感を放つ黒いビルが見えてきた。
窓という窓が黒く塗りつぶされ、屋上には天を突くような鋭利なオブジェが飾られている。
あれが、来福教の本部ビルだ。
「うわぁ……趣味悪っ」
タクシーを降りたリタが、ビルを見上げて顔をしかめた。
「ここからでもわかるよ。中からドロドロしたもんが溢れ出てきてる。……マジで臭い」
リタが鼻をつまむ。神である彼女には、人間には感じ取れない「気」の淀みが強烈な悪臭として感じられるらしい。
ケイトもまた、肌にまとわりつくような不快な湿気を感じていた。まるで重油の海に潜っていくような息苦しさ。
ビルの正面玄関は大きく開け放たれていたが、受付には誰もいなかった。警備員の姿すらない。
ただ、奥へと続く廊下の闇が、ぽっかりと口を開けて待っているだけだ。
「……行こう」
ケイトは震える足を叱咤し、一歩を踏み出した。
ポケットの中の栞を、ギュッと握りしめる。
待っててくれ、メイ。
今、迎えに行くから。
二人の影が、巨大な闇の中へと飲み込まれていった。
第四章 欲望の棺
自動ドアが音もなく開くと、ひんやりとした冷気が肌を撫でた。
外の蒸し暑さとは対照的な、人工的で無機質な冷たさ。エントランスホールは吹き抜けになっており、天井からはシャンデリアではなく、無数の金色の鎖が垂れ下がっていた。その一本一本が、まるで獲物を絡め取る蜘蛛の糸のように鈍く光っている。
「……誰もいないね」
リタが小声で呟いた。その声が、誰もいない広大なホールに虚しく反響する。
床は大理石で磨き上げられているが、どこか薄汚れて見えた。隅の方には埃が溜まり、飾られている高価そうな壺や絵画も、手入れがされていないのか、くすんで精彩を欠いている。
豪華絢爛に見せかけようとして、その実、中身が腐り落ちている廃墟。そんな印象をケイトは受けた。
「上だ」
ケイトは直感的に呟いた。
アイから授かった左目が、微かに疼く。視線の先、ホールの中央にあるエレベーターの表示板だけが、赤く点滅していた。
「最上階……そこから一番強い気配がする」
「だね。ビンビン来てるよ、悪い予感が」
リタがパーカーの袖をまくり、気合を入れるように軽くジャンプした。
二人はエレベーターに乗り込んだ。ボタンを押す指先が冷たい。
扉が閉まり、上昇を始める。重力が足元にかかる感覚と共に、ケイトの心臓の鼓動も早まっていく。
5階、10階、20階……。
表示される数字が増えるにつれ、エレベーター内の空気が重くなっていくのがわかった。
耳鳴りがする。低い、唸るような音。それは風の音のようでもあり、大勢の人間が呻いているようでもあった。
「これ、聞こえる?」
ケイトが尋ねると、リタは険しい顔で頷いた。
「うん。『もっとよこせ』『俺を救え』『あいつを殺せ』……。欲望の声だね。ここに集まった信者たちの念が、建物自体に染み付いてるんだ」
リタは不快そうに身震いした。
「気持ち悪い。吐き気がするよ」
チン、と軽快な電子音が鳴り、エレベーターが止まった。
最上階。
扉がゆっくりと左右に開く。
その向こうに広がっていたのは、闇だった。
照明は落とされ、窓の外からの月明かりだけが頼りだったが、その月光さえも黒い靄に遮られ、室内には届いていないようだった。
足を踏み出すと、じゅ、と湿った音がした。
床に何かが広がっている。液体ではない。影だ。
タールのように粘着質で、生き物のように脈打つ影が、床一面を覆い尽くしていた。
「うわ、何これ……!」
リタが足を上げると、影が糸を引いて靴底に絡みつこうとする。
その時、闇の奥から微かな物音が聞こえた。
衣擦れの音。そして、何かがズルズルと引きずられるような音。
ケイトは目を凝らした。
広間の奥、一段高くなった祭壇のような場所に、人影が見えた。
いや、一人ではない。祭壇の下には、数人の人間がひれ伏していた。スーツ姿の男、派手なドレスを着た女、作業着の老人。年齢も性別もバラバラな彼らは、床に額を擦り付け、一心不乱に祈りを捧げていた。
「おお……神よ……我に富を……」
「あいつに……あいつに罰を……」
「もっと……もっと……」
彼らの体は、下半身から徐々に床の影と同化し始めていた。影が彼らの足を、腰を、胴体を飲み込み、ずぶずぶと沈んでいく。
それでも彼らは祈りを止めない。自分の体が消失していく恐怖よりも、目の前の神にすがりたいという欲望が勝っているのだ。
「あれは……もう助からないね」
リタが悲痛な声で言った。
「魂ごと食われてる。自分から望んで差し出してるんだ」
彼らの命を糧にして、その中心に君臨する存在。
ケイトの視線が、祭壇の上の「それ」に釘付けになった。
そこに、彼女はいた。
記憶の中にある姿と同じ、白い着物に緋色の袴。古風な巫女装束。
だが、その姿はあまりにも異様だった。
着物の裾からは、足ではなく、無数の黒い影の触手が伸び、祭壇全体を覆うように広がっている。
そして何より――顔がなかった。
首から上は、濃密な漆黒の霧に包まれており、目も鼻も口も見えない。ただ、闇の奥底で二つの赤い光が、蛍火のようにゆらゆらと明滅しているだけだった。
「……メイ……?」
ケイトの声が震えた。
呼びかけに反応したのか、赤い光がこちらを向いた。
ギギギ……と、錆びついた蝶番が軋むような音が響く。彼女が首を傾げた音だ。
その瞬間、部屋中の空気が凍りついた。
圧倒的な威圧感。
肌が粟立ち、本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らす。
けれど、ケイトは逃げなかった。逃げるわけにはいかなかった。
あの禍々しい影の中に、かつて一緒に笑い合った、大切な少女がいるのだから。
「僕だ……! ケイトだ!」
ケイトは叫びながら、一歩前へ出た。
影の触手がざわりと波打つ。
「忘れたのか!? あの神社のこと! 一緒に遊んだこと! 君がくれた桔梗の花のこと!」
返事はない。
代わりに、祭壇の上のメイから、低い、呻くような音が漏れ出した。
『……ほ……し……い……』
それは言葉というよりは、ノイズ混じりの念波のようだった。
『……もっ……と……』
彼女は、ただ飢えていた。
信者たちの欲望を飲み込み続け、それでも満たされず、さらに何かを求めて彷徨う亡霊のように。
「メイ! 思い出してくれ!」
ケイトはポケットから、あの栞を取り出した。
薄暗い闇の中で、ラミネートされた紫色の桔梗が、微かに光を反射する。
それを高く掲げる。
「これは君との約束だ! 僕たちは……友達だろう!?」
その瞬間だった。
ケイトの左目が、カッと熱くなった。
視界が歪み、一瞬先の光景が脳裏に焼き付けられる。
――黒い槍が、自分の胸を貫く映像。
「ッ!?」
ケイトは反射的に身を屈めた。
ヒュンッ!!
頭上数センチのところを、鋭利な影の槍が高速で通過し、背後の壁に突き刺さった。
コンクリートが砕ける音が遅れて聞こえる。
もしアイの目がなければ、今頃ケイトの心臓は抉り取られていただろう。
『……ヨコ……セ……』
メイの背中から、無数の影が鎌首をもたげ、蛇のようにうねり始めた。
赤い瞳が、ギラリと凶悪な光を放つ。
そこにはもう、かつての面影など欠片もなかった。
ただ、貪欲な破壊の意志だけが、ケイトたちに向けられていた。
「交渉決裂ってわけか……!」
リタがケイトの前に飛び出し、両拳に眩い光を纏わせた。
「上等だよ! 話してわかんないなら、体でわからせてやる!」
リタが床を蹴り、光の弾丸となってメイへと突っ込んでいく。
開戦の合図は、少女の叫び声と共に切って落とされた。
「はあああっ!!」
リタの裂帛の気合いと共に、光を纏った右拳がメイの胴体へと突き刺さる。
ドォォン!!
