少しの間手放した幸せ
まだ明るくなり始めたばかりの朝方、花咲家の庭には乾いた音が一定間隔で響いていた。
「はちじゅうさん、はちじゅうよん、はちじゅうごっ!」
そして、その音の回数を数える声。
恋有夜からは眠れないなどとクレームがきてはいるが、華蓮に一喝されてから、この様に蒼井は素振りによる鍛錬を始めた。
喧嘩戦法がいつまでも使える相手じゃない。この間の桔梗との戦いが、それを物語る。 桔梗の鎌使いは、素人の蒼井が見ても見とれてしまう美しさがある。無駄のない動きと、基礎的だが最大まで磨き上げられた1つ1つの技。今のままの蒼井では、防ぐことが出来てもそこから積極的に攻め込むことは難しいだろう。
ならばと始めた鍛錬だ。地道にコツコツと素振りを始めた蒼井は、いつになく充実した日々を過ごしている。
早寝、早起き、適度な運動、朝ご飯。生活リズムは完璧に整えられ、寧ろ健康的過ぎるといっても良い。
そんなとある日の朝、蒼井はいつもと変わらずに江木常高等学校へと登校する。少し余裕のある時間、華蓮、恋有夜の2人と共に。
しかし、やはりというか毎日素振りをするために早起きしている蒼井。健康的な生活リズムをとっているとはいえ、欠伸の1つくらい欠く。
「ふぁ……ああっ!」
「寝不足ですか?」
すかさずに聞いてくる華蓮。それは、話題をつくって蒼井から話したいという気持ちでもあり、心からの心配でもある。
可愛らしく整った顔に不釣り合いだが、見慣れているせいかなんなのか、似合っている眼帯。華蓮に顔を近付けられると思わず蒼井も赤くなる。
「白鳳! ち、近いって!!」
慌てて、手足をバタバタとさせながらその旨を華蓮に伝える。
すると、まさか今まで何も気にしていなかったのかキョトンとしてしまう華蓮。
「……」
数秒の間。
華蓮の隻眼には、蒼井の丁寧に整えられた髪や唇、凛々しい瞳などがかなりの近距離から流れ込んでくる。
「…………」
更に数刻。
「し、ししし、失礼しました!!」
華蓮は蒼井以上に手足をバタバタとさせながら、蒼井から遠ざかる。
「お前らは何をしているんだ?」
そんなやりとりを、少し引いたところから見ていた恋有夜。確かに、第三者が今のやり取りを見た感想はその通りだろう。お互いになんでそんな行動に走るのか、意図が分からない。
「「ああ、いや……」」
「は?」
そして、それ故に質問してみればはぐらかす。分からない奴らだ、と溜め息を吐いて仕方なく追求をやめる恋有夜。
それからも談笑は続く。たわいのない会話、それが、何日か虚ろな目で過ごしていた今の蒼井には堪らなく充実して感じられる。
いや、実際に充実しているのだろう。ただ少しの間手放したことによってありがたみを再認識したというだけで。
「白鳳」
「はい?」
「昨日のビンタ、効いたぜ」
くすりと笑いながら、華蓮の頭をわしゃわしゃと撫でる蒼井。誰しもが羨むストレートヘアーの華蓮だ、多少撫でても直ぐに治るだろう。
「どういう意味ででしょうか?」
一方で華蓮もまんざらではなさそうに笑いながら、そうやって蒼井に問い掛ける。
「意地が悪いな」
「お互い様ですよ」
「いや、だからお前らは一体……」
蒼井と華蓮は微笑みあって歩き続ける。背後で疑問を通り越し、混乱しつつある恋有夜にも気が付かないで。