『天使のわっか』
『天使のわっか』
夜十時すぎ、玄関のドアがそっと開いた。
帰ってきた姉の髪が、ふわっと揺れる。
その瞬間――
「なんか違う」と、私は思った。
甘い匂い。
いつものシャンプーじゃない。
「ただいまー」
姉は笑っている。
でも、髪の先にまとわりついた夜風の匂いだけが、
妙に“よそ行き”だった。
翌日も、そのまた翌日も、
姉の香りは毎晩ちがった。
柑橘みたいな匂いの日。どこかの庭木のそばを通ったような。
薬草みたいな匂いの日。夜の公園の草むらを踏んだあとのような。
土に似た、湿った匂いの日。川べりの風を思い出させる。
どれも、姉の部屋にも、家のどこにもない匂い。
お年頃の妹は、
こういうことだけには敏感だった。
「……なんか、変だよね」
誰にも言わず、私はこっそり姉をつけることにした。
*
姉はバイト先とは逆方向へ歩いた。
街灯の下を抜けるたび、
髪の匂いが少しずつ混じってくる。
今日の匂いは……なんだろう。
柔らかいミルクみたいな、眠くなる匂い。
公園の前で、姉は立ち止まった。
あたりを見回すように目を細める。
私は木陰に隠れながら、
姉の動きを息を飲んで追う。
姉はベンチに腰を下ろし、
バッグの中にそっと手を伸ばした。
やわらかい白い布。
それが、ふくらんで揺れた。
心臓が跳ねる。
それは――赤ちゃんだった。
姉は静かに抱きかかえて、
その子の背中を、そっとさすっていた。
子守歌みたいな吐息で。
目をこらすと、
赤ちゃんの髪はうっすら光の輪みたいに生えていた。
まるで、天使のわっか。
私は木陰から出られず、
ただ見ていた。
姉は小さくつぶやく。
「……ごめんね。今日も寝つけないね」
その声は、
家で聞かせるどの声より優しかった。
*
家に帰ると、
私は勇気を出して聞いた。
「……お姉ちゃん。あの子、誰?」
姉は少しだけ、泣きそうな顔になった。
「バイト先の店の前で、
置き去りになってた赤ちゃん。
お母さん、迎えに来るって言ったのに……来なくて」
届ければ、きっと施設に行く。
でも姉は、それをどうしてもできなかった。
バイト終わりの夜道を、
毎晩ちがうルートで散歩していたのは、
赤ちゃんが落ち着く“夜風の匂い”を探していたから。
姉の髪に残った香りは、
全部、あの子が泣き止んだ匂いだった。
私は涙をこらえながら言った。
「……その匂い、私も知ってる」
姉が驚いて、こちらを見る。
姉はためらいながらスマホを差し出した。画面には簡素なメモが並んでいた。
1/12 川べり 土の匂い → 少し泣き止む
1/14 公園 ミルクの匂い → すぐ寝た
1/17 商店街 油の匂い → ダメ
1/19 教会裏 木の匂い → 泣き止む
1/22 橋の上 冷たい風 → 泣き疲れて寝た
淡々とした文字なのに、手の震えまで見える気がした。
私は息がこぼれて、そのまま涙が落ちた。
「小さいとき、
ママが夜、散歩しながら
私を寝かせてくれた匂い。
ずっと……覚えてるよ」
赤ちゃんの寝息が、姉の胸の中で静かに揺れた。
その頭には、
やわらかい光の輪が、
確かに浮かんでいた。
――天使のわっかみたいに。
【完】