重厚な衝撃音が広間に響き渡り、圧縮された空気が爆風となって周囲を薙ぎ払った。
直撃だ。
まともに食らえば、コンクリートの壁さえ粉砕する威力。
リタの拳が触れた箇所から、まるでインクを弾き飛ばすように黒い影が飛散する。ごっそりと抉り取られた脇腹。その奥に、一瞬だけ白い着物の生地と、透き通るような肌が見えた気がした。
「やったか!?」
ケイトが声を上げる。
だが、リタの表情は晴れない。むしろ、焦燥の色が濃くなる。
「……嘘でしょ」
抉り取られたはずの傷口が、見る見るうちに蠢き始めたのだ。
周囲に漂う影が生き物のように集まり、傷口を塞いでいく。まるで逆再生の映像を見ているかのような速さで、影は元通りに修復されてしまった。
それどころか、傷を負ったことで影の密度が増し、より一層どす黒く凝縮されていくようだった。
『……イ……タ……イ……』
メイの口元と思われる部分が裂け、耳障りなノイズが漏れる。
痛みへの怒りか、それとも捕食者としての歓喜か。
メイの背中から伸びていた影の触手が、一斉に切っ先をリタに向けた。その数、数十。一本一本が鋭利な刃物のように研ぎ澄まされている。
「くっ、数が多い……!」
リタがバックステップで距離を取ろうとするが、影の速度は異常だった。
シュシュシュシュッ!
風切り音と共に襲い来る黒い雨。
リタは光の障壁を展開し、かろうじて直撃を防ぐが、防ぎきれない影の切っ先が頬をかすめ、パーカーの袖を切り裂く。
「きゃっ!」
赤い血が飛沫を上げ、床の影に吸い込まれていく。
神であるリタが傷つく。それは、相手の力が同格、あるいはそれ以上であることを意味していた。
「リタ!」
ケイトが駆け寄ろうとするが、リタが片手で制する。
「来ちゃダメ! こいつ、ヤバいよ……!」
リタは荒い息を吐きながら、メイを睨みつけた。
「私の攻撃が効かないわけじゃない。でも、再生速度が早すぎる。それに……」
リタの視線が、床に沈みかけている信者たちに向けられた。
「ここにある『欲望』のエネルギーが膨大すぎるんだよ。あいつらにとっては、ここは無限に回復できる泉の中にいるようなもんさ。私のパンチ一発分くらいのダメージなんて、一瞬でチャラにされちゃう」
四弘誓教のエネルギー源は「他者を思う祈り」。対して、来福教は「自己の欲望」。
この場において、圧倒的に有利なのは後者だった。
このビル全体が、信者たちのどす黒い欲望で満たされた巨大な胃袋であり、ケイトたちはその消化液の中に放り込まれた異物でしかなかった。
『……モット……ヨコセ……』
メイがゆらりと一歩、踏み出した。
ただそれだけの動作で、部屋全体の重力が増したかのような圧迫感が襲う。
ズズズ……と、床の影が波のように盛り上がり、巨大な顎のような形を成していく。
狙いはリタではない。
無防備なケイトだ。
「ケイト!!」
リタが叫ぶと同時に、アイから授かった左目が激しく明滅した。
――死の予兆。
頭上から影の大口が落下してくる映像。
ケイトは反射的に横へ転がった。
ガシャァァン!!
一瞬前までケイトが立っていた場所を、影の顎が食い破る。大理石の床が粉々に砕け散り、破片が弾丸のように飛び散った。
その衝撃波に煽られ、ケイトの体は壁際まで吹き飛ばされた。
「ぐっ……!」
背中を強打し、肺の中の空気が強制的に押し出される。
視界が揺れる中、顔を上げると、メイがゆっくりとこちらへ向き直るのが見えた。
赤い瞳が、冷酷にケイトを見下ろしている。
そこには、かつて桔梗の花をくれた少女の優しさは微塵もない。
あるのは、飢餓感と殺意だけ。
(……メイ……本当に、君なのか……?)
絶望が胸を締め付ける。
言葉は届かない。思い出の品も通用しない。
彼女はもう、別の「ナニカ」に成り果ててしまったのか。
「ぼーっとしてんじゃないよ!!」
リタの声が思考を現実に引き戻した。
彼女はケイトとメイの間に割って入り、両手を広げて光の壁を展開していた。
メイから放たれる無数の触手が、激しく壁を叩く。
バチバチバチッ!
光と闇が衝突し、火花のような閃光が散る。
「ぐ……うぅ……!」
リタの表情が歪む。光の壁に亀裂が走り始めていた。
「ケイト、逃げるよ! ここでは勝てない!」
「でも、メイが……!」
「死んだら元も子もないでしょ! 一旦引いて、体勢を立て直すんだ!」
リタの言う通りだ。
このままでは二人とも殺される。そして、メイを救うことも永遠にできなくなる。
ケイトは歯を食いしばり、頷いた。
「……わかった!」
「よし、掴まって!」
リタは光の壁を一気に爆発させ、目くらましの閃光を放った。
メイが怯んだ一瞬の隙に、リタはケイトの腰を抱え上げると、窓の方へ向かって疾走した。
強化ガラス製の巨大な窓。
その向こうには、東京の夜景が広がっている。
「舌噛まないようにね!」
リタは躊躇なく跳躍し、右足に光を収束させて回し蹴りを放った。
パリィィィン!!
分厚いガラスが粉砕され、夜風が一気に吹き込んでくる。
二人はガラスの破片と共に、暗い夜空へと飛び出した。
浮遊感。
眼下には、豆粒のような車や街灯の光が流れている。
ここは地上数十階。落ちれば即死だ。
だが、リタは空中で体勢を整えると、ビルの外壁を蹴って巧みに減速しながら落下していく。
「っとと……重いなぁ、もう!」
文句を言いながらも、リタの腕はしっかりとケイトを支えていた。
風切り音が耳元で唸る中、ケイトは振り返った。
砕け散った窓の奥。
暗闇の中から、二つの赤い光がこちらを睨みつけている。
そして、低く歪んだ声が、夜風に乗って届いた。
『……ニガ……サ……ナイ……』
次の瞬間、窓から黒い影が爆発的に噴出した。
それは巨大な翼のように広がり、夜空を侵食しながら、真っ逆さまに落ちていく二人を追いかけてくる。
彼女もまた、ビルの外へと飛び出してきたのだ。
獲物を逃がさないために。
その執念深さに、ケイトは戦慄した。
戦いは、まだ終わらない。むしろ、これからが本番なのだと悟った。
夜の帳が下りた東京の上空を、二つの影が落ちていく。
重力に引かれ、加速する落下の中で、ケイトは必死にリタの首に腕を回していた。冷たい夜風が頬を切り裂くように打ち付ける。眼下には、光の川となって流れる首都高速道路と、無数に瞬くビルの窓明かりが、まるで深海の発光生物の群れのように広がっていた。
美しい夜景。だが、今のケイトにとってそれは死へのカウントダウンを表示するタイマーでしかなかった。
「来るよ、ケイト! しっかり捕まって!」
リタの叫び声が風音にかき消されそうになる。
直後、ケイトの背筋に氷柱を突き刺されたような悪寒が走った。殺気だ。純粋で濃密な、殺意の塊が背後から迫ってくる。
アイから借り受けた左目が、警告を発するように熱く脈打った。視界の端に、数秒先の未来が赤いノイズ混じりの映像としてフラッシュバックする。
――背後から迫る漆黒の槍。ケイトの心臓を貫く未来。
「右だ!」
ケイトは反射的に叫んだ。
リタは理由を問うことなく、即座に反応した。空中で身を捻り、ビルの壁面を蹴って強引に軌道を変える。
ヒュンッ!
一瞬前まで二人がいた空間を、ごう、と風を巻き込んで黒い影が貫いていった。それは槍というよりは、巨大な杭のような太さと質量を持っていた。もし直撃していれば、リタの加護ごと粉砕されていただろう。
ケイトが振り返ると、頭上の夜空に巨大な影が浮かんでいた。
来福教のビルから飛び出したメイだ。
彼女の背中からは、影で構成された蝙蝠のような翼が大きく広がり、月明かりを遮っている。その姿は、かつて廃神社で無邪気に笑っていた少女の面影など微塵もなく、夜そのものが具現化したかのような禍々しさを放っていた。
顔は見えない。ただ、影の奥底で燃える二つの赤い瞳だけが、執拗にケイトたちを捉えて離さない。
今の彼女は、神でありながら、人々にはただの「黒い怪物」にしか見えていないはずだ。リタの姿も見えていない。人々にとって、空を飛ぶケイトは、まるで黒い怪物にさらわれているかのように見えているだろう。
『……ニガ……サ……ナイ……』
低く歪んだ声が、直接脳内に響いてくるようだった。
メイが翼をはばたかせると、影の一部が分離し、無数の矢となって降り注いだ。
「しつこいなぁ、もう!」
リタは悪態をつきながら、隣の雑居ビルの屋上へと着地した。コンクリートがひび割れる音と共に、すぐさま次の跳躍へ移る。
ダダダダダッ!
