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『天使のわっか』

掲載日:2025/11/30

『天使のわっか』


夜十時すぎ、玄関のドアがそっと開いた。


帰ってきた姉の髪が、ふわっと揺れる。


その瞬間――

「なんか違う」と、私は思った。


甘い匂い。

いつものシャンプーじゃない。


「ただいまー」


姉は笑っている。

でも、髪の先にまとわりついた夜風の匂いだけが、

妙に“よそ行き”だった。


翌日も、そのまた翌日も、

姉の香りは毎晩ちがった。


柑橘みたいな匂いの日。どこかの庭木のそばを通ったような。

薬草みたいな匂いの日。夜の公園の草むらを踏んだあとのような。

土に似た、湿った匂いの日。川べりの風を思い出させる。


どれも、姉の部屋にも、家のどこにもない匂い。


お年頃の妹は、

こういうことだけには敏感だった。


「……なんか、変だよね」


誰にも言わず、私はこっそり姉をつけることにした。



姉はバイト先とは逆方向へ歩いた。


街灯の下を抜けるたび、

髪の匂いが少しずつ混じってくる。


今日の匂いは……なんだろう。

柔らかいミルクみたいな、眠くなる匂い。


公園の前で、姉は立ち止まった。

あたりを見回すように目を細める。


私は木陰に隠れながら、

姉の動きを息を飲んで追う。


姉はベンチに腰を下ろし、

バッグの中にそっと手を伸ばした。


やわらかい白い布。

それが、ふくらんで揺れた。


心臓が跳ねる。


それは――赤ちゃんだった。


姉は静かに抱きかかえて、

その子の背中を、そっとさすっていた。

子守歌みたいな吐息で。


目をこらすと、

赤ちゃんの髪はうっすら光の輪みたいに生えていた。


まるで、天使のわっか。


私は木陰から出られず、

ただ見ていた。


姉は小さくつぶやく。


「……ごめんね。今日も寝つけないね」


その声は、

家で聞かせるどの声より優しかった。



家に帰ると、

私は勇気を出して聞いた。


「……お姉ちゃん。あの子、誰?」


姉は少しだけ、泣きそうな顔になった。


「バイト先の店の前で、

置き去りになってた赤ちゃん。

お母さん、迎えに来るって言ったのに……来なくて」


届ければ、きっと施設に行く。

でも姉は、それをどうしてもできなかった。


バイト終わりの夜道を、

毎晩ちがうルートで散歩していたのは、


赤ちゃんが落ち着く“夜風の匂い”を探していたから。


姉の髪に残った香りは、

全部、あの子が泣き止んだ匂いだった。


私は涙をこらえながら言った。


「……その匂い、私も知ってる」


姉が驚いて、こちらを見る。


姉はためらいながらスマホを差し出した。画面には簡素なメモが並んでいた。


1/12 川べり 土の匂い → 少し泣き止む

1/14 公園 ミルクの匂い → すぐ寝た

1/17 商店街 油の匂い → ダメ

1/19 教会裏 木の匂い → 泣き止む

1/22 橋の上 冷たい風 → 泣き疲れて寝た


淡々とした文字なのに、手の震えまで見える気がした。

私は息がこぼれて、そのまま涙が落ちた。


「小さいとき、

ママが夜、散歩しながら

私を寝かせてくれた匂い。


ずっと……覚えてるよ」


赤ちゃんの寝息が、姉の胸の中で静かに揺れた。


その頭には、

やわらかい光の輪が、

確かに浮かんでいた。


――天使のわっかみたいに。


【完】

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