二人が走り抜けた直後を、影の矢が次々と穿っていく。屋上の貯水タンクが穴だらけになり、水飛沫が噴き上がった。
リタは光の粒子を足裏に纏わせ、ビルの谷間を縫うように駆け抜ける。壁を走り、看板を蹴り、エアコンの室外機を踏み台にして、立体的な機動で逃走を図る。
だが、メイの追撃は止まない。
彼女は空を滑るように移動し、影を自在に変形させて攻撃を繰り出してくる。ある時は巨大なハンマーのように振り下ろし、ある時は鞭のようにしならせ、逃げ道を塞ごうとする。
「くっ、左から来る!」
ケイトの左目が再び未来を映す。路地裏の角から、影の触手が待ち伏せている映像。
「了解!」
リタは急ブレーキをかけ、真上へと跳んだ。直後、路地の暗がりから飛び出した影が空を切る。
アイの能力がなければ、とっくに捕まっていただろう。だが、この未来視も万能ではない。使うたびにケイトの脳には焼き切れるような負荷がかかり、視界がかすみ始めていた。
二人の逃走劇は、静寂に包まれていた夜の街を騒乱の渦へと巻き込んでいった。
繁華街の大通り。信号待ちをしていたタクシーのボンネットに、メイが放った流れ弾ならぬ「流れ影」が直撃し、車体がひしゃげた。
突然の爆音と衝撃に、運転手と乗客が悲鳴を上げて飛び出してくる。
「な、なんだ!?」
「空から何か降ってきたぞ!」
歩行者たちが空を見上げる。そこには、ビルからビルへと飛び移る光を纏った少女は見えず、宙に浮くケイトと、それを追う巨大な黒い怪物の姿があった。
もはや隠蔽できるレベルではない。
スマートフォンが一斉に向けられ、フラッシュが焚かれる。
「怪獣だ!」「来福教から出てきたぞ!」「映画の撮影か?」
好奇心と恐怖が入り混じったざわめきが、波紋のように広がっていく。
ケイトはリタの腕の中で、必死に周囲の状況を確認した。
逃げ場がない。
メイの力は、来福教のビルを出てから弱まるどころか、むしろ増大しているように見えた。
あの黒い怪物が、最近話題の新興宗教「来福教」のビルから飛び出してきたという目撃情報。それが一瞬にしてネットを駆け巡り、人々の中に「来福教への不信感」と「得体の知れないものへの恐怖」を植え付けているのだ。
人々の注目。恐怖。混乱。それらすべての負の感情が、邪神と化した彼女の影をより濃く、強固なものにしているのだ。
「マズいよ、ケイト……! あいつ、どんどんデカくなってる!」
リタが焦燥の声を上げる。
確かに、メイの背中の翼は先ほどよりも一回り大きくなり、ビル風に煽られる看板を引き裂くほどの勢いを持っていた。
その時、上空からバラバラバラ……という乾いた音が響いてきた。
強烈なサーチライトが、路地裏を走るリタと、空を舞うメイを照らし出す。
「警視庁だ! 直ちに停止しなさい!」
拡声器からの警告音。
ヘリコプターだ。機体には『警視庁』の文字。一機ではない。二機、三機と集まってきている。さらに地上からは、サイレンの音が四方八方から迫っていた。
パトカーの赤色灯が、ビルの壁面を赤く染め上げる。
「停止しろって言われてもねぇ!」
リタは舌打ちしながら、さらに加速する。
大通りに出ると、そこはすでに封鎖されていた。バリケードのように並べられたパトカーの列。その背後には、重装備に身を包んだ機動隊、そしてさらに奥には、黒い装備に身を固めた特殊部隊(SIT)らしき集団が銃口を構えていた。
「目標確認! 上空の黒い物体、および人質と思われる少年!」
「発砲許可を願う!」
無線飛び交う緊迫した空気。
彼らの目には、リタの姿は見えていない。ただ、ケイトが黒い怪物に追われ、あるいは何らかの力で宙を浮きながら逃げているように見えているのだろう。
だが、彼らが真に警戒すべきは、ケイトではなかった。
『……ジャマ……ヲ……スルナ……!』
メイが咆哮した。
それは鼓膜ではなく、魂を直接揺さぶるような音波だった。
彼女はヘリのサーチライトを鬱陶しそうに睨みつけると、影の翼を大きくはばたかせた。
ズォッ!!
影の一部が槍のように伸び、上空のヘリに向かって射出される。
「回避ッ!」
パイロットが叫び、機体を急旋回させるが、間に合わない。影の槍はテールローターを掠め、機体のバランスを大きく崩した。
黒煙を上げてふらつくヘリ。
それを見た地上の部隊長が、決断を下した。
「撃てぇッ!!」
一斉射撃。
数え切れないほどの銃弾が、夜空に火線を引いてメイへと吸い込まれていく。
乾いた発砲音が連続し、硝煙の匂いが立ち込める。
だが、それは無意味だった。
メイの周囲に展開された影のバリアは、鉛の弾丸をすべて飲み込み、あるいは弾き返した。キンキンキンッ!と硬質な音が響くだけで、彼女の進行を止めることすらできない。
それどころか、攻撃を受けたことでメイの敵意が警察へと向いた。
『……キエロ……』
メイが腕を振るうと、影が津波のように押し寄せ、パトカーの列を飲み込んだ。
悲鳴と、金属がひしゃげる音。
その光景は、上空を旋回する報道ヘリによって、全国のお茶の間へと生中継されていた。
『ご覧ください! 来福教本部から現れた謎の黒い物体が、警察車両を攻撃しています!』
『まるでSF映画のような光景です! あれはいったい何なのでしょうか!?』
テレビ画面に映し出される破壊の光景。
それを見る何百万もの人々の恐怖。
「あれは何だ」「怖い」「来福教ってやばい宗教だったのか」「神の怒りか?」
SNSで拡散される憶測とパニック。
そのすべてが、見えないエネルギーとなってメイへと流れ込んでいく。
彼女の影はさらに膨張し、ビルの屋上を覆い尽くすほどの巨大な怪物へと変貌しつつあった。
「なんてこと……」
ビルの陰に身を潜めたリタが、絶望的な表情で呟いた。
「あいつ、来福教に向けられた人々の『恐怖』まで食らってやがる。このままじゃ、手がつけられなくなるよ……!」
ケイトは震える手で、ポケットの中の栞を握りしめた。
状況は最悪だ。
警察の介入は、事態を収束させるどころか、メイに新たな力を与える薪となってしまった。
銃弾も、物理的な攻撃も通じない。
この圧倒的な絶望を覆すには、どうすればいい?
ケイトの瞳に、メイの放つどす黒い影と、リタの纏う淡い光が映り込んでいた。
ビルの谷間にある狭い路地裏。室外機の陰に身を潜めながら、ケイトは荒い呼吸を整えていた。
隣ではリタが膝をつき、苦しげに肩を上下させている。彼女の体を覆っていた淡い光の粒子は、今や風前の灯火のように頼りなく明滅していた。
「はぁ、はぁ……ダメだ、勝てない……」
リタが弱音を吐くのを、ケイトは否定できなかった。
路地から少し顔を出して大通りを覗き見る。そこには、この世の終わりを描いたような光景が広がっていた。
アスファルトに突き刺さった影の槍。ひっくり返り、炎を上げるパトカー。逃げ惑う機動隊員たち。
そして、その中心に君臨するメイの姿は、先ほどよりも明らかに巨大化していた。
もはや少女のシルエットではない。背中から生えた影の翼はビルの幅を超えて広がり、その翼膜の一つ一つが、恐怖に歪む人々の顔のように蠢いている。彼女の足元からはコールタールのような黒い泥が溢れ出し、周囲の景色を侵食していた。
ビルの大型ビジョンには、ニュース速報が映し出されている。
『現場上空からの映像です! 謎の黒い怪物は依然として暴れ回っています! 警察の攻撃は一切通用しません!』
アナウンサーの絶叫に近い実況。画面の端には、SNSでの反応がリアルタイムで流れている。
『日本終わった』『怖すぎる』『来福教の呪いだ』『神罰だ』
滝のように流れるコメントのすべてが、恐怖と絶望に染まっていた。
「見ろよ、あれ……」
リタが顔をしかめて大型ビジョンを指差した。
「あいつ、食べてるんだ。あのニュースを見ている何百万、何千万っていう人間の『恐怖』を」
ケイトはハッとした。
アイから借りた左目が、不可視のエネルギーの流れを捉える。
テレビカメラのレンズを通して、そしてスマホの画面を通して、日本中から立ち上るどす黒い霧のようなエネルギーが、現場のメイに向かって吸い寄せられている。
来福教の教義は「欲望」だった。だが、今の彼女は「恐怖」という、より原始的で強力な負の感情を糧にしている。
警察が攻撃すればするほど、怪物の恐ろしさが際立ち、人々の恐怖が煽られる。
恐怖がメイを強くし、強くなったメイがさらなる恐怖を生む。
最悪の悪循環。このままでは、彼女は東京そのものを影で飲み込む魔神になりかねない。
「……私の力じゃ、もう無理だよ」
リタが膝を抱えた。「四弘誓教の信者はまだ少ない。私が使えるエネルギーなんて、あいつが集めてる恐怖の総量に比べたら、バケツ一杯の水と大津波くらいの差がある。……あんな怪物、どうやって止めればいいのさ」
諦めかけた神の声。
だが、ケイトはまだ目を逸らさなかった。
じっと、エネルギーの流れを見つめる。
恐怖も、欲望も、そして祈りも。元を辿ればすべては人の心が発する「想い」のエネルギーだ。
今はそのすべてが「恐怖」というベクトルでメイに注がれている。
もし。
もしも、この膨大なエネルギーの「質」を変えることができたなら?
ケイトの視線が、路地の隅に転がっているものに止まった。
この騒動で転倒した選挙カーの傍に壊れかけた拡声器が落ちている。
そしてその横には、見覚えのあるロゴが入った「のぼり旗」が倒れていた。
『四弘誓教』。
どうやら、この近くで信者が布教活動をしていたらしい。旗竿は折れかけ、布は泥で汚れていたが、文字ははっきりと読める。
脳内で、パズルのピースが組み合わさっていく。
現在、日本中の目がここに注がれている。カメラが回っている。
これはピンチだが、同時に最大のチャンスでもある。
四弘誓教の教義は「他者を愛し、守るための祈り」。
人々が怪物を恐れるのではなく、誰かを守りたいと願うとき、そのエネルギーはどこへ行く?
「……リタ」
ケイトは静かに、しかし力強く呼びかけた。
「勝てるかもしれない」
「え?」
「エネルギーの総量で負けてるなら、ひっくり返せばいい。あのカメラの向こうにいる全員を、リタの味方につけるんだ」
ケイトは拡声器を拾い上げ、埃を払った。スイッチを入れると、ザザッというノイズと共に赤いランプが点灯する。まだ使える。
「味方につけるって……どうやって? みんな怖がって逃げ回ってるのに」
「演出するんだよ。恐怖映画を、英雄譚に書き換える」
ケイトはリタの手を取り、真っ直ぐに彼女の目を見つめた。
「僕に考えがある。一か八かの大博打だけど、乗ってくれるか?」
リタはケイトの瞳に宿る、狂気にも似た強い意志を見て、呆れたように、けれど嬉しそうに笑った。
「……あんた、ほんと人間離れしてるね。いいよ、心中してあげる。その作戦、聞かせな!」
ケイトは路地に倒れていたのぼり旗を拾い上げ、泥を払い落として高々と掲げた。
夜風が旗をはためかせる。
反撃の準備は整った。
第五章 おわりのはじまり
「行くよ、ケイト。舌噛まないようにね!」
リタがケイトの腰を抱きかかえる。
華奢な見た目に反して、神である彼女の腕力は強靭だった。コンクリートの地面を蹴り砕き、二人は弾丸のように夜空へと舞い上がった。
眼下には、地獄絵図と化した大通り。
影の巨人が、逃げ遅れた機動隊員たちに向かって、無数の黒い触手を振り上げているのが見えた。あの触手一本一本が、鋼鉄をも容易く引き裂く凶器だ。
間に合うか。いや、間に合わせる。
「リタ、あそこだ! メイと警察の間!」
「了解! 派手に決めるよ!」
重力が二人を引き戻す。
風切り音が鼓膜を叩く中、ケイトは手にした「四弘誓教」ののぼり旗を、槍のように構えた。
――ズドンッ!!
轟音と共に、二人はアスファルトの大地に降り立った。
舞い上がる土煙。アスファルトの破片が散弾のように飛び散る。
突然の乱入者に、死を覚悟していた機動隊員たちが目を丸くし、振り下ろされようとしていた影の触手がピタリと止まった。
土煙が晴れていく。
そこに立っていたのは、泥だらけののぼり旗を背負い、古びた拡声器を構えた一人の少年――ケイトだった。
そしてその傍らにはリタが立っているが、エネルギーの枯渇した彼女の姿は、今のところケイト以外の誰の目にも映っていない。
「な、なんだ君は!? 一般人は下がれ!」
隊長らしき男が叫ぶ。だが、ケイトはそれを無視して、頭上の巨大な影を見上げた。
近くで見ると、その絶望的な大きさは圧倒的だった。ビルよりも高く、空を覆い尽くす漆黒の闇。その中心にあるはずのメイの意識は、深い憎悪と恐怖の泥に沈んでいる。
『アァァァァ……』
影の巨人が、不快な金属音のような咆哮を上げた。
ケイトという新たな異物を排除すべく、鎌のような鋭い影が横薙ぎに迫る。
速い。人間の動体視力では捉えきれない速度。
だが、ケイトは微動だにしなかった。
「リタ!」
「任せな!」
ケイトの叫びに呼応し、不可視のリタが前に飛び出す。
彼女が掌をかざすと、六角形の光の障壁が展開された。
ガギィィィン!
影の鎌が、見えない壁に阻まれて火花を散らす。メイは幾度も影の攻撃を試みるが、全て失敗に終わった。
周囲の人間には、まるでケイトが睨みつけただけで影の攻撃が弾かれたように見えたはずだ。
ざわめきが広がる。
カメラのフラッシュが焚かれる。
今、この瞬間、日本中の視線が「謎の少年」に釘付けになった。
ケイトは震える指で拡声器のスイッチを押し込み、口元に寄せた。
喉が張り付きそうだ。心臓が早鐘を打っている。
これはただのハッタリだ。僕には何の力もない。隣にいるリタが見えなければ、ただの頭のおかしい高校生が旗を振っているだけだ。
でも、だからこそ。
この「虚構」を「真実」に変えなければならない。
「みんな、聞いてくれ!!」
拡声器を通したケイトの声が、ノイズ混じりに戦場に響き渡った。
彼はテレビカメラのレンズを真っ直ぐに見据えた。その向こうにいる、何千万という人々と目を合わせるように。
「この怪物は、兵器じゃ倒せない! 銃も、ミサイルも効かない! なぜなら、こいつは君たちの『恐怖』を食べて大きくなっているからだ!」
ケイトは言葉を紡ぐ。
事前に考えたセリフじゃない。魂から絞り出す、必死の叫びだ。
「怖がれば怖がるほど、あいつは強くなる! 絶望すればするほど、あいつは喜ぶ! ……でも、逆ならどうだ?」
ケイトは背負ったのぼり旗を、ドンと地面に突き立てた。
『四弘誓教』の文字が、夜風に煽られてバタバタと音を立てる。
「恐怖の反対はなんだ? それは『勇気』だ! 『愛』だ! 『祈り』だ! 自分のためじゃなく、大切な誰かを守りたいと願う心だ!」
隣でリタが、驚いたようにケイトを見つめていた。
彼女の体が、蛍のような淡い光を帯び始めている。
届いている。
画面の向こうの人々の心が、恐怖から、別の何かへと揺らぎ始めている。
「あの子は何者だ?」「あの旗はなんだ?」「もしかして、本当に……」
疑問が興味に変わり、興味が期待に変わる。
その期待こそが、信仰の種火だ。
「お願いだ! テレビを見ているみんな、スマホを見ているみんな! 今すぐ、君の大切な人の顔を思い浮かべてくれ!」
ケイトは叫ぶ。涙声になりそうなのを必死に堪えて。
「家族でも、恋人でも、友達でもいい! その人が明日も笑っていられるように、その人の未来が守られるように、強く願ってくれ! その『祈り』だけが、この闇を払う光になるんだ!」
戦場の空気が変わった。
機動隊員の一人が、震える手で胸元のロケットペンダントを握りしめた。
避難所の親子が、互いに抱き合った。
画面越しの無数の人々が、恐怖に支配されていた心を、愛する誰かへの想いに切り替えた。
その瞬間。
夜空から、雪のように優しい光の粒子が降り注いだ。
それは一つ一つが人々の祈りの欠片。
光は吸い寄せられるようにリタの身体へと集束していく。
「……すごい」
リタが自分の手を見つめた。
消え入りそうだった光が、今は直視できないほどの輝きを放っている。
力が、溢れてくる。
四弘誓教のご神体に注がれるエネルギーは「他者を愛する心」。
ケイトの演説は、日本中を即席の信者に変えたのだ。
「来たよ、ケイト! 力がみなぎってくる!」
リタが叫ぶ。その姿が、徐々に周囲の人々にもぼんやりと見え始めていた。光り輝く女神のシルエットとして。
影の巨人――メイが、本能的な危機を感じ取ったのか、身をよじった。
全方位から、漆黒の棘を雨のように降らせる構えをとる。
だが、もう遅い。
「行くぞ、リタ! 合わせろ!」
「応ッ!!」
ケイトは拡声器を放り投げ、右の拳を固く握りしめた。
隣のリタもまた、光り輝く右拳を大きく振りかぶる。
狙うは一点。あの分厚い影の装甲を貫き、中に囚われているメイに届く一撃。
二人の呼吸が重なる。
ケイトは、目の前の何もない空に向かって、全身全霊の拳を突き出した。
同時に、リタの拳が炸裂する。
「うおおおおおおおッ!!」
「はあああああああッ!!」
二人の拳が空を打った瞬間。
リタの拳から放たれた極大の光の衝撃波が、ケイトの拳から放たれたかのように重なり、一直線に影の巨人へと奔った。
二人の拳が空を打った瞬間。
リタの拳から放たれた極大の光の衝撃波が、ケイトの拳から放たれたかのように重なり、一直線に影の巨人へと奔った。
ドォォォォォォンッ!!
大気を震わす轟音が、都心の夜を引き裂いた。
衝撃波は影の巨人の胸部を直撃し、分厚い闇の装甲をバターのように抉り取った。
黒い霧が悲鳴を上げて飛散する。
その光景は、誰の目にも明らかだった。あの少年の一撃が、怪物を吹き飛ばしたのだと。
一瞬の静寂の後、爆発的な歓声が上がった。
「やった!」「すげえ!」「本当に効いてるぞ!」
機動隊員たちが、避難民たちが、そして画面の向こうの数百万の人々が、拳を突き上げ、祈りを捧げた。
その興奮と熱狂は、さらなるエネルギーとなって天へ昇り、光の粒子となってリタへと降り注ぐ。
『四弘誓教……すごい……!』
『神様は本当にいたんだ……!』
『あの子を守って! どうか、勝たせて!』
SNSには『#四弘誓教』『#祈りの力』といったタグが溢れかえり、トレンドを埋め尽くしていく。
それはもはや、ただの注目ではない。明確な「信仰」だった。
人々の心に灯った希望の火が、リタという器を満たしていく。
「あははっ! すごいよケイト! 体が熱い! 力が止まらない!」
リタの輪郭が、より一層鮮明になっていく。
最初はぼんやりとした光の塊だった彼女の姿が、パーカーのフードの質感、靡く黒髪、そして凛とした表情まで、はっきりと誰の目にも映るようになっていた。
「見ろ! 少年の隣に……!」
「あれが神様なのか!?」
人々は畏怖と感動の入り混じった眼差しで、光り輝くリタを見つめた。その視線が、さらに彼女を強くする。
だが、相手は人間のどす黒い欲望を喰らって育った邪神だ。
抉られたはずの胸部の傷口が、蠢く影によって瞬く間に塞がれていく。
来福教の信者たちが捧げた「自分だけが助かりたい」「成功したい」という利己的な欲望は、あまりにも根深く、粘着質だった。
『オオオオオオオ……!』
メイの咆哮と共に、影の触手が再び襲いかかる。今度は一本や二本ではない。無数の槍となって、全方位から二人を串刺しにせんと迫る。
「させるかよッ!」
リタが光の蹴りを放つ。
一撃で数本の触手が蒸発する。
ケイトもまた、リタの動きに合わせて拳を振るう。彼の拳が空を切るたびに、リタの攻撃が影を打ち砕く。
まるでダンスを踊るように、二人は息を合わせて影の猛攻を捌いていく。
ドガァン! バギィン!
光と闇が激突するたびに、閃光が迸る。
リタの拳がメイの顔面を捉えた。影が弾け飛び、中にいるメイの素顔が一瞬だけ露わになる。
苦悶に歪む、少女の顔。
「メイ……!」
ケイトが手を伸ばそうとするが、すぐにドロリとした闇が傷口を覆い隠してしまう。
「ちっ、しつこい!」
リタが舌打ちをする。
殴れば確実にダメージは通っている。信仰心が高まったおかげで、リタの攻撃力は跳ね上がっている。
だが、メイの回復速度も異常だった。
どれだけ光で焼き尽くしても、底なし沼のように湧き出る欲望の影が、すぐに彼女を修復してしまうのだ。
リタは蝶のように飛び回りメイを攻撃しながらもケイトに及ぶ攻撃にも目を光らせていた。ケイトに攻撃が向きそうになるとケイトを抱え攻撃をかわす。空間を存分に使った立体的な攻撃と回避の中、気づけば大通りにいたはずのケイトはビルの屋上に放り投げられていた。
――ジリ貧だ。
ケイトは焦りを感じ始めていた。
人々の熱狂は永遠には続かない。時間が経てば、恐怖や不安がまた頭をもたげてくるだろう。そうなれば、リタの力は弱まり、メイの影が再び優勢になる。
それに、リタの体にも限界が近づいているのが分かった。
急激に膨れ上がったエネルギーを受け止めきれず、彼女の肌にはピキピキと光の亀裂が走り始めていた。
神の器といえど、無限ではない。
「……ケイト、分かってるよね?」
影の触手を光の盾で弾きながら、リタが静かに言った。
彼女の横顔には、玉のような汗が光っていた。
「あいつの回復速度、少しずつ落ちてはいるけど……このまま削り合いを続けても、こっちが先にパンクする」
「ああ……分かってる」
「決めるなら、一撃だ。あいつの再生能力を上回る、特大の一撃ですべての影を消し飛ばすしかない」
リタがケイトの方を向き、ニッと笑った。
その笑顔は、どこか儚げで、けれど力強かった。
「私、今集まってるエネルギー全部、次の一発に込めるよ。多分、それで私の体も保たないかもしれないけど……」
「リタ……」
「心配しないで。神様はそう簡単に死なないって。……それに、あんたの大切な子、助けたいんでしょ?」
ケイトは唇を噛み締め、そして力強く頷いた。
「頼む。僕も……僕の全力で合わせる」
「よし! じゃあ、ちょっと無茶するよ!」
リタが地面を蹴り、ケイトを抱えて再び空へと舞い上がった。
メイもそれを追って、影の翼を広げて上昇してくる。
空中戦。
リタは光の残像を残しながら高速で飛び回り、メイの攻撃を紙一重で回避し続ける。
その間も、彼女は周囲の光を貪欲に吸収し続けていた。
街中の祈りを、願いを、愛を。
その全てを右腕に集約させていく。
バチバチと大気が悲鳴を上げる。
リタの右腕が、太陽のように眩く輝き始めた。
その光はあまりにも強大で、彼女の腕の輪郭すら溶け出しそうになっている。
熱い。隣にいるケイトの肌が焼けるほどの熱量。
だが、まだ足りない。
もっと、もっとだ。
確実にあの分厚い闇を貫き、中のメイを傷つけずに影だけを消滅させるには、極限までの集中と威力が必要だ。
「はぁ……はぁ……! まだ……まだだよ……!」
リタが苦しげに喘ぐ。
影の触手が頬を掠め、赤い血が飛ぶ。だが彼女は止まらない。
回避に専念し、攻撃のチャンスを窺いながら、限界を超えてエネルギーを溜め続ける。
眼下の街からは、絶え間なく祈りの声が聞こえてくるようだった。
ケイトは目を閉じ、自分の心の奥底にある想いを、その光に上乗せした。
――思い出してくれ、メイ。
――あの日の約束を。桔梗の花を。
――僕はずっと、君を待っていたんだ。
その想いが最後のトリガーとなったのか、リタの右腕の光が、白から黄金色へと変化した。
臨界点突破。
チャージ完了。
リタが急停止し、空中で踏ん張った。
目の前には、全てを飲み込まんとする巨大な影の化身。
その中心に向かって、リタは黄金に輝く拳を構えた。
ケイトもまた、祈りを込めた拳を引く。
これが、最後の一撃だ。
「いくよッ!!」
リタの叫びが、夜空に響き渡った。
彼女が解き放ったのは、ただのエネルギーの塊ではない。
それは、この街に住む幾百万の人々の「誰かを想う心」の結晶だった。病気の母を案じる子、遠く離れた恋人を想う若者、友の無事を願う少年。
無数の愛が黄金の奔流となって、右腕から溢れ出す。
同時に、ケイトも拳を突き出した。
彼の拳には魔法も奇跡も宿っていない。ただの肉体だ。
けれど、その動きは完璧にリタとシンクロしていた。魂が共鳴するように、二人の拳が重なる。
――四弘誓願・愛別離苦!!
リタの心の中の叫びと共に、黄金の光線が放たれた。
それは音すら置き去りにする速度で、影の巨人のど真ん中を貫いた。
防御など意味をなさない。
何重にも張り巡らされた影の障壁が、豆腐のように容易く溶解していく。
どす黒い欲望の闇が、純粋な愛の光によって浄化され、白い蒸気となって霧散する。
『ギィィィィィィィィィィッ!!』
影の巨人が、断末魔のような絶叫を上げた。
光は巨人の体を内側から照らし出し、膨張し、そして――弾けた。
カッ!!
真昼の太陽が地上に降りたかのような、強烈な閃光。
世界が白一色に染まる。
ビル群の窓ガラスが振動し、街路樹が激しく揺れる。
誰もが目を覆い、その圧倒的な神威に畏怖した。
やがて、光が収束していく。
空中に漂っていた禍々しい黒い霧は、跡形もなく消え去っていた。
星空が戻ってくる。
そして、その星空の下から、力尽きた小さな影がふらふらと落ちてきた。
「……へへ、やった……ね……」
リタだった。
全身から光が失われ、その体は半透明になりかけている。
黄金の輝きを放っていた右腕は黒く焦げ付き、痛々しい火傷を負っていた。神としての力の限界を超え、器が崩壊しかけているのだ。
彼女は意識を失い、重力に引かれて落下していく。
「リタ!」
ケイトは空中で体勢を整えると、必死に手を伸ばして彼女を受け止めた。
ずしりと重い。けれど、温かい。
彼女は命を削って、道を切り開いてくれたのだ。
ケイトはリタを抱きかかえたまま、ビルの屋上へと着地した。
コンクリートの上に彼女を優しく寝かせる。リタの胸は微かに上下しており、まだ息があることに安堵した。
終わったのか……?
ケイトは立ち上がり、辺りを見回した。
あれほど圧倒的だった影の気配は消えている。
街からは、勝利を確信したような歓声が聞こえ始めていた。
だが、ケイトの胸騒ぎは収まらなかった。
何かが、おかしい。
あの光の中で、確かに影は消滅したはずだ。
けれど、肝心の「彼女」の姿が見当たらない。
浄化されたメイはどこへ行った?
その時だ。
足元の影が、ぬるりと動いた気がした。
「……え?」
ケイトが視線を落とす。
ビルの屋上に伸びる自分の影。その中から、コールタールのような黒い粘液が湧き出し、音もなく立ち上がっていた。
それは人の形をしていた。
ボロボロに千切れかけた巫女服。焼け焦げた長い黒髪。
そして、顔の半分以上がまだ黒い影に覆われたままの――メイだった。
「メイ……!?」
生きていた。いや、まだ完全には浄化されていなかったのだ。
来福教の欲望のエネルギーは、ケイトたちの想像を遥かに超えて根深かった。
黄金の一撃を受けてなお、彼女の核となる部分には、執念深い影がへばりついていた。
メイはゆらりと顔を上げた。
影に覆われていない左目だけが、虚ろにケイトを見つめている。
その瞳には、かつての輝きはない。あるのは、底知れぬ渇望と、深い悲しみだけ。
「……ケイト……」
掠れた声が、風に乗って届いた。
名前を呼ばれた。それだけで、ケイトの胸が熱くなる。
だが、次の瞬間、メイの言葉は冷たい呪詛へと変わった。
「……どうして……忘れたの……?」
ズキン、と心臓が痛んだ。
メイの右半身を覆う影が、ドクドクと脈動する。
「ずっと……待ってたのに……」
「さみしかった……こわかった……」
「ひとりは……いや……」
彼女から溢れ出すのは、怒りではない。純粋な孤独と絶望だった。
忘れ去られる恐怖。誰にも認識されない虚無。
その心の隙間に、来福教の「欲望」が入り込み、彼女を歪めてしまったのだ。
影が再び膨れ上がる。
リタの一撃で大部分は消し飛んだが、残った影はより高密度に圧縮され、鋭利な刃物のような殺気を放っていた。
「僕も……連れてって……」
メイが手を伸ばした。
その指先から、黒い影が鞭のようにしなり、ケイトの腕に巻き付いた。
「っ……!」
冷たい。氷のように冷たく、そして重い。
影は生き物のように這い上がり、ケイトの全身を締め上げていく。
逃げようとしたが、体が動かない。金縛りにあったように、指一本動かせない。
これは物理的な拘束ではない。魂を直接掴まれているような感覚だ。
メイがゆっくりと近づいてくる。
裸足の足音が、ペタ、ペタとコンクリートに響く。
彼女の背後から、どす黒い闇が翼のように広がり、夜空を覆い隠そうとしていた。
このままでは、飲み込まれる。
僕も、彼女と共に、永遠の闇の中へ。
リタは倒れている。
周りに助けてくれる人はいない。
絶体絶命の状況。
メイの顔が、目の前まで迫る。
影に侵食された右目から、黒い涙が零れ落ちていた。
「……ずっと……一緒だよ……ケイト……」
その悲痛な声を聞いたとき、ケイトの恐怖は消え去った。
代わりに湧き上がってきたのは、どうしようもないほどの愛おしさと、申し訳なさだった。
彼女をこんな姿にしたのは、僕だ。
僕が忘れてしまったから。僕が約束を守れなかったから。
「ごめん……メイ……」
ケイトは動かない体で、それでも彼女を受け入れようとした。
影が首筋まで這い上がり、視界が黒く塗りつぶされそうになった、その時。
カッ……!
ケイトの胸ポケットから、温かな光が漏れ出した。
それは、あの影の拘束を押し返すほどに強く、優しく、脈打っていた。
栞だ。
あの夏の日、二人で作った約束の証。
電子レンジの中で色褪せないように加工された、永遠の桔梗の花。
光は熱を帯び、ポケットの中で震えている。
まるで、「まだ終わっていない」と叫ぶように。
ケイトの脳裏に、ユイの言葉が蘇る。
――対価はもう『いただいた』。……そのうちわかるさ。
そうか。
このために、僕はずっとこれを持っていたんだ。
ケイトは歯を食いしばり、渾身の力を込めて、光る胸ポケットへと右手を伸ばした
影の蔦が腕に食い込む激痛をねじ伏せ、ケイトは指先を胸ポケットへと滑り込ませた。
指が触れた瞬間、爆発的な熱量が掌を焦がす。だが、それは不思議と心地よい熱さだった。
掴み出したのは、一枚の栞。
ラミネート越しに透ける紫色の桔梗が、今はまるで恒星のように眩いプラチナの光を放っている。
「う、あぁぁ……っ!」
光を浴びたメイが、怯えたように顔を覆って後ずさった。
彼女を縛り付けていた影の蔦が、光に触れた端からジュウジュウと音を立てて蒸発していく。
栞はケイトの手の中で形を変え始めた。
光の粒子が螺旋を描いて伸び、硬質化し、一本の美しい剣へと収束する。
柄には桔梗の花の意匠。刀身は透き通るような純白の光。
それは武器というよりも、祈りを具現化した祭具のようだった。
――これが、僕たちの絆の形だ。
ケイトは確信した。
これはメイを傷つけるための剣ではない。彼女を縛る「過去」と「絶望」を断ち切るための刃だ。
「メイ!!」
ケイトは地を蹴った。
拘束から解き放たれた体は、羽が生えたように軽い。
メイが反射的に影の壁を展開する。だが、光の剣の前では、どんな堅牢な闇も薄紙同然だった。
一閃。
影の壁が両断され、光の粒子となって散る。
メイの目の前まで肉薄する。
彼女の瞳が見開かれた。そこには恐怖と、微かな期待が混じり合っていた。
ケイトは剣を振り上げた。
狙うのは彼女の身体ではない。彼女の背後にへばりつき、その小さな肩にのしかかっている、どす黒い影の根源だ。
「もう、君を一人にはしない!」
咆哮と共に、剣を振り下ろす。
刃がメイの体をすり抜け、その奥にある影の核を捉えた。
硬い手応え。まるで何年も積み重なった氷塊を叩き割るような感覚。
だが、剣に宿った桔梗の光が、その硬度を凌駕する。
パァァァァンッ!!
澄み渡るような破砕音が、夜の静寂を切り裂いた。
ガラス細工が砕け散るように、メイを覆っていた最後の影が粉々に弾け飛ぶ。
断末魔も、怨嗟の声もなかった。ただ、浄化の光が全てを優しく包み込んでいった。
同時に、ケイトの手の中で光の剣もまた、役目を終えたかのように音もなく砕け散った。
キラキラと舞う光の粉雪の中、支えを失った少女が、糸の切れた人形のように崩れ落ちてくる。
ケイトは倒れてくる彼女を両手でしっかりと受け止めた。
「……っ」
軽い。あまりにも軽い。
けれど、その体には確かな温もりが戻っていた。
氷のような冷たさは消え、人間と同じ、生きた熱が伝わってくる。
「……ん……ぅ……」
腕の中で、少女が小さく身じろぎした。
長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がる。
そこに現れたのは、黒く濁った瞳ではなかった。
夜空を映し込んだような、深く澄んだ黒曜石の瞳。
彼女はぼんやりと焦点を合わせ、目の前のケイトを見つめた。
「……ケイト?」
鈴を転がすような、懐かしい声。
あの夏の日の神社の縁側で聞いた、あどけない響きそのものだった。
ケイトの目頭が熱くなり、視界が滲む。
喉が詰まって声が出ない。ただ何度も頷いて、彼女の体を強く抱きしめた。
「そうだよ……メイ。僕だ」
「ケイト……本当に、ケイトなの?」
メイがおずおずと手を伸ばし、ケイトの頬に触れる。
その指先の温かさに、ケイトは堪えきれずに涙をこぼした。
三年間の昏睡。二年間の記憶喪失。そして、彼女を探し続けた孤独な日々。
すべての空白が、今この瞬間に埋まっていくようだった。
メイはしばらくケイトの顔を見つめていたが、ふと周囲に散らばる光の残滓を見て、ハッとした表情になった。
その光が、かつて自分があげた花と同じ色をしていることに気づいたのだ。
彼女の視線は、ケイトの手元――今はもう何もない掌へと注がれた。
「今の光……桔梗の……」
メイが呟く。
そして、ケイトの顔を見て、今にも泣き出しそうな表情で言った。
「約束の栞……持ってきてくれたんだね」
ケイトは頷く。
メイの瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ出した。
「ごめんなさい……ケイトは約束を守ってくれたのに……私、受け取れなかった……」
彼女は悔しそうに顔を歪めた。
ケイトが命がけで持ってきた約束の品を、自分のせいで失わせてしまったと思っているのだ。
「ううん。僕が壊したんだ。君を助けるために」
ケイトは、何も持っていない自分の手を開いて見せた。
「あの栞が、君を縛っていた影を切る剣になってくれたんだ。だから、もうないんだよ」
「え……」
「ごめんね。ちゃんと手渡すって約束、守れなくて」
ケイトが謝ると、メイはきょとんとして瞬きをした。
それから、安堵したようにふわりと表情を緩ませた。
涙で濡れた頬に、満開の花のような笑顔が咲く。
「ううん。ケイトが無事なら、それでいいの」
彼女は小さな小指を、ケイトの目の前に差し出した。
あの夕暮れの神社で交わした時と同じように。
「それに、また作ればいいもん。……今度は一緒に作ろう?」
その言葉に、ケイトの心臓が甘く締め付けられる。
失われた過去を嘆くのではなく、これから作る未来の話をしてくれたことが、何よりも嬉しかった。
ケイトは自分の小指を、彼女の小指に絡めた。
指切りげんまん。
神様と人間を結ぶ、一番単純で、一番強い契約。
「うん。約束だ」
二人の指が結ばれたその時、ビルの谷間から朝の光が差し込んできた。
長い夜が明け、新しい一日が始まろうとしていた。
最終章 カササギの計算
朝の光が、ビルの谷間に深く沈殿していた夜の闇を、ゆっくりと溶かし始めていた。
古都興信所。
書類の山と埃に埋もれた雑居ビルの一室には、いつもと変わらない静寂があった。ただ一つ違うのは、部屋の隅に置かれたブラウン管テレビが、早朝とは思えないほど騒々しいニュースを流し続けていることだった。
『――現場からは以上です。未明に発生した謎の黒煙と発光現象ですが、警察の発表によりますと、現在は完全に鎮静化したとのことです。周辺住民からは「巨大な影を見た」「天使のような光を見た」という通報が相次ぎましたが、集団幻覚の可能性も含め、専門家が調査を……』
画面の向こうでは、ヘリコプターからの空撮映像が流れている。
瓦礫が散乱する大通り。規制線の向こう側で、救急隊員や警官たちが慌ただしく行き交う様子が映し出されていた。
だが、その中心にあったはずの禍々しい影は、もうどこにもない。
代わりに映ったのは、担架で運ばれていく、淡く今にも消えそうなパーカー姿の少女――リタと、その横で巫女服の少女に肩を貸して歩く、黒髪の少年の姿だった。
「……ふぅ」
シゲは、湯気の立つ湯呑みを両手で包み込み、深く息を吐いた。
徹夜明けの老体には、粗茶の渋みが五臓六腑に染み渡る。
彼はテレビ画面から視線を外し、自分の頭の上で羽を休めている相棒に目を向けた。
「終わったようだな」
「ああ。随分と派手にやってくれたものだね」
カササギの姿をした神、ユイは、白と黒のコントラストが美しい翼を器用に嘴で手入れしながら答えた。その声には、どこか満足げな響きが含まれていた。
シゲは、しわくちゃな目尻をさらに下げて、ふふ、と笑った。
あの少年、ケイトがここを訪れた時のことを思い出す。
必死な形相で、ボロボロのチラシを握りしめていた少年。神が見えるという素質を持ちながら、その意味も知らず、ただひたすらに大切な人を探していた純粋な魂。
「ユイ」
「なんだい?」
「お前さん……ちょっとあの子に、甘すぎるんじゃないかね?」
シゲは悪戯っぽく微笑みながら問いかけた。
本来、神と人との取引はもっとドライなものだ。情報を与えるならば、相応の対価をその場で奪うのが常である。
だがユイは、ケイトが持っていた「栞」を欲しがる素振りを見せながら、結局は受け取らなかった。それどころか、メイを救うためのヒントを与え、彼が自力で辿り着けるように導きさえした。
それは、ただの気まぐれにしては、あまりに慈悲深い。
シゲの言葉を聞いたユイは、羽繕いを止めて、つぶらな瞳でシゲを見下ろした。
そして、心外だと言わんばかりに翼をすくめてみせた。
「まさか」
ユイはテレビ画面に視線を移す。
そこには、ちょうど現場の映像が切り替わり、何もなくなったアスファルトの上で、キラキラと光る粒が風に舞って消えていく様子が映っていた。
あの栞が砕け散った跡だ。
「ちゃんと対価である栞は頂いたよ。時間差でね」
ユイは歌うように言った。
「あそこで彼が栞を渡していたら、彼は彼女を救うための『剣』を失っていただろう? それでは物語がつまらない。彼があの栞を使い、彼女を救うために砕いた。その瞬間、あの栞に込められた想いは昇華され、消滅した。……神への供物としては、手垢のついた紙切れをもらうより、よほど上等なエネルギーさ」
なるほど、とシゲは唸った。
縁結びの神であるユイにとって、物理的な物よりも、そこで結ばれたり解かれたりする「縁」のエネルギーこそがご馳走なのだ。
ケイトは栞を失ったが、代わりにメイとの新しい縁を手に入れた。
その過程で生じた爆発的な感情の揺らぎこそが、ユイへの支払いだったというわけだ。
「計算高い鳥だこと」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
ユイはカカカ、と喉を鳴らして笑うと、ふと思い出したように付け加えた。
「それに、君は生い先短い老いぼれだからね」
唐突な毒舌に、シゲは眉をひそめた。
だが、ユイの声色に慈悲はなく、ただ淡々とした事実として告げていた。
「彼に認知されるだけで儲けものさ」
シゲは、湯呑みを持つ手を止めた。
自分が死ねば、ユイを観測する人間がいなくなる。それは神としての死に直結する。だからこそ、新しい「繋人」であるケイトに存在を認識させた。
ユイはシゲの死を悼んでいるわけではない。単に、自分の存在をこの世に繋ぎ止めるための保険をかけたに過ぎないのだ。
神とは本来、そういう傲慢で現金な生き物だ。
「……ふん。相変わらず、口の減らん鳥だ」
シゲは鼻を鳴らし、冷めかけた茶を啜った。
だが、悪い気分ではなかった。
打算的だろうとなんだろうと、自分が死んだ後にこの鳥が誰にも観測されずに消えてしまうのは、なんとなく寝覚めが悪いと思っていたからだ。
あの少年なら、この喧しい神の相手も務まるだろう。
「さて、と」
ユイが翼を広げ、シゲの頭から机の上へと飛び降りた。
「ニュースも終わったことだし、徹夜明けだ。今日はもう店仕舞いにしよう」
「ああ、そうだな。……あの子は、来ると思うか?」
シゲが窓の外を見やる。
朝日が完全に昇りきり、街を黄金色に照らしている。
ユイは羽繕いをしながら、つまらなそうに答えた。
「来るさ。あの律儀な少年ならな。だが、今日じゃない」
「ほう?」
「積もる話があるだろうさ。壊れた絆を繋ぎ直したばかりなんだ。数日は二人きりにしておくのが、縁結びの神としての粋な計らいってもんだよ」
カカカ、とユイが喉を鳴らして笑う。
シゲは呆れたように肩をすくめると、「商売あがったりじゃな」と呟いて、事務所のブラインドを下ろした。
テレビの中では、アナウンサーが興奮気味に「奇跡」という言葉を連呼している。
だが、この小さな興信所では、それは奇跡などではなく、ただの「縁」の必然であることを知っていた。
新しい訪問者が扉を叩くのは、もう少し先の話になるだろう。
老人とカササギは、その時を楽しみに待つことにした。
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数日後の午後。
古都興信所の重たい鉄扉が、控えめなノックの後に開かれた。
差し込む日差しと共に現れたのは、包帯の巻かれた少年と、彼に寄り添うように立つ巫女服姿の少女だった。
「……失礼します」
ケイトが少し緊張した面持ちで頭を下げる。その隣で、メイもおずおずと会釈をした。
狭い事務所の中は、一気に賑やかになった。
シゲとユイだけでなく、今日は珍客が先に来ていたからだ。
ソファには、派手なネイルを煌めかせたマリと、その隣で優雅に紅茶を啜る老紳士アイ。そして、スナック菓子を抱えてあぐらをかいているパーカー姿のリタがいた。
「よっ! 主役のお出ましじゃん!」
リタがスナック菓子を放り出し、跳ねるように立ち上がった。
「ケイト! メイちゃん! 怪我大丈夫? 私なんか寝たら一発で治っちゃったけどさ!」
「リタ……うん、おかげさまで」
ケイトが苦笑いすると、マリが立ち上がってメイの手を取った。
「あんたがメイちゃんね。噂の暴走神様……じゃなくて、ケイト君の大事な人。会えて嬉しいわ」
マリの明るい笑顔に、メイは少し驚いたように目を丸くし、それからふわりと微笑んだ。
「はじめまして。……あの時は、ご迷惑をおかけしました」
「いいのいいの! 結果オーライってやつ!」
アイが静かに立ち上がり、深々と頭を下げた。
「お二人が無事で何よりです。そしてケイトさん、貴方のおかげで、私も愛する人と再会できました」
アイの視線の先で、リタが照れくさそうに鼻をこすっている。
シゲが、しわくちゃな顔をほころばせて手招きした。
「まあ、立ち話もなんだ。座りなさい。狭いところだがね」
ケイトとメイは、勧められるままにパイプ椅子に腰を下ろした。
ユイがシゲの頭から机の上に飛び移り、二人の顔を交互に見つめた。
「やあ。顔色が良くなったね、二人とも」
「ユイさん……」
ケイトは居住まいを正し、真っ直ぐにカササギを見つめた。
「ありがとうございました。あの時、ユイさんが栞を受け取らずにヒントをくれたおかげで……メイを救うことができました」
「僕を救ったのも、あの栞だったんだよね」
メイが小さく呟く。その瞳は、今は一点の曇りもなく澄んでいる。
「礼には及ばないよ」
ユイは翼を広げ、芝居がかった仕草で言った。
「僕は縁結びの神だからね。切れかけた縁が再び結ばれるのを見るのは、何よりの好物なんだ」
シゲが横から茶々を入れる。
「素直じゃないのう。あの栞が剣になることまで見通しておったくせに」
「おや、バラすのかい? 無粋な老人だ」
二人のやり取りに、ケイトは驚き、そして納得したように頷いた。
「そうだったんですね……。あの栞は、砕けて消えてしまいましたけど、後悔はしていません」
ケイトはポケットから、何かを取り出した。
それは、真新しいラミネート加工された二枚の栞だった。
挟まれているのは、あの時と同じ、鮮やかな紫色の桔梗の花。
「だから、新しく作ったんです。今度は、二人で」
メイも、自分の着物の袖から同じものを取り出して見せた。
「神社はもう取り壊されてなくなっちゃったから……二人で裏山の雑木林を探し回ったの。そうしたら、草むらの中にひっそり咲いてて。それを持ち帰って、またレンジでチンしたの」
メイが嬉しそうに笑うと、リタが「レンジかよ! 現代的~!」と爆笑した。
シゲが机の引き出しから、一本の油性ペンを取り出した。
「ほれ。せっかくなら、名前を書いておくといい。物はいつか壊れるが、そこに刻んだ名は魂に残る」
ケイトはペンを受け取ると、メイの方を見た。
「書こうか」
「うん」
机の上に二枚の栞を並べる。
午後の日差しが、紫色の花弁を透かして輝かせている。
ケイトは、震える手でペンのキャップを開けた。
あの日、交通事故に遭う前には書けなかった名前。
幼かったケイトが、まだ知らなかった漢字。
今は違う。
失った時間を取り戻し、痛みを乗り越え、再び巡り会えた今だからこそ、刻める文字がある。
ケイトは、メイの栞の裏に、ゆっくりとペンを走らせた。
『繋人』
人と神を繋ぐ人。
過去と未来を繋ぐ人。
その名に込められた意味を噛みしめるように。
続いて、メイがペンを受け取った。
彼女は少し緊張した様子で、けれど迷いのない筆致で、ケイトの栞の裏に書いた。
『芽依』
芽吹く命。寄り添う心。
一度は枯れかけたその命が、再び力強く芽吹いた証。
書き終えた二枚の栞が並ぶ。
『繋人』と『芽依』。
黒いインクの文字が、桔梗の紫に重なって、確かな存在感を放っていた。
「へー、ケイトって漢字で書くとそうなるんだ」
覗き込んだリタが、目を丸くして驚きの声を上げた。
「『繋ぐ人』でケイト……。あんたにぴったりじゃん」
「……できた」
ケイトが照れくさそうに呟くと、部屋中から温かい拍手が起こった。
マリがハンカチで目元を拭い、アイが穏やかに微笑む。
シゲは満足そうに茶を啜り、ユイは「良い縁だ」と短く鳴いた。
ケイトとメイは顔を見合わせ、照れくさそうに、でも誇らしげに笑い合った。
二人はそれぞれの名前が刻まれた栞を交換し、大切に胸に抱いた。
もう二度と、なくさないように。
もう二度と、忘れないように。
窓の外では、秋の風が優しく吹き抜けていく。
神様と人間。
住む世界が違っても、時が流れても。
この栞がある限り、二人の物語は続いていく。
桔梗の花言葉は――「永遠の愛」、そして「変わらぬ心」。




